41.水車のない製粉小屋
その日の朝、エリアスは庭の椅子で本を読んでいた。
買ったばかりの植物図鑑には、春から夏にかけて咲く花が数多く載っている。小さな青い花、星のような形の白い花、夕方になると香りが強くなる草花。
どれも育ててみたくなるが、庭の広さには限りがあった。
エリアスは図鑑を閉じ、目の前の花壇を眺めた。
つい先日まで土しか見えなかった場所に、小さな芽がいくつも並んでいる。
種を蒔くときは少し間隔を空けすぎたかと思ったが、今はこれでよかった気がしていた。
隣では、リュカが椅子の脚に寄りかかって眠っている。
日差しが暖かいのか、白い腹を半分ほど見せたまま動かない。
エリアスがその姿を眺めていると、門の外から声がした。
「エリアスさん、いらっしゃいますか?」
聞き覚えのある声だった。
「はい」
立ち上がって門へ向かうと、そこにはノアが立っていた。
普段の仕事着ではなく、薄い上着に動きやすそうなズボンを合わせている。
「おはようございます」
「おはようございます! 今日は母さんに午後から休みをもらったんです」
「そうなのですね」
「それで、昨日の製粉小屋のことなんですけど」
ノアは少し声を弾ませた。
「今の持ち主の方から、見に来てもいいって連絡があったそうですよ」
エリアスは目を瞬かせた。
「もう許可が下りたのですか?」
「はい。エマさんから鈴蘭亭に伝言が届いたんです。僕にも場所を案内してほしいって」
エリアスは安心した。
倉庫として使われている以上、勝手に立ち入るわけにはいかない。管理者の許可が取れたのなら、調査を進められる。
「ありがとうございます。では、午後からでしょうか」
「そうです。カイルさんも来るそうですよ」
ノアは庭を覗いた。
「あ、椅子が増えてる!」
「昨日、受け取ってきました」
「いいですね。ここでお茶を飲んだら気持ちよさそう」
「ええ。今朝もずっと座っていました」
ノアは椅子の横で眠るリュカを見つけ、笑った。
「リュカも気に入ってるみたいですね」
名前を呼ばれても、リュカは起きなかった。
「……かなり気に入っているようです」
エリアスが言うと、ノアは楽しそうに笑った。
「それじゃ、午後に迎えに来ます!」
「はい。お待ちしています」
ノアが帰っていくと、エリアスは庭へ戻った。
まだ少し時間がある。
調査の準備は昼からでも間に合うだろう。
彼は椅子へ腰を下ろし、植物図鑑の続きを開いた。
◇
昼過ぎ、エリアスはノアとカイルに連れられて街の南側へ向かった。
中央広場から細い通りへ入ると、住宅が少なくなり、小さな工房や倉庫が目立ち始める。
石を削る音。
木材を運ぶ荷車の軋み。
遠くから聞こえる職人たちの掛け声。
市場とはまた違った賑わいがあった。
「この辺りは初めてです」
エリアスが言うと、カイルが振り返った。
「そうだったか?」
「はい。北側へ行くことが多かったので」
「まあ、そうだよな。ギルドも鈴蘭亭も、あっちの方だし」
ノアが横から言った。
「でも、この辺も面白いお店が多いんですよ。鍛冶屋とか、革細工のお店とか」
「今度、ゆっくり見てみたいですね」
「案内します!」
ノアは嬉しそうに答えた。
しばらく歩くと、通りの端に大きな石造りの建物が見えてきた。
壁には修理の跡があり、屋根も一部が新しい木材へ替えられている。
建物の横には、切り出した石材が積まれていた。
「あそこです」
ノアが指差した。
「昔の製粉小屋」
エリアスは足を止めた。
現在は石工の倉庫として使われているらしいが、建物の形には昔の面影が残っていた。
片側の壁が大きく張り出し、その下には石造りの溝がある。
かつて水車が取り付けられていた場所なのだろう。
「……思っていたより大きいですね」
「昔はかなり立派な製粉小屋だったらしいぜ」
カイルが言った。
「この辺りの麦を、まとめて挽いてたって聞いたことがある」
ノアが頷く。
「母さんもそう言ってました」
三人が建物へ近づくと、入口の前にいた男性が手を振った。
「おう。あんたらがギルドから来た人たちか?」
「はい。レインフォードと申します」
エリアスが答えると、男性は大きな手を差し出した。
「石工組合のダリオだ。話は聞いてるよ」
日に焼けた顔に、短く刈った髪。
腕には細かな傷があり、作業着には白い石粉がついていた。
「古い建物を調べたいんだって?」
「ええ。外に残っている石の模様を確認したくて」
「構わんよ。ただし、崩れかけた壁には近づかないでくれ。中も、今は荷物でいっぱいだ」
「承知しました」
ダリオはノアへ目を向けた。
「……おや、お前さん」
「こんにちは!」
「鈴蘭亭の坊主じゃないか。大きくなったなあ」
ノアは少し照れたように笑った。
「もう二十歳ですよ」
「そうかそうか。俺の中じゃ、まだ小さい頃のままだよ」
カイルが横で笑う。
「ノア、昔ここで遊んでたんだってな」
「……たまにです」
ダリオは豪快に笑った。
「たまにどころじゃなかったぞ。よく裏の石段に座ってたもんな」
「ダリオさん!」
ノアが慌てて言う。
エリアスは二人のやり取りを聞きながら、口元を緩めた。
どうやら、この街では昔のことを隠すのは難しいらしい。
◇
建物の裏側へ回ると、地面が少し低くなっていた。
壁に沿って石段が続き、その先には草に覆われた小さな空き地がある。
かつて水車を動かしていた水路は、今ではほとんど埋まっていた。
「……ここです」
ノアが足を止めた。
「この辺に丸い石があったんですよ」
彼は周囲を見回した。
「でも、昔より草が増えてるな……」
カイルがしゃがみ込んだ。
「無理に探さなくていいぞ。足元も悪いしな」
「わかってます」
ノアは少し考え、建物の壁を見上げた。
「……たしか、あの窓の下だったと思うんです」
指差したのは、小さな四角い窓だった。
窓の下には、石材がいくつか積まれている。
ダリオが頷いた。
「ああ、その辺なら昔の石盤が埋まってたな」
「ご存じなのですか?」
エリアスが尋ねる。
「知ってるよ。俺がここを借りた頃からあった」
ダリオは積まれた石材へ歩いていった。
「ただ、今は上に荷物を置いちまってるからな。ちょっと待ってくれ」
彼は近くの作業員を呼び、二人で石材を移動させた。
エリアスも手伝おうとしたが、ダリオに止められた。
「いや、ここは俺たちでやる。石は持ち方を間違えると危ないからな」
「……わかりました」
エリアスは素直に下がった。
しばらくして、地面に埋まった丸い石が姿を現した。
直径は、エリアスの腕を広げたほど。
表面はかなり摩耗しているが、中央に彫られた模様は残っていた。
「……これです!」
ノアが声を上げた。
「昔見たのと同じ!」
エリアスは石盤へ目を向けた。
円の中に、花のような形が刻まれている。
ただし、祭殿の花形術式とは少し違っていた。
中央に小さな円があり、その周囲に三本の線が伸びている。
東側の観測施設にあった三枚の花弁とも異なる形だった。
「……少し、確認しても?」
エリアスがダリオへ尋ねる。
「触るだけなら構わんよ。壊さないでくれればな」
「ありがとうございます」
エリアスは石盤へ近づき、表面を調べた。
中央の円。
周囲に伸びる三本の線。
そして、外側へ刻まれた小さな文字。
文字はほとんど消えていたが、いくつか読み取れる。
『照』
『合』
エリアスは静かに息を吸った。
「……照合」
昨日、王都から届いたわけでもない。
誰かに教えられたわけでもない。
ただ、レオンハルトと調べていた古い図面に、同じ言葉があった。
三つ目の補助観測施設。
帰還。
分岐。
そして、照合。
「……あったんですね」
思わず呟いた。
カイルが隣にしゃがんだ。
「何かわかったか?」
「ええ。この石盤は、古い観測設備の一部だったようです」
「観測設備?」
「北の森で見つけた施設と、同じ仕組みだと思います」
カイルは石盤を見た。
「……こんな街の中にもあるのか」
「はい」
エリアスは周囲を見回した。
倉庫。
石段。
埋められた水路。
すべてが、長い時間をかけて姿を変えてきた。
けれど、その下には古い仕組みが残されている。
「……昔の人たちは、これを使って何をしていたんでしょう」
ノアが尋ねた。
エリアスは少し考えた。
「おそらく、森の魔力の流れを調べていたのでしょう」
「森の魔力を、ここで?」
「ええ。直接森へ行かなくても、離れた場所から状態を確認できるようにしていたのかもしれません」
ノアは感心したように石盤を見た。
「……そんな昔から、便利なものがあったんですね」
エリアスは頷いた。
ただ、その仕組みがなぜ使われなくなったのかは、まだわからなかった。
◇
エリアスは鞄から小さな観測器を取り出した。
銅板と水晶片を組み合わせた、手製の道具だ。
石盤から少し離れた地面へ置き、慎重に魔力を流す。
水晶の内部へ、淡い光が灯った。
カイルとノアが覗き込む。
「……動いたな」
「きれいですね」
エリアスは光の変化を確かめた。
地下には、ごく弱い魔力の流れがある。
北側から続き、石盤の下を通って、さらに南へ伸びている。
しかし、その流れは一定ではなかった。
短く三度。
二度。
一度。
そして、少し間を置いて別の反応が現れた。
短く二度。
エリアスの指が止まった。
「……これは」
旧林道の観測施設で確認した信号とも、東側の分岐観測施設で確認したものとも違っていた。
しばらく待つ。
再び、同じ反応が現れる。
三度。
二度。
一度。
そして、短く二度。
エリアスは手帳を取り出し、急いで書き留めた。
「……やはり、違う信号ですね」
カイルが尋ねる。
「これで三つ揃ったってことか?」
「可能性は高いです。ただ、まだ比較が必要です」
「じゃあ、これで全部わかるのか?」
「いえ。むしろ、これからです」
エリアスは石盤へ目を向けた。
三つの観測施設。
それぞれ違う役割。
そして、異なる信号。
ようやく、古い仕組みの一部が見えてきた。
ただし、これらの信号が中央調整部へ届いているのかどうかは、まだ不明だった。
ダリオが腕を組んだ。
「……なあ、ひとつ聞いていいか?」
「はい」
「それ、うちの倉庫に何か影響があるのか?」
エリアスは顔を上げた。
「今のところ、危険な反応はありません」
「そうか。それならいいんだが」
ダリオは石盤を見た。
「昔からこの辺り、地面が少し沈みやすくてな。石材を置く場所には気をつけてるんだ」
「……そうなのですか」
「ああ。特に、この石盤の向こう側はな」
ダリオは地面の一角を指差した。
そこは周囲より少し低く、草の生え方も違っていた。
「昔、荷車の車輪がはまったことがある。それ以来、重いものは置かないようにしてる」
エリアスはその場所を見た。
地下の空洞。
古い水路。
そして、照合観測施設。
今後調べるうえで、地盤の状態も重要になるだろう。
「……地盤調査の方にも相談してみます」
エリアスが言うと、ダリオは頷いた。
「頼むよ。建物が崩れたりしたら困るからな」
「もちろんです」
エリアスは観測器を停止した。
これ以上の調査は、専門の技師と相談してからにした方がよい。
今は、必要な記録が取れただけで十分だった。
◇
夕方、三人は鈴蘭亭へ戻った。
ノアは厨房へ直行し、ミラに今日の出来事を話し始めた。
「母さん! あの石、まだあったよ!」
「そうかい。よかったね」
「しかも、昔の魔法の仕組みだったんだって!」
ミラは少し驚いた。
「へえ。あんなところに?」
「うん!」
ノアは興奮した様子で説明を続けた。
エリアスとカイルは食堂の席へ腰を下ろした。
カイルが水を飲みながら言った。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「今日の調査、結構進んだよな」
「ええ。三つ目の観測施設が確認できたのは大きいと思います」
「これで森の問題も、少しは解決に近づいたか?」
エリアスは少し考えた。
「……そうですね。少なくとも、仕組みを理解するための材料は増えました」
「そっか」
カイルは頷いた。
「じゃあ、次は何をするんだ?」
「まずは、今日の記録をレオンハルトさんとセドリック様に共有します。それから、三つの観測施設の信号を比較してみたいですね」
「また調査か」
カイルは笑った。
「ほんと、お前は飽きないな」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
カイルは楽しそうに言った。
「でも、まあ、俺も付き合うけどな」
エリアスは少し笑った。
「ありがとうございます」
そこへノアが料理を運んできた。
「お待たせしました!」
皿には、香草を使った鶏肉料理と温かな野菜が盛られている。
エリアスはスプーンを手に取った。
今日も、よく歩いた。
調査の成果もあった。
そして、何より、友人たちと一緒に過ごす時間が楽しかった。
◇
その夜、エリアスは新しい家の書斎で、三つの観測施設の記録を並べていた。
旧林道の帰還観測施設。
東側の分岐観測施設。
そして、南側の照合観測施設。
それぞれの信号には違いがある。
けれど、共通する部分もあった。
短く三度。
二度。
一度。
その基本的な周期は、三か所すべてに残されている。
エリアスは手帳へ書き留めた。
『基本信号は共通。追加部分に差異あり。』
それから、もう一度記録を見直した。
旧林道では、最後に短く一度。
南側では、短く二度。
東側では、最初から異なる反応が現れている。
単純な番号とは言い切れない。
しかし、何らかの識別や役割の違いが反映されていることは確かだった。
エリアスは筆を置いた。
机の端には、銀色のランプが置かれている。
古い観測器。
六つの境界石。
そして、花形の中央調整部。
今夜は、リュカの力を借りずに確認できる範囲だけ調べるつもりだった。
エリアスはランプへ少量の魔力を流した。
内部の結晶が淡く光る。
三度。
二度。
一度。
そして、短く二度。
エリアスは目を細めた。
「……こちらにも、届いていますね」
南側の照合観測施設で確認した信号と同じだった。
それなら、少なくとも古い観測網の一部は、今も情報をやり取りしているのだろう。
ただ、その情報が中央調整部へどのように伝わっているのかは、まだわからない。
エリアスはランプの光を消した。
机の横では、リュカが小さく丸くなって眠っている。
今日はよく歩いた。
自分も少し疲れている。
「……今日は、ここまでにしましょう」
エリアスは手帳を閉じた。
窓の外では、庭の木が風に揺れていた。
明日は、少しゆっくり過ごそう。
庭の椅子で本を読むのもいい。
マルタに、花の育て方をもう少し教わるのも楽しそうだった。
エリアスは書斎の明かりを落とし、リュカを抱き上げた。
まだ知らないことは多い。
けれど、フィオーレでの暮らしには、調べ物以外にも大切なものがたくさんあった。
そのことを、最近は自然に思えるようになっていた。




