第40話 古い製粉小屋と、届かなかった報告
ベネット工房を訪ねたエリアスは、店先に置かれた椅子を見て、思わず足を止めた。
昨日選んだものだった。
表面には丁寧に油が塗られ、木目がいっそう美しく浮かび上がっている。背もたれの角度も、脚の長さも、見た目には何も変わっていない。それなのに、昨日よりずっと立派な家具に見えた。
「お、来たな」
奥からベネットが出てきた。
「ちょうど仕上がったところだ。座ってみな」
「ありがとうございます」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
座面は滑らかで、背もたれへ体を預けても軋まない。
「とてもいいですね」
「だろう。脚の裏も調整してあるから、多少地面が凸凹でも使いやすいはずだ」
ベネットは満足そうに椅子を叩いた。
「ただし、雨ざらしにはするなよ。長持ちさせたいなら、使わないときは屋根の下だ」
「はい。大切にします」
「それで、持って帰れるか?」
エリアスは椅子を持ち上げた。
思っていたより重いが、運べないほどではない。
「大丈夫そうです」
「無理するなよ。届けてもいいんだから」
「ありがとうございます。でも、今日は自分で運んでみます」
ベネットは少し不思議そうな顔をした。
「……まあ、好きにしな」
エリアスは椅子を抱え、店を出た。
通りを歩いていると、何人かの住民が振り返った。
小さな椅子を大事そうに抱えた青年が歩いているのだから、少し目立つのかもしれない。
それでも、エリアスは気にしなかった。
自分で選び、自分で買った椅子だ。
家まで運ぶことも、何となく楽しみに思えた。
◇
新しい家へ戻ると、庭の木陰に椅子を置いた。
小さな白い花をつけた木の下。
以前から置かれていた木製のベンチとは少し離れた場所で、花壇もよく見える。
エリアスは座ってみた。
朝の日差しは柔らかく、風も穏やかだった。
正面には、芽を出したばかりの花壇がある。
その向こうでは、リュカが落ち葉を追いかけていた。
「……いい場所ですね」
思わず呟く。
しばらく座っていると、隣の庭からマルタが顔を出した。
「あら、もう買ってきたの?」
「はい。先ほど受け取ってきました」
「いい椅子じゃない。ベネットさんのところ?」
「ええ」
マルタは満足そうに頷いた。
「やっぱりね。あの人の作る家具は丈夫だから」
「書斎の本棚も、ベネットさんが作られたそうです」
「ああ、そうだったわね」
マルタは懐かしそうに笑った。
「ルーヴェルさん、あの本棚ができたときは、それはもう喜んでいたのよ」
「本がお好きだったのですね」
「ええ。読むのも、集めるのもね。奥さんには何度も、これ以上増やさないでって言われていたみたいだけど」
エリアスは笑った。
あの書斎を見れば、ルーヴェルがどれほど本を大切にしていたかよくわかる。
「……ところで、マルタさん」
エリアスは少し考えてから尋ねた。
「ルーヴェルさんは、古い水路についてよく調べていらしたのですか?」
「そうねえ。昔の街のことが好きだったから」
マルタは生け垣に手を添えた。
「でも、最初から水路を調べていたわけじゃなかったと思うわ」
「そうなのですか?」
「ええ。たしか、庭の木が弱ったのがきっかけだったのよ」
エリアスは思わず、頭上の木を見上げた。
白い花をつけた、古い木。
今は元気に枝を広げている。
「……この木ですか?」
「そう。ある年、急に葉の色が悪くなってね。水をあげても肥料をやっても、なかなか元気にならなかったの」
マルタは少し考え込んだ。
「それで、土のことを調べ始めたんだったかな。庭の下に何かあるんじゃないかって」
エリアスは静かに頷いた。
地下の魔力が薄くなっている場所。
古い水路。
そして、土が沈んだ北側の塀。
すべてが同じ庭に残されている。
「……木は、どうやって元気になったのでしょう」
「さあねえ。あるときから少しずつ持ち直したのよ」
マルタは首を傾げた。
「ルーヴェルさんも理由はわからないって言ってたわ。ただ、その頃から庭の下の音を気にしなくなった気がする」
「……音が聞こえなくなったのですか?」
「たぶんね。少なくとも、前みたいに夜中に庭へ出て確かめることはなくなったわ」
エリアスは木の幹へ目を向けた。
古い樹皮には、年月を重ねた深い皺が刻まれている。
この木は、何十年もここで育ってきたのだろう。
地下で何が起きているのか、言葉で伝えることはできない。
けれど、根を張る場所の変化は、人よりずっと早く感じ取っていたのかもしれなかった。
「……面白いお話をありがとうございます」
「昔のことだから、あまり当てにしないでね」
マルタは笑った。
「それより、せっかく椅子を買ったんだから、たまにはそこでゆっくり本でも読みなさいよ」
「はい。そうします」
「本当かしら」
マルタは少し疑わしそうな顔をした。
「あなた、いつも何か調べてるでしょう」
エリアスは返答に迷った。
マルタはその様子を見て笑い、自分の庭へ戻っていった。
◇
午後、エリアスは冒険者ギルドを訪れた。
目的は、南側にある古い製粉小屋の確認だった。
昨日、鈴蘭亭でノアから話を聞いた場所だ。
かつては水車を使って粉を挽いていたが、現在は石工の倉庫として使われているという。
受付のエマに事情を説明すると、彼女はすぐに台帳を確認してくれた。
「……ああ、こちらですね」
エマは地図の一角を指差した。
「現在は、石工組合が管理している建物です」
「中を見せていただくことはできますか?」
「所有者の許可が必要ですね。ただ、管理人の方は街にいらっしゃいますから、確認は取れると思います」
エリアスは頷いた。
「それでしたら、まずはお話を伺ってみます」
「調査の目的も説明しておいた方がいいですね」
エマは書類を一枚取り出した。
「こちらに簡単に記入していただけますか?」
エリアスは内容を確認した。
調査場所。
目的。
予定している作業。
危険がある場合の対応。
以前よりも、こうした手続きに慣れてきた。
王都では専用の部署が手配してくれることが多かったが、今は自分で確認している。
多少時間はかかるものの、その分、誰が何を管理しているのかよくわかる。
エリアスは最後の欄へ署名した。
「こちらでよろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます」
エマは書類を受け取った。
「それでは、石工組合へ連絡しておきます」
「よろしくお願いします」
「あと、カイルさんにも声をかけておきましょうか?」
「そうですね。予定が合えば、ご一緒していただけると助かります」
エマは頷いた。
「では、確認が取れ次第お知らせしますね」
エリアスは礼を述べ、ギルドをあとにした。
◇
その日の夕方、エリアスは鈴蘭亭で夕食を取っていた。
ノアが運んできたのは、鶏肉と根菜の煮込みだった。
湯気の立つ皿を前に、エリアスは思わず笑みを浮かべた。
「今日もおいしそうですね」
「ありがとうございます!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「そういえば、エリアスさん。昨日話してた製粉小屋、どうなりました?」
「今、調査の許可をお願いしているところです」
「ああ、やっぱり勝手には入れないんですね」
「ええ。今は石工組合の管理する倉庫ですから」
ノアは少し考えた。
「……僕、昔あそこで遊んでたんですよね」
「伺いました」
「でも、建物の中に入ったことはないんです」
エリアスはスプーンを止めた。
「……そうなのですか?」
「はい。裏の石段とか、外の広場で遊んでただけで」
「それなら、花の模様があったという石も、外に?」
「そうです!」
ノアは頷いた。
「建物の裏側だったと思います。地面に埋まってて、真ん中に変な模様があったんですよ」
「……なるほど」
エリアスは少し考えた。
もし外にあるのなら、建物内部へ立ち入らなくても確認できるかもしれない。
「その場所は、今も覚えていますか?」
「たぶん。昔とあんまり変わってなければ」
ノアは少し笑った。
「ただ、十年以上前のことなんで、あんまり自信ないですけど」
「それでも、助かります」
エリアスは頷いた。
「許可が取れたら、一緒に行っていただけますか?」
「もちろんです!」
ノアは嬉しそうに答えた。
そこへ、ミラが厨房から出てきた。
「……ノア」
「何?」
「その日はちゃんと仕事を片づけてから行くんだよ」
「わかってるって!」
ミラはため息をついた。
「昔から、ああいう古い建物が好きでね。小さい頃なんか、何度言っても見に行ってたんだよ」
「だって面白かったんだもん」
「面白いからって、崩れかけた壁に近づいていいわけじゃないだろう」
「今はもう大人だよ!」
「それなら、なおさら気をつけな」
エリアスは二人を見て、小さく笑った。
調査は、できるだけ安全な範囲で行おう。
ノアにとっても、懐かしい場所なのだから。
◇
その夜、王都の王宮では、アルベルト三世が一通の報告書を読んでいた。
向かいにはオスカーが立っている。
執務室の窓は閉じられ、暖炉には小さな火が入っていた。
「……補助観測施設が三か所、か」
アルベルトは報告書を机へ置いた。
「七十年前の記録と一致するのだな?」
「はい。魔導院から提出された資料によれば、そのようです」
「現在も動いている可能性は?」
「不明とのことです。ただ、中央調整部が機能していない状態でも、外部の観測施設だけが信号を送る場合があるそうです」
アルベルトはしばらく考えた。
「……フィオーレだったな」
オスカーが顔を上げる。
「はい?」
「エリアスが滞在している街だ」
「ええ。フィオーレですが」
国王は報告書の端を指で叩いた。
「この古い術式が作られた地域も、北方の辺境だろう」
「はい。ただ、具体的な場所については、まだ確認が取れておりません」
アルベルトは椅子へ深く腰を下ろした。
「……昔、エリアスが古い境界術式について調べていたことがあったな」
「ございました」
「何か言っていなかったか?」
オスカーは記憶を辿った。
エリアスが王都にいた頃、古い結界や魔力脈について研究していたことはよく覚えている。
ただ、そのすべてを理解していたわけではない。
「……以前、古い結界は魔力を閉じ込めるためのものではなく、自然の流れを整える仕組みではないか、とお話しされていたことがございます」
アルベルトは目を細めた。
「……そうか」
「その研究と今回の資料が関係しているかは、わかりませんが」
「いや。気になる話だ」
国王は報告書をもう一度手に取った。
「魔導院の研究責任者に、直接説明させよう」
「承知いたしました」
「それから、過去の調査地についても確認してくれ」
「はい」
アルベルトは少し考え、付け加えた。
「……ただし、エリアスにはまだ知らせなくていい」
オスカーは頷いた。
「陛下のお考えは承知しております」
「休暇を取りに行った先でまで、王宮の仕事を背負わせるわけにはいかん」
アルベルトは苦笑した。
「もっとも、あいつのことだから、何か面白いものを見つけて調べているかもしれんがな」
オスカーも、思わず小さく笑った。
「……その可能性は、十分にございます」
「だろう?」
国王は立ち上がった。
「まあ、今は好きにさせてやろう」
オスカーは頭を下げた。
アルベルトが執務室をあとにすると、オスカーは報告書を整理し始めた。
その最後のページには、古い研究記録の所在について短い注記があった。
『アルノルト・ヴェルナーによる最終報告書は、王立魔導院の保管記録に存在せず。』
オスカーはその一行で手を止めた。
最終報告書がない。
それなら、七十年前の研究は、どのように終わったのだろう。
そもそも、正式に終了したのだろうか。
オスカーは眉を寄せた。
まだ何もわからない。
ただ、必要な記録が欠けていることだけは確かだった。
彼は別の書類を取り出し、翌日の確認事項へ書き加えた。
『ヴェルナー最終報告書の所在確認。』
◇
翌朝、フィオーレの新しい家では、エリアスが庭の椅子に座っていた。
膝の上には、古い魔法の本ではなく、街の市場で買った植物の図鑑が開かれている。
リュカは足元で眠り、庭の木には小鳥がとまっていた。
エリアスはページをめくった。
春に咲く花。
夏に香る草。
秋に実をつける低木。
どれも、王都にいた頃には詳しく調べたことのないものばかりだった。
「……次は、この花もいいですね」
図鑑の中に描かれた、小さな青い花を指差す。
リュカは眠ったままだった。
エリアスは笑い、ページを閉じた。
庭の北側では、昨日までと変わらず、古い魔力の流れが続いている。
けれど、今朝はそれを調べるつもりはなかった。
今日は、ただ本を読んで過ごしたかった。
朝の日差しが、白い花をつけた木の枝を照らしている。
エリアスは椅子の背へ体を預けた。
しばらくすると、通りの向こうから子供たちの声が聞こえてきた。
フィオーレの一日が、ゆっくりと始まっていた。




