第39話 古い街の下に続く道
庭に置く椅子を探しに行こう。
そう決めていたはずなのに、エリアスは朝から台所の棚を眺めていた。
昨日作った野菜のスープが、まだ一食分ほど残っている。
温めれば朝食になるし、パンもある。食事には困らない。
問題は、そのパンをどうするかだった。
市場で買った胡桃のパンは、少し固くなっている。ノアなら、きっと上手に食べる方法を知っているだろう。
「……焼いてみましょうか」
薄く切ったパンを鍋へ並べ、弱火にかける。
表面が温まると、胡桃の香りが立った。
エリアスは焼き色を確かめ、皿へ移した。
昨日よりも少し手際がよくなった気がする。
スープを温め直し、食卓へ運ぶ。
リュカは椅子の上で、すでに自分の朝食を待っていた。
「お待たせしました」
鶏肉を取り分けると、リュカはすぐに食べ始めた。
エリアスも椅子へ腰を下ろす。
温めたパンは、外側が香ばしく、中はまだ柔らかい。
スープに浸すと、思った以上によく合った。
「……これは、おいしいですね」
ひとりで感心していると、リュカが顔を上げた。
「あなたの分は、もう食べましたよ」
リュカはパンを見つめたまま動かない。
エリアスは小さく笑い、食事を続けた。
朝食を終えると、庭へ出た。
花壇には昨日見つけた小さな芽が、いくつか増えている。
土の表面に並ぶ緑色の点を眺めていると、生け垣の向こうからマルタが顔を出した。
「あら、今日はずいぶん早いのね」
「おはようございます」
「おはよう。芽が出たでしょう?」
「はい。昨日より増えています」
「これから賑やかになるわよ」
マルタは花壇を覗き込み、満足そうに頷いた。
「ところで、今日は市場へ行くの?」
「ええ。庭に置く椅子を探そうと思っていまして」
「椅子?」
「はい。外で本を読めるようなものが欲しいんです」
マルタは少し考えた。
「それなら、家具屋のベネットさんのところへ行ってみたら? 丈夫なものを作る人だから」
「ありがとうございます。行ってみます」
「ただし、あの人は話し始めると長いわよ」
マルタは笑った。
「椅子ひとつ買うのに、木の種類から説明してくれるんだから」
エリアスは少し興味を持った。
「それは、楽しそうですね」
「……あなたなら、そう言うと思ったわ」
マルタは呆れたように笑い、隣家へ戻っていった。
◇
市場の南側にある家具屋は、通りから少し奥まった場所にあった。
店先には木製の椅子や小さな棚が並び、扉の横には手書きの看板が掛けられている。
『家具修理・注文製作 ベネット工房』
エリアスが店内へ入ると、木を削る音が聞こえてきた。
「こんにちは」
「はいよ。ちょっと待ってくれ」
奥から低い声が返ってきた。
しばらくして、背の高い男性が顔を出した。
五十代ほどだろうか。髪には白いものが混じり、袖には木屑がついている。
「何を探してる?」
「庭に置く椅子を探しています」
「庭用か。雨に当たる場所?」
「屋根の下に置く予定ですが、風で雨が入ることはあると思います」
「なら、柔らかい木は避けた方がいいな」
男性は店の奥へ歩き始めた。
「こっちに何脚かある」
並んでいたのは、背もたれの低い椅子だった。
形はどれも似ているが、木目や脚の太さが少しずつ違う。
「座ってみな」
エリアスは勧められた椅子へ腰を下ろした。
背もたれが緩やかに傾いていて、座り心地がよい。
「……いいですね」
「だろう?」
ベネットは満足そうに頷いた。
「ただ、その椅子は少し重い。頻繁に動かすなら、こっちの方がいい」
別の椅子へ移る。
今度は軽く、持ち上げるのも簡単だった。
けれど、背もたれの角度は最初の椅子の方が好みだった。
「……迷いますね」
「何に使うんだ?」
「庭で本を読んだり、お茶を飲んだりしたいと思っています」
「なら、長く座れる方がいい」
ベネットは迷わず最初の椅子を指差した。
「重さは大した問題じゃない。庭の中を毎日持ち歩くわけじゃないんだろ?」
「そうですね」
「だったら、座り心地で選びな」
エリアスはもう一度椅子へ座った。
しばらく背もたれへ体を預ける。
窓の外から風が入り、木の香りが漂ってきた。
「……こちらにします」
「よし。じゃあ、脚の裏を整えて、仕上げの油を塗っておくよ」
ベネットは椅子を持ち上げた。
「明日の午後なら渡せる」
「ありがとうございます」
エリアスは代金を支払い、受け取りの日時を確認した。
店を出ようとしたところで、ベネットが声をかけた。
「そういえば、どの辺に住んでる?」
「東側の住宅地です。以前、ルーヴェル夫妻が住んでいた家をお借りしています」
ベネットは手を止めた。
「……ああ、あの家か」
「ご存じなのですか?」
「知ってるも何も、書斎の棚を作ったのは俺だよ」
エリアスは驚いた。
「そうだったのですね」
「あの旦那、やたら本を持っててな。最初は小さな棚でいいって言ってたのに、結局壁一面になった」
ベネットは懐かしそうに笑った。
「本が増えるたびに呼ばれたよ」
「とても使いやすい棚です」
「そりゃよかった」
男性は少し考えたあと、付け加えた。
「あの家なら、北側の塀に気をつけな。昔、地面が沈んだことがある」
「マルタさんからも伺いました」
「そうか。ならいい」
ベネットは頷いた。
「塀の修理を頼まれたとき、旦那が妙なことを言ってたんだよ」
「妙なこと?」
「地下から音がするってさ」
エリアスは顔を上げた。
「……音ですか」
「ああ。雨の日になると、石を叩くような音が聞こえるって」
ベネットは肩をすくめた。
「俺は水が流れてるんだろうって言ったんだけど、本人はずいぶん気にしてたな」
「それは、いつ頃のお話でしょう」
「五年……いや、六年くらい前かな」
エリアスは考え込んだ。
マルタも、ルーヴェルが庭の下に古い水路があるのではないかと調べていたと話していた。
しかし、石を叩くような音というのは初耳だった。
「……貴重なお話をありがとうございます」
「大した話じゃないよ」
ベネットは笑った。
「椅子、明日までに仕上げておくからな」
「よろしくお願いします」
エリアスは店をあとにした。
◇
昼過ぎ、エリアスはクロイス古書店へ立ち寄った。
昨日の調査結果について、レオンハルトともう少し話したかったからだ。
店へ入ると、奥の机には見慣れない大きな地図が広げられていた。
「こんにちは」
「……ちょうどよかった」
レオンハルトは顔を上げた。
「お前に見せたいものがある」
「何でしょう?」
「旧市街の測量図だ」
エリアスは机へ近づいた。
地図には、現在のフィオーレとは少し違う街並みが描かれている。
建物の数は少なく、道も今より細い。
中央広場の位置は同じだが、その南側には広い空き地があった。
「……随分と違いますね」
「ああ。百年以上前のものだ」
レオンハルトは地図の端を指差した。
「ここを見ろ」
細い線が、北から南へ続いていた。
旧林道の観測施設があった場所から、街の東側を通り、さらに南へ伸びている。
「……水路でしょうか」
「おそらくな。ただ、普通の排水路とは違うようだ」
「どうしてですか?」
「高低差が合わない」
レオンハルトは別の地図を広げた。
現在の地形を示したものだった。
「ここから水を流すなら、普通は西へ向かうはずだ。ところが古い線は、途中で南へ曲がっている」
エリアスは二枚の地図を見比べた。
確かに、不自然だった。
水は低い方へ流れる。
けれど、この線は一度わずかに高い場所を通っているように見える。
「……水だけを流していたわけではないのかもしれませんね」
「俺もそう思う」
レオンハルトは頷いた。
「魔力を通すための経路なら、必ずしも地形に沿う必要はない」
エリアスは地図へ目を戻した。
そのとき、南側の小さな印が目に留まった。
四角い印だった。
昨日見つけた東側の観測施設と、よく似た記号が使われている。
「……こちらは?」
エリアスが尋ねると、レオンハルトは指を止めた。
「そこが気になっていた」
「建物でしょうか」
「地図には名前がない。ただ、この時代には何かあったらしい」
エリアスは位置を確かめた。
現在の街並みに重ねると、その場所は鈴蘭亭からそれほど離れていない。
南側の住宅地。
古い倉庫や工房が並ぶ一角だった。
「……鈴蘭亭の近くですね」
「ああ」
「実は先日、鈴蘭亭の床下でも古い石の溝を見つけたんです」
レオンハルトが顔を上げた。
「石の溝?」
「ええ。『帰』という文字が残されていました」
「……なるほど」
レオンハルトは地図を見つめた。
「それなら、南側の観測点とつながっている可能性もあるな」
エリアスは頷いた。
「ただ、今のところ場所は特定できていません」
「そうだな」
レオンハルトは地図を畳んだ。
「まずは、その辺りに昔どんな建物があったか調べてみよう」
「ええ」
エリアスは手帳へ記録した。
南側の観測施設。
旧水路の終点。
そして、鈴蘭亭の床下に残された石の溝。
それぞれの位置が、少しずつ近づいてきていた。
◇
夕方、エリアスは鈴蘭亭へ向かった。
厨房からは、料理のいい香りが漂っている。
ノアが食堂の机を拭いていた。
「あ、エリアスさん!」
「こんにちは」
「今日は何にします?」
「夕食をいただこうかと思って」
「もちろんです!」
ノアは笑顔で頷いた。
エリアスが席へ着くと、奥からミラが出てきた。
「いらっしゃい。今日は随分歩いた顔をしてるね」
「市場と古書店へ行ってきました」
「それなら、お腹も空いたでしょう」
ミラは厨房へ戻り、しばらくして温かな料理を運んできた。
鶏肉と野菜の煮込みだった。
「今日はこれがおすすめだよ」
「ありがとうございます」
エリアスはスプーンを手に取った。
柔らかく煮えた野菜に、香草の香りがよく合っている。
「……おいしいですね」
「そうかい。よかった」
ミラは満足そうに頷いた。
食事をしながら、エリアスはふと思い出した。
「そういえば、ミラさん」
「何だい?」
「この辺りに、昔、倉庫のような建物があったことをご存じですか?」
「倉庫?」
「ええ。古い地図に、鈴蘭亭の南側へ続く道と、小さな建物の印がありまして」
ミラは少し考えた。
「……南側なら、古い製粉小屋があったよ」
「製粉小屋ですか?」
「ああ。私が子供の頃には、もう使われてなかったけどね」
エリアスは顔を上げた。
「どの辺りでしょう?」
「南の通りを少し行ったところさ。今は石工の倉庫になってるはずだよ」
ノアが口を挟んだ。
「ああ、あの古い建物?」
「知っているのですか?」
「はい。子供の頃、あそこでよく遊んでました」
ノアは少し笑った。
「母さんには近づくなって言われてましたけど」
「当たり前だろう。古い石壁が崩れかけてたんだから」
ミラは呆れたように言った。
「……そんな場所へ入っていたんですか?」
エリアスが尋ねると、ノアは少し気まずそうに笑った。
「中には入ってないですよ。外から見てただけです」
「本当かい?」
「……たぶん」
ミラは大きく息を吐いた。
エリアスは思わず笑ってしまった。
「……その製粉小屋について、もう少し教えていただけますか?」
ミラは頷いた。
「いいよ。ただ、私も詳しくは知らないけどね」
そう言って、昔の街の様子を話し始めた。
製粉小屋は、昔は水車を使って粉を挽いていたらしい。
けれど、街の水路が使われなくなり、しばらくして閉鎖された。
その後、建物だけが残り、倉庫として使われるようになったという。
「……水路が使われなくなったのは、いつ頃でしょう」
エリアスが尋ねると、ミラは首を傾げた。
「さあね。私が生まれる前のことだと思うよ」
ノアが思い出したように言った。
「そういえば、あの建物の裏に、丸い石があったんです」
「丸い石?」
「はい。地面に埋まってるみたいで、真ん中に変な模様がありました」
エリアスは手を止めた。
「……どんな模様でしたか?」
「うーん……花みたいな形だったかな」
ノアは少し考えた。
「でも、普通の花じゃなくて、丸の中に線が何本もある感じで」
エリアスは静かに息を吸った。
花形の術式。
旧林道の施設。
東側の分岐観測施設。
そして、南側の古い製粉小屋。
同じ仕組みが、そこにも残されている可能性があった。
「……今も、その石はありますか?」
「たぶん。何年も行ってないから、わかりませんけど」
ミラがエリアスを見た。
「調べに行くのかい?」
「ええ。できれば一度、確認してみたいと思っています」
「だったら、今の持ち主に話を通した方がいいね」
「そうですね」
エリアスは頷いた。
「明日、ギルドで確認してみます」
ノアが楽しそうに言った。
「僕も一緒に行きましょうか?」
「……ノア」
ミラが低い声で呼ぶ。
「子供の頃みたいに、勝手に入っちゃ駄目だからね」
「わかってるって!」
ノアは笑った。
エリアスも小さく笑いながら、残りの夕食を食べた。
◇
夜、新しい家へ戻ると、リュカが玄関で待っていた。
「ただいま戻りました」
エリアスが声をかけると、白い獣はすぐに足元へ寄ってきた。
抱き上げると、柔らかな毛が腕に触れる。
「今日は、少し面白い話を聞きましたよ」
リュカは首を傾げた。
「昔の製粉小屋が、街の南側にあったそうです」
リュカはじっとエリアスを見つめた。
「そこにも、古い魔法の仕組みが残っているかもしれません」
リュカは小さく鳴いた。
エリアスは笑った。
「もちろん、まだ決まったわけではありませんけどね」
書斎へ入り、今日の記録を整理する。
古い街の測量図。
南側へ続く線。
製粉小屋の跡。
そして、ノアが覚えていた花の模様。
それらを書き留めると、エリアスは手帳を閉じた。
机の端には、オスカーから届いた手紙が置かれている。
返事はすでに出していた。
今度は、いつ届くだろうか。
エリアスは便箋を手に取り、少しだけ眺めた。
王都にいた頃は、手紙を待つという経験がほとんどなかった。
オスカーとは毎日顔を合わせていたし、何か用事があればすぐに話せた。
今は違う。
遠く離れた場所から届く言葉を、こうして楽しみにしている。
「……不思議なものですね」
エリアスは便箋を引き出しへしまった。
明日は、製粉小屋について調べてみよう。
ただし、その前に家具屋へ椅子を受け取りに行く約束がある。
忘れないように、手帳の端へ書き加えた。
『午後 ベネット工房にて椅子受け取り』
エリアスは満足そうに頷いた。
明日は、庭で本を読めるかもしれない。
◇
同じ頃、王都の王宮では、オスカーが新しい報告書を受け取っていた。
差出人は、王立魔導院の古代術式研究部門。
先日、国王アルベルト三世が確認を命じた資料についての報告だった。
オスカーは封を開き、内容を読み進めた。
古い境界術式の再調査。
七十年前の改修計画。
そして、補助観測施設の存在。
そこまでは、すでに聞いていた内容だった。
しかし、最後の項目で手が止まった。
『旧式観測網の再起動条件について、再検証を要する。』
その下には、短い説明が添えられている。
『中央調整部の機能が失われた状態でも、外部観測施設が独立して信号を送る可能性がある。』
オスカーは眉を寄せた。
外部観測施設。
独立した信号。
それらが何を意味するのか、彼にはまだ理解できなかった。
けれど、気になることがあった。
魔導院は、なぜ今になってこの研究を再開したのだろう。
七十年前の記録を整理するだけなら、ここまで詳細な再検証は必要ないはずだ。
オスカーは報告書を机へ置いた。
明日、陛下へお見せしよう。
それから、必要なら魔導院へもう少し詳しい説明を求めることになる。
そう考えていると、窓の外から夜の鐘が聞こえてきた。
オスカーは時計を見た。
もう遅い。
彼は机の上の書類を整理し、立ち上がった。
ふと、引き出しの中にあるエリアスからの手紙を思い出す。
フィオーレでの暮らしを楽しそうに綴った、あの手紙。
オスカーは小さく息を吐いた。
「……エリアス様なら、どうお考えになるのでしょう」
誰もいない執務室に、その声だけが残った。
やがて明かりが消え、王宮は静かな夜を迎えた。




