第38話 三つ目の印が示すもの
ノアに教わった野菜のスープは、翌朝になってもおいしかった。
鍋を温め直すと、香草の香りが台所に広がる。昨日よりも野菜が柔らかくなっていて、パンを浸して食べるとちょうどよい。
エリアスは食卓に置いた小さな帳面へ、気づいたことを書き留めた。
『塩は最後に調整する。じゃが芋は少し大きめに切る』
自分の字を見て、少し考える。
料理の手順を書くために用意した帳面だったが、気づけば研究記録と似た書き方になっていた。
「……これは、もう少し簡単でよさそうですね」
向かいではリュカが鶏肉を食べ終え、満足そうに尾を動かしている。
エリアスは残りのスープを飲み、食器を片づけた。
今日はカイルと会う約束がある。
東側で見つかった石造りの構造物について、ギルドから連絡が届くことになっていた。
ただし、立ち入りが認められなければ、無理に調べるつもりはない。
その場合は市場へ寄り、庭に置く小さな椅子でも探そうと思っていた。
玄関で靴を履いていると、窓の外にマルタの姿が見えた。
彼女は生け垣越しに、エリアスの庭を眺めている。
「おはようございます」
「あら、おはよう。今日はお出かけ?」
「ええ。ギルドへ行ってきます」
「そう。じゃあ、帰ってきたら庭を見てみて」
マルタは花壇を指差した。
「何かありましたか?」
「端っこの方、芽が出てるわよ」
エリアスは思わず庭へ出た。
マルタが示した場所へしゃがみ込む。
湿った土の表面から、小さな緑色の芽が顔を出していた。
まだ葉の形もはっきりしないほど小さい。
「……本当ですね」
「昨日はなかったでしょう?」
「はい」
「これからどんどん出てくるわよ」
マルタは楽しそうに笑った。
エリアスは芽へ顔を近づけた。
地中の魔力を確かめようとして、途中で手を止める。
今は、そんなことをしなくてもよかった。
「踏まないように気をつけます」
「それが一番ね」
マルタは頷き、自分の庭へ戻っていった。
エリアスはもう一度、小さな芽を見た。
つい数日前まで、そこには土しかなかった。
その変化が、なぜかひどく嬉しかった。
◇
冒険者ギルドへ着くと、カイルはすでに受付の近くで待っていた。
「お、来たな」
「お待たせしました」
「いや、俺も今来たところだ」
カイルは壁に掛けられた掲示板へ顎を向けた。
「北の薬草採取、また一部再開したらしいぜ」
「ええ。先日、エマさんから伺いました」
「ルド爺さんも喜んでたよ。ようやく苗を植え直せるって」
エリアスは少し安心した。
北の森で魔力の異常が起きて以来、薬草の育ちに影響が出ていた。
ルドの畑も、そのひとつだった。
「よかったです。今度、様子を見に行きたいですね」
「ああ。何か手伝えることもあるだろうしな」
そこで、受付のエマが二人を呼んだ。
「レインフォードさん、カイルさん。お待たせしました」
机の上には、地図と二枚の書類が用意されていた。
「東側の構造物について、地盤調査の担当者から回答がありました」
エリアスは地図を覗き込んだ。
「立ち入れそうでしょうか」
「一部だけなら、ということでした。ただし、構造物そのものへ近づくことは認められていません」
エマは地図の一角を指差した。
「こちらの高台から、周囲を確認することは可能だそうです。足元の土が比較的安定している場所で、昔の見張り道が残っています」
カイルが身を乗り出した。
「この道なら知ってるぞ」
「本当ですか?」
「ああ。昔、薬草採取で通ったことがある。今はあまり使われてないけどな」
エマは頷いた。
「それでしたら、道の状態も確認しながら進んでいただけますね」
「もちろん。危ない場所には入らないよ」
エリアスも頷いた。
「観測だけで十分です。構造物を動かす必要はありません」
「ありがとうございます」
エマは書類を二人へ差し出した。
「それから、今回の調査にはギルドの地盤調査員が同行します」
「調査員の方が?」
「はい。ちょうど別の仕事で近くへ行く予定があるそうです」
カイルが少し笑った。
「そりゃ心強いな。俺の杖一本より、よっぽど確かだ」
「カイルさんの経験も頼りにしていますよ」
エマがそう言うと、カイルは照れたように頭を掻いた。
「まあ、任せとけ」
◇
北門で合流した調査員は、テレサと名乗った。
三十代半ばほどの女性で、短くまとめた黒髪と、使い込まれた革の道具鞄が印象的だった。
腰には測量用の細い棒を下げ、背中には縄を巻いている。
「あなたがレインフォードさんね」
「はい。よろしくお願いします」
「テレサよ。セドリック様のところでも地盤調査を請け負ってるの。今日は地面のことなら私に聞いて」
テレサは二人を見比べた。
「ただし、魔法のことはさっぱりだから、そっちはお願いするわ」
「承知しました」
「俺は道案内担当だな」
カイルが言うと、テレサは笑った。
「それと、荷物持ちもね」
「……結構重い仕事じゃないか」
三人は北門を出て、東へ伸びる細い道を進んだ。
しばらくすると、街の喧騒が遠ざかり、草地の向こうに林が見えてきた。
昨日までの雨で、地面にはまだ湿った場所が残っている。
テレサは何度か足を止め、測量棒で地面を確かめた。
「こっちは駄目ね。表面は乾いてるけど、下が柔らかい」
彼女は別の道を指差した。
「少し回りましょう」
カイルが頷く。
「そっちなら高台へ出られるはずだ」
エリアスは二人の後ろを歩いた。
森の空気には、若葉の匂いが混じっている。
小鳥の声が頭上から聞こえ、ときおり風が草を揺らした。
リュカは今日は家で留守番をしている。
地盤が不安定な場所へ連れてくるより、安全な家で休ませた方がよいと判断したからだ。
少し寂しくもあったが、これも必要なことだった。
◇
高台へ出ると、眼下に小さな石造りの構造物が見えた。
周囲は草に覆われ、壁の一部が崩れている。
屋根はほとんど残っていなかった。
その姿は、旧林道で見つけた観測施設によく似ている。
「……あれですね」
エリアスが言うと、テレサは頷いた。
「そう。地盤調査のときに見つかった建物よ」
彼女は道具鞄から地図を取り出した。
「この辺りは地下に空洞があるみたいで、近づくと危ないの。前の調査では、ここから先へは行かなかった」
「……なるほど」
エリアスは建物を見つめた。
旧林道の施設より少し小さい。
けれど、石の組み方や入口の形はよく似ていた。
同じ時代に作られた可能性は高そうだった。
「ここからなら、魔力を観測できます」
エリアスは鞄から小さな水晶片を取り出した。
地面へ置き、慎重に魔力を流す。
水晶の内部へ、淡い光が灯った。
しばらくして、細い光が北へ向かって伸びる。
その先には、古い建物があった。
「……反応がありますね」
テレサが興味深そうに覗き込んだ。
「これ、何を見てるの?」
「地下に流れる魔力の向きです」
「水の流れみたいなもの?」
「似ています。ただ、こちらは地中の魔力を通る経路を調べています」
テレサは少し考えた。
「……じゃあ、あの建物の下にも何か通ってるのかしら」
「その可能性があります」
エリアスは水晶へ目を戻した。
光は弱く、安定している。
旧林道の施設で見たような、強い信号はまだ現れなかった。
しばらく観測していると、カイルが口を開いた。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「この建物、前のやつとちょっと違わないか?」
エリアスは顔を上げた。
「どのあたりでしょう」
「屋根の残ってる部分だよ。前の施設は平らだったろ。でも、こっちは少し斜めになってる」
エリアスは建物を見た。
確かに、残された石材の形が違っていた。
入口の上には、短い庇のようなものも見える。
「……何か理由があったのでしょうか」
テレサが双眼鏡を取り出した。
「ちょっと貸してあげる」
「ありがとうございます」
エリアスは双眼鏡を受け取り、建物を覗いた。
入口の上部。
風化した石の表面。
その中央に、小さな彫刻が残っていた。
「……花の模様?」
思わず呟く。
それは、北の祭殿で見た花形の術式とよく似ていた。
ただし、花弁の数が違う。
祭殿では六枚の花弁が中心を囲んでいた。
こちらには、三枚しかない。
エリアスは双眼鏡を下ろした。
「……興味深いですね」
カイルが尋ねる。
「何かわかったか?」
「入口の上に、古い彫刻があります。祭殿の術式に似ていますが、少し形が違うんです」
「……同じ施設じゃないのか?」
「役割が違ったのかもしれません」
エリアスは水晶へ目を戻した。
そのとき、内部の光が短く揺れた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
そして、長く一度。
旧林道で確認した信号とは違っていた。
「……今のは」
エリアスはすぐに手帳を取り出した。
再び反応を待つ。
しばらくして、同じ光が現れた。
一度。
一度。
長く一度。
「……別の信号ですね」
カイルが覗き込んだ。
「前のやつと違うのか?」
「はい。周期が違います」
エリアスは記録を見比べた。
旧林道の施設では、三度、二度、一度のあと、短い一度が続いていた。
しかし、こちらでは最初から反応が異なっている。
同じ仕組みを使っていても、送っている情報は違うらしい。
テレサが腕を組んだ。
「……建物が二つあるなら、それぞれ違う番号をつけてるんじゃないの?」
エリアスは顔を上げた。
「番号、ですか」
「そう。うちの地盤調査でも、観測地点ごとに番号をつけるのよ。そうしないと、どこの記録かわからなくなるから」
エリアスは考え込んだ。
レオンハルトも、似たことを言っていた。
観測施設が複数ある場合、識別用の信号を送ることがある。
今回の反応も、その一種なのだろうか。
「……あり得ますね」
エリアスは頷いた。
「ただ、どの部分が番号なのかは、まだわかりません」
「だったら、ほかの場所も調べてみればいいじゃない」
テレサはあっさり言った。
「三つくらいあれば、比べられるんでしょう?」
エリアスは思わず笑った。
「……確かに、そうですね」
難しく考えすぎていたのかもしれない。
今の段階では、まず比較できる記録を増やすことが大切だった。
◇
調査を終え、三人は高台の木陰で休憩することにした。
カイルが水筒を取り出し、勢いよく水を飲む。
「いやあ、今日は暑いな」
「歩いたからでしょう」
テレサが答えた。
「さっきから一番元気に歩いてたの、あなたじゃない」
「そりゃ、道案内だからな」
カイルは笑った。
エリアスは鞄から小さな包みを取り出した。
朝、鈴蘭亭で買った胡桃のパンだった。
「よろしければ、どうぞ」
「お、いいのか?」
「はい」
カイルは遠慮なくひとつ受け取った。
テレサも礼を言って受け取る。
三人でパンを食べながら、草地の向こうに広がる景色を眺めた。
遠くにはフィオーレの屋根が見える。
白い壁。
赤茶色や緑色の屋根。
その向こうには、湖が淡く輝いていた。
「……きれいな街ですね」
エリアスが呟くと、テレサが頷いた。
「そうでしょう。私はずっとここで働いてるけど、飽きないわ」
「地盤調査のお仕事は、長いのですか?」
「もう十年になるかな。最初は父の手伝いだったのよ」
テレサはパンをちぎった。
「この辺りは昔から地下の空洞が多くてね。家を建てるときも、道を直すときも、調べることが多いの」
「……古い水路の影響でしょうか」
「それもあるでしょうね」
テレサは遠くの街を見た。
「ただ、全部が人の作ったものとは限らないわ。もともと地下水が通ってる場所も多いから」
エリアスは頷いた。
魔力の流れと、水の流れ。
似ている部分はあっても、同じものではない。
だからこそ、両方を調べる必要があるのだろう。
「……今度、地盤調査の記録を見せていただいてもよろしいですか?」
エリアスが尋ねると、テレサは笑った。
「もちろん。面白いものは少ないけどね」
「いえ、とても参考になると思います」
テレサは少し嬉しそうに頷いた。
「それなら、今度仕事場へ来るといいわ」
エリアスは礼を述べた。
こうしてまた、頼れる人がひとり増えた。
◇
夕方、フィオーレへ戻ったエリアスは、そのままクロイス古書店へ向かった。
レオンハルトは店の奥で、本の整理をしていた。
「……戻ったか」
「はい。東側の構造物を確認してきました」
エリアスは手帳を広げた。
建物の位置。
花形の彫刻。
そして、新しく観測した信号。
レオンハルトは黙って記録を読んでいた。
しばらくして、顔を上げる。
「……三枚の花弁か」
「ええ。祭殿のものとは少し違いました」
「なるほどな」
レオンハルトは棚から古い本を取り出した。
「以前見つけた図面にも、似た記号があった気がする」
ページをめくり、ある箇所で指を止めた。
そこには、三枚の花弁を持つ小さな印が描かれていた。
「……これでしょうか」
「ああ」
エリアスは覗き込んだ。
印の横には、古代文字で短い言葉が添えられていた。
『分岐観測』
エリアスはその文字を読んだ。
「……分岐観測」
「主流路から分かれた魔力の状態を調べるための施設だろう」
レオンハルトは図面を広げた。
「旧林道の施設が帰還流路を観測する場所なら、東側の施設は分岐部分を見ていたのかもしれない」
「……それなら、信号が違うことにも説明がつきますね」
「ああ」
エリアスは記録を見比べた。
旧林道の施設。
東側の施設。
役割の違う二つの観測点。
これで、古い図面に描かれていた三か所のうち、二か所に相当する建物が見つかったことになる。
「……残るのは、南側ですね」
レオンハルトは頷いた。
「ただし、場所はまだはっきりしない」
「ええ」
エリアスは手帳を閉じた。
「急がず、調べていきましょう」
レオンハルトは少し笑った。
「お前の口からその言葉を聞くとはな」
「……何かおかしいでしょうか」
「いや。いい変化だと思っただけだ」
エリアスは少し首を傾げた。
けれど、レオンハルトはそれ以上何も言わず、本を棚へ戻した。
◇
夜、新しい家へ戻ると、庭の花壇が月明かりに照らされていた。
朝に見つけた小さな芽は、まだそのままの姿で残っている。
エリアスはしゃがみ込み、そっと覗き込んだ。
「……無事ですね」
当然のことなのに、少し安心した。
玄関を開けると、リュカがすぐに寄ってきた。
「ただいま戻りました」
白い獣はエリアスの足元を一周し、居間へ向かう。
エリアスは上着を脱ぎ、台所へ立った。
今日は自分で簡単な夕食を作るつもりだった。
野菜を切り、鍋へ入れる。
ノアに教わったとおり、火加減を確かめながら煮込んでいく。
しばらくすると、台所に温かな香りが広がった。
「……悪くなさそうですね」
エリアスは味見をした。
少し薄い。
塩をひとつまみ加える。
もう一度味見する。
「……うん。これなら」
思わず笑みがこぼれた。
夕食を終えたあと、エリアスは書斎へ向かった。
今日の調査記録を整理するためだった。
旧林道の観測施設。
東側の分岐観測施設。
そして、まだ見つかっていない南側の観測点。
少しずつ、古い結界の仕組みが見えてきていた。
ただ、すべてを急いで調べる必要はない。
エリアスは手帳へ今日の結果を書き留め、机を片づけた。
そのとき、引き出しの中にあるオスカーからの手紙が目に入った。
彼は少し笑った。
「……今日は、ちゃんと休みますよ」
便箋へそう声をかけ、引き出しを閉めた。
リュカが寝台の上で丸くなっている。
エリアスは明かりを落とし、寝室へ向かった。
明日は、庭に置く椅子を探しに行こう。
それから、鈴蘭亭でノアに料理の続きを教わるのもいい。
そんなことを考えながら、静かな夜を迎えた。
◇
一方、王都の王立魔導院では、年配の研究員が古い図面を前に考え込んでいた。
机の上には、七十年前のヴェルナーの報告書が広げられている。
若い研究員が、新しい資料を持って入ってきた。
「先生、見つかりました」
「何をだ?」
「補助観測施設の配置図です」
若い研究員は紙を広げた。
そこには、三つの四角い印が描かれていた。
それぞれの横に、短い古代文字が添えられている。
『帰還』
『分岐』
『照合』
年配の研究員は目を細めた。
「……三つ目は、照合か」
「はい」
若い研究員は続けた。
「帰還流路と分岐流路の情報を集め、中央調整部へ送るための施設だったようです」
「なら、最後の施設が動いていなければ、中央は正しい判断ができない」
「……その可能性があります」
年配の研究員は、図面の中央へ目を向けた。
そこには、花形の術式が描かれている。
「……照合するものが失われたのなら、いくら魔力を流しても意味がない」
若い研究員は頷いた。
「では、今もどこかに三つ目の施設が残っているのでしょうか」
「わからん」
年配の研究員は図面を畳んだ。
「だが、もし残っているなら……」
そこで言葉を止めた。
古い術式の仕組みが、少しずつ明らかになり始めていた。
しかし、それを動かしてよいかどうかは、別の問題だった。
年配の研究員はしばらく考えたあと、静かに言った。
「……この件は、王宮へ報告しておこう」




