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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第2章 花咲く家と、森の古い約束

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第37話 花壇の約束と、二つ目の観測所


 エリアスが朝食の支度を終えた頃、庭から軽い物音が聞こえた。


 最初は風で何かが倒れたのかと思ったが、続いて石の転がる音がした。


 窓の外を覗く。


 昨日、花壇の縁に並べた小石が、ひとつだけ外れていた。


 そして、そのすぐ隣にリュカが座っている。


「……リュカ」


 エリアスが呼ぶと、白い獣は顔を上げた。


 前脚には、湿った土が少しついていた。


「昨日、お約束しましたよね」


 リュカは首を傾げた。


 エリアスは庭へ出て、動かされた石を元の位置へ戻した。


 花壇の中には、マルタから譲り受けた種が蒔いてある。芽が出るまでは、なるべく土を動かさずにおきたい。


「何か気になるものでもあるのですか?」


 尋ねると、リュカは花壇の北側へ歩き、そこに座り直した。


 以前、地下の魔力が薄くなっていると気づいた場所だった。


 エリアスはしゃがんだ。


「……こちらですか」


 庭の地下には、今も古い魔力の流れが残っている。


 ただ、今日の様子は少し違った。


 流れそのものは安定しているのに、特定の場所だけ、わずかな振動が伝わってくる。


 エリアスは指先を土へ近づけた。


 短く三度。


 二度。


 一度。


 その後に、短い一度。


 昨日までと同じ周期だった。


 けれど、最後の一度だけが、以前よりもはっきりしている。


「……旧林道の観測所と、同じですね」


 昨夜、セドリックから届いた報告を思い出した。


 旧林道の観測施設でも、最後の信号が強まっているという。


 偶然ではないだろう。


 ただし、だからといって庭を掘り返す理由にはならない。


 エリアスは小さな観測器を取り出し、花壇から少し離れた石畳の上へ置いた。


 記録用の水晶が淡く光る。


「ここで様子を見ましょう。土は動かしませんからね」


 リュカは観測器へ鼻先を近づけたあと、花壇の縁から離れた。


 エリアスはその様子に安心し、立ち上がった。


 庭の木には、朝の光が差し込んでいる。


 葉の間から落ちる影が、まだ小さな花の苗を揺らしていた。


「……まずは朝食ですね」


 エリアスが声をかけると、リュカはすぐに家の方へ走っていった。


 どうやら、その言葉には迷わず従うらしい。


     ◇


 午前中、エリアスは冒険者ギルドへ向かった。


 昨日の調査報告について、エマへ確認したいことがあったからだ。


 受付には数人の冒険者が並んでいた。


 エリアスは列の最後につき、順番を待つ。


 前にいた男性は、薬草採取の依頼書を手にしていた。


「北の畑、もう採取に入っていいんだって?」


「一部だけですが、許可が出ています」


 エマが説明している。


「まだ立ち入りを控えていただきたい区画もあるので、依頼書に記載された範囲を守ってください」


「了解。あそこは薬草がよく育つから助かるよ」


 男性は依頼書を受け取り、受付を離れた。


 エリアスはその会話を聞きながら、少し安堵した。


 ルドの畑だけでなく、周辺の薬草地も少しずつ回復しているようだった。


「レインフォードさん、お待たせしました」


 エマが顔を上げる。


「こんにちは」


「こんにちは。今日は何かご用でしょうか?」


「以前申請した、旧林道の調査についてなのですが」


 エリアスは鞄から記録を取り出した。


「新しい観測点を探すために、周辺の地図をもう少し詳しく見せていただけないかと思いまして」


 エマは頷いた。


「それでしたら、古い測量図が残っているかもしれません」


「測量図ですか」


「ええ。数年前の地盤調査で使ったものです」


 エマは奥の書庫へ向かい、しばらくして筒状に丸められた地図を持って戻ってきた。


 受付の横にある机へ広げる。


「こちらです」


 地図には、旧林道の周辺が細かく描かれていた。


 地面の高低差。


 崩れやすい斜面。


 古い石垣の位置。


 そして、地中に空洞があると推定された場所。


 エリアスはひとつずつ確かめた。


「……こちらの印は?」


「地盤調査で、石造りの構造物が確認された場所です」


 エマが指差したのは、旧林道の観測施設から少し東に離れた地点だった。


「以前は古い貯水槽だと思われていたそうです。ただ、地表から詳しく調べることができず、そのままになっています」


 エリアスは地図を見つめた。


 旧林道の施設。


 東側の構造物。


 そして、街へ続く古い水路。


 位置関係を考えると、東側の構造物も同じ仕組みに関わっている可能性があった。


「……この場所へは、立ち入れますか?」


「道はありますが、途中の斜面が崩れやすいそうです。調査するなら、改めて許可を取る必要がありますね」


「そうですか」


「カイルさんとご一緒ですか?」


「そのつもりです」


 エマは少し考えた。


「でしたら、先に地盤調査の担当者へ確認しておきます。安全な経路がわかるかもしれませんから」


「ありがとうございます」


 エリアスは丁寧に礼を述べた。


 すると、エマは少し声を落とした。


「……それから、レインフォードさん」


「はい?」


「最近、北の森について問い合わせが増えているんです」


「問い合わせ?」


「ええ。街の結界が安定してから、森の異変も落ち着いたと思っている方が多いようで」


 エマは受付の奥に置かれた依頼書の束へ目を向けた。


「以前は立ち入りを控えていた場所へ、そろそろ入ってもいいのではないか、と」


 エリアスは考え込んだ。


 確かに、街の暮らしは少しずつ元に戻り始めている。


 けれど、古い祭殿の中心部分は、今も機能していない。


 森全体が安全になったわけではなかった。


「……現時点では、まだ慎重に判断した方がいいと思います」


 エリアスは答えた。


「魔力の流れが安定している場所もありますが、調査できていない区域が残っていますから」


 エマは頷いた。


「そうですよね」


「立ち入りを再開する場合も、少しずつ範囲を広げる方がよいでしょう」


「わかりました。ギルド長にも伝えておきます」


 エマは記録を受け取った。


「ありがとうございます。こういうことは、現地を調べた方の意見が一番参考になりますから」


 エリアスは小さく頭を下げた。


 ギルドを出る頃には、昼の鐘が鳴り始めていた。


     ◇


 午後、エリアスはクロイス古書店を訪れた。


 店内には客が二人いたが、レオンハルトは奥で資料を整理している。


「こんにちは」


「……来たか」


 レオンハルトは顔を上げた。


「ちょうど、お前に見せたいものがある」


「何でしょう?」


「昨日の観測術式についてだ」


 机の上へ広げられたのは、古い地図と、小さな紙片だった。


 エリアスは椅子へ腰を下ろした。


「……こちらは?」


「七十年前の調査資料の写しだ。以前、魔導院にいた頃に手元へ残していた」


 レオンハルトは紙片を指差した。


「当時は何の役にも立たないと思っていたが、今見ると少し違う」


 そこには、複数の四角形が線で結ばれた図があった。


 中央には大きな円。


 その周囲に、六つの小さな円。


 さらに外側には、三つの四角形が配置されている。


「……観測施設が、三か所?」


 エリアスが呟くと、レオンハルトは頷いた。


「そう読める」


「ただ、これまで見つけたのは旧林道の施設だけです」


「ああ。残りの二か所が、今も残っているかはわからない」


 エリアスは地図へ目を向けた。


 旧林道の施設を示す位置。


 そして、その東側と南側に描かれた小さな印。


 午前中、ギルドで見せてもらった地盤調査の地図を思い出した。


「……東側の施設なら、心当たりがあります」


 レオンハルトが顔を上げた。


「どこだ?」


「旧林道から少し東へ進んだ場所です。地盤調査で石造りの構造物が確認されているそうで」


 エリアスは手帳を開き、簡単な位置図を描いた。


 レオンハルトはそれを覗き込む。


「……確かに近いな」


「ええ。ただ、まだ現地を確認したわけではありません」


「それでも、調べる価値はありそうだ」


 レオンハルトは古い紙片をもう一度見た。


「もし三か所あったのなら、信号の最後につく短い反応も説明できるかもしれない」


「観測施設ごとに、異なる番号を送る仕組みですね」


「ああ」


 エリアスは考えた。


 旧林道の施設で、最後の一度が強まっている。


 もし別の施設が動き始めれば、違う反応が現れる可能性がある。


 それを比較できれば、信号の意味も少しずつわかるだろう。


「……次の調査では、東側の施設を確認してみたいですね」


 エリアスが言うと、レオンハルトは頷いた。


「ただし、地盤には気をつけろ。古い構造物なら、足場が崩れている可能性がある」


「はい。ギルドにも確認をお願いしています」


「なら、許可が下りてからだな」


「ええ」


 エリアスは紙片を見つめた。


 七十年前のヴェルナー。


 彼は、これらの施設をどこまで調べていたのだろう。


 そして、なぜ補修工事を途中で止めたのか。


 新しい手がかりが見つかるたびに、その疑問は少しずつ大きくなっていった。


     ◇


 夕方、エリアスは鈴蘭亭へ立ち寄った。


 食堂にはいつもの賑わいが戻っている。


 ノアが厨房から顔を出した。


「あ、エリアスさん!」


「こんにちは」


「ちょうどよかった! 今日は料理の練習、できますよ!」


 エリアスは少し驚いた。


「今からですか?」


「はい。夕食の仕込みが一段落したので」


 ノアは嬉しそうに頷いた。


「今日は野菜のスープを作ってみませんか?」


「ぜひお願いします」


 二人は厨房の奥へ向かった。


 ミラは大きな鍋をかき混ぜながら、ちらりと二人を見た。


「エリアスさん、今日はノアの言うことをよく聞くんだよ」


「はい」


「母さん、何その言い方!」


「料理に関しては、今のところあんたの方が先生だろう?」


 ノアは少し得意げな顔になった。


「そうですよ。今日は僕が教えますから!」


 エリアスは笑いながら、用意された前掛けを身につけた。


 最初に行うのは、野菜を洗うことだった。


 人参。


 玉葱。


 じゃが芋。


 それぞれ皮を剥き、食べやすい大きさへ切っていく。


 エリアスは包丁を手に取り、慎重に人参へ刃を入れた。


「……このくらいでしょうか」


 ノアが覗き込む。


「もう少し小さくてもいいですね」


「わかりました」


 エリアスは次の人参を切った。


 しかし、今度は少し小さすぎた。


 ノアが笑う。


「いや、そこまで小さくしなくても大丈夫ですよ!」


「……加減が難しいですね」


「慣れですよ、慣れ」


 ノアは見本を見せた。


 包丁が軽やかに動き、野菜が同じ大きさに切り揃えられていく。


 エリアスは感心した。


「……見事ですね」


「そんな、大したことじゃないですよ」


 ノアは照れたように笑った。


「でも、毎日やってると自然にできるようになるんです」


 エリアスは頷いた。


 長年研究を続けてきた自分にも、似たような経験がある。


 最初は難しかった術式も、何度も扱ううちに自然と理解できるようになった。


 料理も同じなのだろう。


 違うのは、失敗すると夕食の味が変わってしまうことくらいだ。


「……では、もう一度やってみます」


「はい!」


 二人は並んで野菜を切り続けた。


     ◇


 スープが完成したのは、それから一時間ほど後だった。


 鍋の中には、柔らかく煮えた野菜が浮かんでいる。


 ノアが小皿へ取り分け、エリアスへ差し出した。


「まずは味見してみてください」


 エリアスはスプーンを手に取った。


 温かなスープをひと口飲む。


 野菜の甘みが広がり、後から香草の香りが感じられた。


「……おいしいです」


「本当ですか?」


「ええ。とても」


 ノアは嬉しそうに笑った。


「よかった!」


 ミラも鍋の中を覗いた。


「どれ、私にも」


 ノアが小皿へ取り分ける。


 ミラはひと口飲み、少し考えた。


「……うん、悪くないね」


「母さん、それ褒めてる?」


「褒めてるよ。少し塩を足せば、もっとよくなる」


 ノアは頷き、調味料の棚へ向かった。


 エリアスはその様子を眺めた。


 少しずつ味を確かめ、足りないものを加えていく。


 料理は、最初から完璧なものを作るのではなく、途中で調整しながら仕上げるものらしい。


「……面白いですね」


 思わず呟くと、ミラが笑った。


「料理のことかい?」


「はい。思っていた以上に、考えることが多いです」


「そうだよ。でも、難しく考えすぎなくてもいいんだ」


 ミラは鍋をかき混ぜた。


「味見して、おいしければそれでいいのさ」


 エリアスは少し笑った。


「……そうですね」


 ノアが再びスープを味見する。


「うん! 今度こそいい感じ!」


 ミラも頷いた。


「それなら完成だね」


 エリアスは鍋の中を見た。


 自分で切った野菜が、温かなスープになっている。


 それだけのことが、思った以上に嬉しかった。


     ◇


 食事を終え、新しい家へ戻る頃には、空がすっかり暗くなっていた。


 庭の門を開けると、リュカが玄関の前に座って待っていた。


「ただいま戻りました」


 エリアスが声をかけると、白い獣はすぐに近づいてきた。


 足元を一周し、軽く尾を振る。


「お留守番、ありがとうございました」


 家へ入り、上着を脱ぐ。


 台所には、ノアが持たせてくれたスープが小さな容器に入っていた。


 明日の朝、温めて食べよう。


 エリアスはそれを棚へしまい、書斎へ向かった。


 机の上には、今日の調査記録が置かれている。


 庭の観測器。


 旧林道の施設。


 そして、新たに見つかった東側の構造物。


 少しずつ、調査の範囲が広がっていた。


 エリアスは椅子へ腰を下ろした。


 今日の記録を整理しようと思ったが、ふと窓の外へ目を向けた。


 庭には、朝に植えた花の苗が並んでいる。


 暗がりの中でも、白い花がわずかに見えた。


 エリアスは手帳を閉じた。


「……今日は、十分ですね」


 オスカーの手紙を思い出す。


 その日の仕事を終える時間は、自分で決めてよい。


 今夜は、もう調べ物をしなくてもいいだろう。


 エリアスは机を片づけ、書斎の明かりを落とした。


 足元では、リュカが眠たそうに目を細めている。


「おやすみなさい」


 抱き上げると、白い獣は彼の腕へ顔を埋めた。


 エリアスは静かに寝室へ向かった。


     ◇


 同じ頃、王都の王立魔導院では、古い研究記録の整理が続けられていた。


 地下書庫の一室で、年配の研究員が大きな図面を広げている。


 その向かいには、若い研究員が立っていた。


「……やはり、観測点は三か所あったようです」


 若い研究員が言った。


「六つの境界石とは別に、外側に補助観測施設が設けられています」


 年配の研究員は頷いた。


「ヴェルナーの改修案にも、その記述がある」


「では、現在も残っているのでしょうか」


「わからん。七十年前の時点で、すでに一部は使われていなかったらしい」


 若い研究員は図面を見つめた。


 中央の花形術式。


 六つの境界石。


 そして、三つの補助観測点。


 それらが、複雑な線で結ばれている。


「……もし、今も動いていたら?」


 若い研究員が尋ねた。


 年配の研究員は少し考えた。


「観測施設が再び動き始めたのなら、中央調整部が何らかの信号を送っている可能性がある」


「中央調整部は、失われたのでは?」


「そのはずだ」


 年配の研究員は図面の中央へ目を向けた。


「……だからこそ、妙なのだ」


 若い研究員は黙った。


 しばらくして、年配の研究員が別の紙を取り出した。


 そこには、七十年前の記録から抜き出した短い文章が残されている。


『第七標は、失われたのではない。』


 その下の数行は、黒く塗りつぶされていた。


 ただ、最後に小さな文字が残っている。


『……帰還の時を待つ。』


 若い研究員は息を呑んだ。


「……帰還?」


 年配の研究員は答えなかった。


 ただ、図面の中央に描かれた花形の術式を見つめていた。


 古い結界は、何を待っているのか。


 そして、七十年前の研究者たちは、何を知っていたのか。


 その答えは、まだ記録の奥に眠っていた。


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