第36話 鈴蘭亭の床下に眠るもの
鈴蘭亭の休業日は、朝から騒がしかった。
「ノア! その箱は二階の物置だよ!」
「わかってる!」
「わかってるなら、どうして階段の下に置くんだい!」
「あとで運ぼうと思ったんだってば!」
玄関を開けたエリアスは、思わず足を止めた。
普段は客の笑い声や食器の音で賑わう食堂に、今日は大小さまざまな木箱が並んでいる。
床には古い布が敷かれ、壁際には掃除道具と工具が置かれていた。
その真ん中で、ノアが大きな箱を抱えている。
「あっ、エリアスさん!」
ノアは彼の姿を見つけると、ほっとしたような顔になった。
「来てくれて助かりました!」
「おはようございます。ずいぶん大がかりですね」
「そうなんですよ。母さんが、せっかくだから全部片づけるって言い出して」
「年に一度くらいはやらないと、物が溜まる一方だからね」
厨房から出てきたミラが言った。
「エリアスさん、今日は悪いね。調べ物に付き合わせるつもりが、こっちの片づけまで手伝わせることになっちまって」
「いえ。私の方こそ、物置を見せていただくのですから」
エリアスは袖をまくった。
「何から始めましょうか」
ノアが勢いよく手を挙げた。
「まず、あの奥の棚を動かしたいんです!」
「その前に中身を出すんだよ!」
ミラの声に、ノアは肩を落とした。
エリアスは二人のやり取りを聞きながら、つい笑ってしまった。
今日は、以前ミラが話していた古い石の溝を確認する予定だった。
宿の裏にある物置の床下で、昔の水路らしいものが見つかったという。
北の森から続く補助流路との関係はわからないが、旧市街の地図には鈴蘭亭の近くを通る線も描かれていた。
だからこそ、一度見ておきたかったのだ。
もっとも、今のところ調査より片づけの方が大変そうだった。
◇
物置には、古い家具や使わなくなった食器、季節ごとの飾りなどが詰め込まれていた。
奥の棚を空にするだけでも、かなりの時間がかかった。
「これ、まだ使うんですか?」
ノアが取り出したのは、片方の取っ手が欠けた大きな鍋だった。
ミラは一目見るなり首を振った。
「それは処分するよ」
「じゃあ、こっちの椅子は?」
「脚がぐらついてるね。直せるなら残しておこうか」
「母さん、それ、三年前にも同じこと言ってたよ」
「……そうだったかい?」
ミラは少し考え、椅子を処分する方へ置き直した。
エリアスはその隣で、古い木箱の中身を整理していた。
中には、陶器の皿や小さな燭台、真鍮の留め具などが入っている。
その底から、一冊の薄い帳面が出てきた。
「ミラさん、こちらは?」
「ああ、昔の仕入れ帳だね」
ミラが覗き込んだ。
「先代の頃のものかな。もう使わないけど、捨てるのも何だから残してあるんだ」
エリアスは表紙を軽く払った。
古い革が少し乾いている。
「大切な記録ですね」
「そう言われると、なんだか立派に聞こえるねえ」
ミラは笑った。
「中身は小麦粉を何袋買ったとか、卵の値段が上がったとか、そんなことばっかりだよ」
「それでも、当時の暮らしがわかりますから」
エリアスが答えると、ミラは少し驚いたように彼を見た。
「……なるほどね」
それから、帳面を受け取ってページをめくった。
「あら、懐かしい。これ、父さんの字だ」
声が少し柔らかくなった。
「この頃はまだ、私も厨房で皿を洗うくらいしかできなかったんだよ」
「母さんにもそんな時期があったの?」
ノアが横から尋ねる。
「当たり前だろう。生まれたときから宿を切り盛りしてたわけじゃないんだから」
「いや、なんとなく想像できなくて」
ミラは笑いながら帳面を閉じた。
「これは取っておこう」
その顔を見て、エリアスは少し嬉しくなった。
古いものを整理するのは、捨てるものを選ぶだけではない。
忘れかけていた記憶を、もう一度見つけることでもあるらしい。
◇
昼前になって、ようやく奥の床が見えるようになった。
物置の一角には、周囲と少し色の違う木板が並んでいる。
「ここだよ」
ミラが指差した。
「昔、床が沈んだときに直してもらったんだ。そのとき、下に石の溝があった」
エリアスはしゃがみ込み、板の継ぎ目を確かめた。
新しいと言っても、十年以上は経っているだろう。
ただ、釘はしっかりしており、板が腐っている様子もない。
「この板を外してもよろしいですか?」
「いいよ。どうせ中も掃除しておきたいからね」
「では、傷をつけないように外します」
エリアスが工具へ手を伸ばすと、ノアが隣にしゃがんだ。
「僕も手伝います」
「ありがとうございます」
二人で釘を抜き、板をゆっくり持ち上げる。
床下から、冷たい空気が流れ出した。
「……おお」
ノアが声を漏らした。
木板の下には、人の膝ほどの深さの空間があった。
土の上に細長い石が並び、その中央を浅い溝が通っている。
幅は、大人の手を二つ並べたほど。
水は流れていない。
しかし、石の表面には、長い間水に削られたような滑らかさが残されていた。
「……本当に、あったんですね」
ノアが感心したように言った。
「だから言っただろう」
ミラは腕を組んだ。
「それにしても、まだこんなにきれいに残ってるとはね」
エリアスは溝の縁へ目を向けた。
石の種類は、旧林道の観測施設で見たものによく似ていた。
しかも、ただの排水溝にしては、継ぎ目があまりにも正確だった。
ひとつひとつの石が、隙間なく組み合わされている。
「……少し、魔力を調べても?」
「危なくないなら構わないよ」
「はい。何かを動かしたりはしません」
エリアスは鞄から小さな観測器を取り出した。
銅板に水晶片を組み合わせた、いつもの道具だ。
床下へそっと下ろす。
すると、水晶の内部に細い光が灯った。
ノアが身を乗り出した。
「光った!」
「ええ。地下に魔力が流れています」
「すごいですね。こんなところにも魔法があるんだ」
エリアスは水晶の光を確かめた。
旧林道で観測したものと同じ性質だった。
ただし、反応はずっと弱い。
しかも、一定の間隔で明滅する信号は確認できなかった。
「……少し違いますね」
思わず呟く。
ノアが顔を上げた。
「何がですか?」
「森の近くで見つけた施設では、魔力が規則的に変化していたんです。でも、こちらはただ流れているだけのようです」
「じゃあ、関係ないんですか?」
「いえ。水路そのものはつながっている可能性があります。ただ、役割が違うのかもしれません」
エリアスは床下の石を観察した。
そのとき、溝の端に小さな窪みがあることに気づいた。
四角い穴だった。
石の表面に、何かをはめ込むための加工が施されている。
「……これは」
彼は身を乗り出した。
穴の周囲には、かすかな魔法文字が刻まれている。
長い年月でほとんど消えていたが、一文字だけ読み取れた。
『帰』
エリアスはその文字を見つめた。
帰す。
戻す。
古代魔法では、魔力を元の流れへ戻すときに使われることがある言葉だった。
「……エリアスさん?」
ノアが心配そうに声をかけた。
「ああ、すみません」
エリアスは顔を上げた。
「少し気になるものを見つけまして」
「何かあったんですか?」
「この石に、古い文字が残っているんです」
ノアは覗き込んだ。
「……どれですか?」
「ここです」
「……全然わかんないです」
正直な返答だった。
エリアスは思わず笑った。
「かなり薄くなっていますからね」
ノアは少し考え、真剣な顔で尋ねた。
「これって、宿に悪い影響があるんでしょうか」
エリアスは手元の観測器を見た。
魔力の流れは弱く、安定している。
少なくとも今すぐ危険な状態ではなかった。
「現在のところ、問題はなさそうです。ただ、古い設備なので、念のため記録を取らせてください」
「それならよかった」
ノアはほっとしたように息を吐いた。
ミラが二人の後ろから声をかける。
「難しいことはわからないけど、床が抜けないならそれでいいよ」
「はい。床板を戻す前に、下の状態も確認しておきます」
「頼んだよ」
エリアスは頷き、石の配置を丁寧に写し取った。
◇
昼食は、片づけを終えた食堂で取ることになった。
休業日とはいえ、ミラは大きな鍋いっぱいに野菜のスープを作ってくれていた。
焼きたてのパンも並び、食卓にはいつもより少人数ながら、温かな賑わいが戻っている。
「いやあ、助かったよ」
ミラがスープを取り分けながら言った。
「一人じゃ、とても今日中には終わらなかった」
「僕も頑張ったよ!」
ノアがすぐに言う。
「もちろん、あんたもね」
ミラは笑った。
「でも、途中で昔のおもちゃを見つけて遊んでたのは誰だったっけ?」
「……あれは、ちょっと懐かしくなっただけで」
「ずいぶん長い『ちょっと』だったねえ」
エリアスはスープを飲みながら、二人のやり取りを聞いていた。
今日は思っていた以上に働いた。
けれど、研究室で長時間資料を読んだあとの疲れとは、少し違う。
体を動かして、誰かと協力して、目に見える形で部屋が片づいていく。
それは気持ちのよい仕事だった。
「そういえば、エリアスさん」
ミラが尋ねた。
「うちの床下、結局何だったんだい?」
「まだ詳しくはわかりませんが、古い水路の一部だった可能性が高いです」
「昔の人は、ずいぶん丈夫に作ったんだねえ」
「そうですね。石の加工も非常に丁寧でした」
「使ってないのに残ってるんだから、大したものだよ」
ミラは何気なく言った。
エリアスはその言葉に、少し考え込んだ。
使われなくなっても残る設備。
誰も管理していないはずなのに、今も地下を流れ続ける魔力。
古い結界は、長い時間をかけて、少しずつ役割を失ってきたのだろう。
それでも、すべてが止まったわけではない。
北の祭殿も、旧水路の観測所も。
そして、この宿の床下も。
何かが今も働き続けている。
「……エリアスさん?」
ノアに呼ばれ、エリアスは顔を上げた。
「はい?」
「スープ、もう一杯どうですか?」
「ああ、ありがとうございます。いただきます」
ノアは嬉しそうに鍋へ向かった。
エリアスは笑いながら、空になった器を差し出した。
調べ物の続きは、午後からでも遅くない。
◇
その日の夕方、エリアスはレオンハルトを訪ねた。
古書店の奥には、珍しくカイルの姿もあった。
椅子に腰を下ろし、古い地図を広げている。
「お、エリアス!」
「こんにちは。カイルもいらしたのですね」
「ああ。レオンに呼ばれてさ」
カイルは地図を指差した。
「今度の調査で通れそうな道を見てたんだ」
レオンハルトが顔を上げる。
「ちょうどよかった。お前にも確認してほしいことがある」
「何でしょう?」
「旧林道の施設についてだ」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
レオンハルトは机の上へ一枚の図面を置いた。
「以前、お前が写してきた台座の文字を調べていたら、別の古い資料に似た形があった」
エリアスは図面を覗き込んだ。
中央には四角い装置が描かれている。
その下から、細い線が何本も伸びていた。
「……補助流路の観測装置ですね」
「そうだ。ただ、ここを見ろ」
レオンハルトは装置の下側を指差した。
そこには、短い文章が記されている。
『帰還流路は、主流路の状態に応じて開閉する。』
エリアスはしばらく考えた。
「……地下へ戻すための流れですね」
「ああ。お前が言っていた仮説に近い」
エリアスは今日、鈴蘭亭で見つけた石の溝について説明した。
レオンハルトは興味深そうに聞いていた。
「……その石に『帰』の文字があったのか」
「はい。まだ一文字だけですが」
「なら、帰還流路の一部だった可能性があるな」
カイルが二人の顔を交互に見た。
「……ちょっと待て。つまり、どういうことだ?」
レオンハルトは少し考え、地図を引き寄せた。
「簡単に言えば、森の地下を流れる魔力には、余分なものを別の場所へ戻すための道があったらしい」
「戻す?」
「ああ。魔力が一か所に溜まりすぎないようにな」
カイルは地図を見た。
「……水路みたいなもんか」
「似ているな」
レオンハルトが頷く。
「水が溢れそうになったら、別の溝へ流すだろう。それと同じ考え方だ」
「なるほどな」
カイルはようやく納得したようだった。
「じゃあ、その道がちゃんと使えれば、森の魔力も落ち着くってことか?」
エリアスは首を横に振った。
「可能性はあります。ただ、どこへ流れていくのか確かめないまま使うのは危険です」
「……そりゃそうか」
「街の地下につながっている以上、無理に流せば別の場所で問題が起きるかもしれません」
レオンハルトも頷いた。
「だから、まずは観測だ」
カイルは少し笑った。
「お前ら、慎重だなあ」
「以前、実験で失敗しているからな」
レオンハルトが平然と答えた。
カイルは一瞬黙り、それから肩をすくめた。
「……それなら、俺も文句は言えないな」
エリアスは二人を見て、小さく笑った。
昔の失敗を、今の判断に生かす。
それは研究者として、とても大切なことだと思った。
◇
話がひと段落した頃、店の扉が開いた。
入ってきたのは、辺境伯家の使者だった。
「レインフォード様とクロイス様は、こちらにいらっしゃいますか」
「私ですが」
エリアスが立ち上がると、使者は一通の封書を差し出した。
「セドリック様からお預かりしております」
エリアスは封を開け、内容を確認した。
そこには、旧観測施設の監視記録について、新しい報告が記されていた。
数日前から続いていた規則的な信号。
三度。
二度。
一度。
そして最後の短い一度。
その反応に、わずかな変化が確認されたという。
「……これは」
エリアスの表情が変わった。
レオンハルトが顔を上げる。
「どうした?」
「旧林道の観測施設で、信号の強さが変化したそうです」
「強さ?」
「はい。周期は同じですが、最後の一度だけ、以前より明確になっていると」
エリアスは手紙を机へ置いた。
レオンハルトはしばらく考えた。
「……識別信号が、安定してきたのかもしれないな」
「そうですね」
カイルが口を挟んだ。
「それって、いいことなのか?」
エリアスは少し考えた。
「少なくとも、急激な魔力の乱れは報告されていません。今すぐ危険な状態ではなさそうです」
「なら、ひとまず安心か」
「ええ。ただ……」
エリアスは手紙を読み直した。
最後の一度だけが強くなっている。
それは、何かが壊れかけているのではなく、逆に機能を取り戻し始めているようにも見えた。
「……次の調査では、別の観測点も探してみたいですね」
レオンハルトが頷いた。
「同じ信号を出す施設がほかにもあれば、比較できる」
カイルは地図を広げ直した。
「じゃあ、俺は通れそうな道を探しておくよ」
「ありがとうございます」
エリアスは頭を下げた。
調査の準備は、少しずつ整い始めていた。
◇
夜、新しい家へ戻ると、リュカが玄関まで迎えに出てきた。
白い獣はエリアスの足元を一周し、そのまま居間へ向かう。
「ただいま戻りました」
声をかけると、リュカは振り返って短く鳴いた。
エリアスは上着を脱ぎ、買ってきた胡桃のパンを台所へ置いた。
マルタに教えてもらった店のものだ。
昼過ぎには売り切れると聞いていたが、運よく最後の二つを買うことができた。
ひとつは明日の朝食に。
もうひとつは、マルタへお礼として持っていこう。
そう考えていると、リュカが足元へ寄ってきた。
「……あなたの分は、別にありますよ」
エリアスは小さく笑い、鶏肉を皿へ取り分けた。
リュカが食事をしている間に、エリアスは書斎へ向かった。
机の上には、セドリックから受け取った新しい資料が置かれている。
ヴェルナーの研究。
途中で止まった補修工事。
そして、王立魔導院の承認待ちという記録。
それらについて、今日もいくつかの手がかりが見つかった。
ただ、すべてをつなぐには、まだ情報が足りない。
エリアスは引き出しから、オスカーの手紙を取り出した。
最後の部分を、もう一度読む。
『その日の仕事を終える時刻も、休む日も、エリアス様が決めてよいのですから。』
エリアスは便箋を畳んだ。
「……今日は、ここまでにしましょう」
資料を閉じ、机の上を片づける。
明日は、庭の花壇をもう一度確かめたい。
ノアに料理を教わる約束もある。
それから、カイルと次の調査について相談する予定だった。
やることは多い。
けれど、そのすべてを一日で終える必要はない。
エリアスは書斎の明かりを落とした。
窓の外には、夜のフィオーレが静かに広がっている。
遠くの北の森では、古い結界が今も働き続けている。
そして、王都では七十年前の研究記録が、再び開かれている。
エリアスはまだ、その二つがどこまで深くつながっているのかを知らない。
ただ、古い魔法の謎は、少しずつ形を現し始めていた。
彼はリュカを抱き上げ、寝室へ向かった。
今夜はゆっくり休もう。
明日もまた、新しい一日が始まるのだから。




