第35話 失われた記録と、小さな約束
フィオーレの朝は、思いのほか賑やかだ。
エリアスが庭の花壇にしゃがんでいると、通りの向こうから牛乳売りの声が聞こえてきた。隣家ではマルタが洗濯物を干し、そのさらに向こうでは、誰かが犬を叱っている。
王都にいた頃、朝といえば魔導院の鐘が鳴り、決まった時刻に使用人が朝食を届けてくれた。
それに比べれば、この街の朝は少々気まぐれだった。
「さて、これでよさそうですね」
エリアスは小さな移植ごてを置いた。
昨日まで雨を含んでいた土が、ようやくほどよく乾いている。
マルタから譲り受けた種を蒔き、その隣には市場で買った白い花の苗を植えた。ルドからもらった薬草も、鉢から庭の一角へ移し替えてある。
それぞれの植物に必要な間隔を取り、最後に水を与えれば完成だった。
エリアスは水差しを傾けた。
細い水の筋が土へ吸い込まれていく。
魔法で水を集めれば一瞬で済む作業だが、今はその必要を感じなかった。
手で水を与えると、どの場所が乾いているのかよくわかる。
それに、こうしている時間が案外好きだった。
「……あっ」
背後で小さな音がした。
振り返ると、リュカが花壇の縁に前脚を載せていた。
白い鼻先のすぐ下には、植えたばかりの苗がある。
「リュカ。そこは入らないでくださいね」
リュカは動きを止めた。
「昨日もお話ししたでしょう?」
白い獣はエリアスを見つめ、それから、ゆっくりと前脚を引っ込めた。
「ありがとうございます」
そう言った直後、リュカは花壇の反対側から回り込もうとした。
「……そちらからも駄目です」
エリアスが言うと、リュカは不服そうに尾を振った。
どうやら、花壇の境界については意見が合わないらしい。
エリアスは少し考え、庭の隅に積んであった小石を集め始めた。
苗の周囲を低い石で囲めば、リュカにも場所がわかりやすくなるだろう。
ちょうど三つ目の石を置いたところで、門の外から声がした。
「おはようございます、エリアス殿」
セドリックだった。
今日は馬車ではなく、徒歩で来たらしい。普段の屋敷での装いよりも簡素な上着を着ている。
「おはようございます。こんな朝早くから、どうされたのですか?」
「近くに用事がありまして。その帰りに、少し寄らせていただきました」
セドリックは花壇へ視線を向けた。
「庭仕事の最中でしたか」
「ええ。ようやく種を蒔けたところです」
「それはよかった」
セドリックは門を開け、庭へ入ってきた。
エリアスは手袋を外した。
「お茶でもいかがですか?」
「いただきたいところですが、今朝は先にお話ししたいことがありまして」
セドリックの声はいつもどおり穏やかだったが、その手には薄い封筒が握られていた。
「昨日の記録について、少し確認が取れました」
エリアスは立ち上がった。
「……ヴェルナーの件ですか?」
「ええ」
セドリックは頷いた。
「ただ、思っていたものとは少し違いました」
◇
居間の丸い食卓に、二枚の書類が広げられた。
ひとつは昨日まで調べていた土地管理記録の写し。
もうひとつは、辺境伯家の旧会計帳から見つかった支出記録だった。
「こちらをご覧ください」
セドリックが指差したのは、七十年前の日付が記された一行だった。
『北方観測所補修費用、王立魔導院負担分返還。』
エリアスは文字を読み直した。
「……費用が返還されているのですか?」
「ええ。工事に使う予定だった資金の一部が、領地側へ戻されています」
「工事が中止されたのでしょうか」
「その可能性が高いでしょう。ただ、妙なのは日付です」
セドリックは別の記録を並べた。
「こちらが、中央調整部への接続について承認を求めた日付です。そして、返金が行われたのは、そのわずか六日後になります」
エリアスは考え込んだ。
六日。
王都とフィオーレの距離を考えれば、通常の書簡の往復にはもっと時間がかかる。
「……随分と早いですね」
「そうなのです。急使を用いた可能性もありますが、記録には残っていません」
「それとも、承認を求める以前から中止が決まっていたのでしょうか」
セドリックはゆっくり頷いた。
「私も同じことを考えました」
エリアスは会計帳を眺めた。
支出と返金。
それ自体は珍しい話ではない。
けれど、地方の古い観測所の補修に、王立魔導院が資金を出していたという事実は興味深かった。
「……ヴェルナーは、どなたの依頼で調査を始めたのでしょう」
エリアスが尋ねると、セドリックは少し困ったような顔をした。
「そこが、まだわからないのです。領地の記録では、彼を招いた経緯がはっきりしていません」
「王立魔導院から派遣されたのでしょうか」
「そう考えるのが自然ですが、派遣命令の写しもないのですよ」
セドリックは紅茶へ手を伸ばした。
「昔の書類ですから、失われていても不思議ではありません。ただ、残っている記録が妙に途中から始まっているのが気になります」
エリアスは窓の外へ目を向けた。
庭ではリュカが、花壇の周囲に並べた小石をひとつずつ嗅いでいる。
先ほどの苦労が報われたのか、今のところ中へ入る様子はなかった。
「……一度、当時の関係者について整理してみた方がよさそうですね」
エリアスが言うと、セドリックは頷いた。
「そこで、ひとつお願いがあります」
「何でしょう?」
「ヴェルナーの調査報告を、もう一度読み直していただけませんか」
「もちろんです」
「実は、以前お渡しした写しに、読み取れない部分がありまして」
セドリックは封筒から別の紙を取り出した。
そこには古い報告書の一部が写されている。
問題の箇所は、紙の端が傷んで欠けていた。
「魔法で補修できないかと考えたのですが、元の文字そのものが残っていないようなのです」
エリアスは紙を受け取った。
欠けた部分の前後には、短い文章が残されている。
『第七標について、祭殿の守護者に確認を求めるも、返答なし。』
その次の一行が、大きく失われていた。
そして、最後にこう続いている。
『以後、守護者を探すことは推奨しない。』
エリアスの指が止まった。
「……探すことを、推奨しない?」
「ええ」
セドリックは静かに答えた。
「以前の報告書には、守護者が失われたと記されていました。けれど、この文章だと、少し意味が違ってきます」
エリアスはもう一度読み返した。
守護者がいない。
守護者を探さない。
似ているようで、まったく違う言葉だった。
「……なぜ、探してはいけないのでしょう」
エリアスが呟くと、セドリックは首を振った。
「そこまでは、まだわかりません」
エリアスは紙を机へ戻した。
結論を急ぐべきではない。
そもそも、この文章がヴェルナー自身の判断なのか、別の人物から伝えられた指示なのかも不明だった。
「……原本を確認したいですね」
「私もそう思っています」
セドリックは少し考えた。
「領地の保管庫にあるはずですが、状態が悪く、現在は専門の職人に補修を依頼しています。閲覧できるようになったら、ご連絡します」
「ありがとうございます」
エリアスは頷いた。
それから、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、旧水路の観測所は、その後どうなっていますか?」
「魔導技師から報告がありました。昨日の時点では、魔力の流れに大きな変化はないそうです」
「それなら、ひとまず安心ですね」
「ええ。ただし、例の信号は続いています」
三度。
二度。
一度。
そして、最後に短く一度。
その周期的な反応が、今も地下で繰り返されている。
「……もう少し、観測を続けましょう」
エリアスが言うと、セドリックは安堵したように息を吐いた。
「そうしていただけると助かります」
◇
セドリックが帰ったあと、エリアスは庭へ戻った。
植えたばかりの花の苗は、午前の日差しを受けて葉を広げている。
リュカは石で囲った花壇の外側に座り、じっと土を見つめていた。
「……まだ諦めていませんか?」
エリアスが声をかけると、リュカは顔を上げた。
その表情があまりにも真剣だったので、エリアスは少し笑ってしまった。
「そこには何も埋まっていませんよ。種を蒔いたばかりですから」
リュカは前脚で石をひとつ押した。
石が少し動く。
「……それも駄目です」
エリアスは石を元の場所へ戻した。
そのとき、隣家のマルタが生け垣の向こうから覗いた。
「あら、まだ庭にいたのね」
「はい。少し片づけをしていました」
「ちょうどよかった。これ、持っていって」
マルタは小さな籠を差し出した。
中には、まだ温かい焼き菓子が入っている。
「今朝焼いたの。少し作りすぎちゃって」
「ありがとうございます」
エリアスが受け取ると、マルタは花壇へ目を向けた。
「あら、きれいに植えたのね」
「教えていただいたとおり、間隔を空けてみました」
「上手じゃない。あとはあんまり構いすぎないことね」
エリアスは少し考えた。
「……構いすぎない、ですか」
「そうよ。毎日掘り返して芽が出たか確かめてたら、育つものも育たないわ」
マルタは笑った。
「水をやって、陽に当てて、あとは待ってあげるの」
エリアスは花壇へ目を落とした。
湿った土の下には、まだ芽を出していない種が眠っている。
今は何も見えない。
けれど、だからといって育っていないわけではないのだろう。
「……そうですね」
エリアスは頷いた。
「待つことも、大切ですね」
「そういうこと」
マルタは満足そうに笑い、自分の庭へ戻っていった。
エリアスはしばらく花壇を眺めていた。
先ほどまで頭の中を占めていた古い報告書のことが、少しだけ遠のいた。
目の前にあるのは、今日植えたばかりの花の苗。
その世話をすることも、今の自分にとって大切な仕事だった。
◇
午後、エリアスはクロイス古書店へ向かった。
レオンハルトには、セドリックから借りた新しい資料について相談したかった。
店へ入ると、奥の机にはいつものように古い本が積まれている。
ただ、今日は少し様子が違った。
レオンハルトが、珍しく苛立った顔で書類を見つめていたのだ。
「……レオンハルトさん?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「ああ、エリアスか」
「何かありましたか?」
「いや。少し面倒なことになってな」
レオンハルトは書類を机へ置いた。
王立魔導院の印章が押された封書だった。
エリアスは目を留めた。
「……魔導院からですか?」
「ああ」
レオンハルトは短く答えた。
「昔の研究記録について、問い合わせが来た」
「問い合わせ?」
「私が在籍していた頃の実験についてだ。今になって、使用した資料や術式の確認をしたいらしい」
エリアスは少し驚いた。
レオンハルトが魔導院を離れてから、すでに何年も経っている。
それなのに、突然当時の研究について確認が来たという。
「……何か理由は書かれていましたか?」
「古い研究記録の整理だそうだ」
レオンハルトは苦々しく笑った。
「便利な言葉だな、整理というのは」
エリアスは返答に迷った。
オスカーからの手紙にも、同じ言葉が使われていた。
王立魔導院で、古い研究記録の整理が進められている。
その話を聞いたときは、特に気に留めなかった。
しかし、今は少し違って見えた。
「……以前の事故について、詳しく聞かれたのですか?」
エリアスが尋ねると、レオンハルトは首を振った。
「事故のことは、ほとんど書かれていない。むしろ、その前に使っていた観測術式の方だ」
「観測術式……」
「ああ。古い結界の魔力を、遠隔で測定するための実験だった」
レオンハルトは机の上から一枚の図面を取り出した。
そこには、複数の観測点から中央へ信号を送る仕組みが描かれている。
エリアスは思わず身を乗り出した。
「……これ」
「見覚えがあるだろう」
「はい。旧水路の観測施設に似ています」
レオンハルトは頷いた。
「私もそう思った」
エリアスは図面を見つめた。
七十年前のヴェルナーの研究。
旧水路の観測施設。
そして、レオンハルトがかつて魔導院で扱っていた術式。
すべてが同じ技術を基にしている可能性があった。
「……魔導院は、この術式について調べ直しているのでしょうか」
エリアスが言うと、レオンハルトは肩をすくめた。
「さあな。単なる資料整理かもしれないし、誰かが研究を再開しようとしているのかもしれない」
「返事はされるのですか?」
「必要な範囲ではな」
レオンハルトは封書を畳んだ。
「ただ、私の記憶だけを頼りにされても困る。肝心の記録を保管しているのは向こうなんだから」
エリアスは静かに頷いた。
レオンハルトが何年も前に経験したことは、今も彼の中で完全には整理されていないのだろう。
それでも、過去の研究を無視するつもりはないらしい。
「……もし必要でしたら、私もお手伝いします」
エリアスが言うと、レオンハルトは少し意外そうな顔をした。
「お前が?」
「ええ。古代観測術式については、私も調べていますから」
レオンハルトはしばらく黙った。
それから、わずかに口元を緩めた。
「……頼むことがあれば言う」
「はい」
「ただし、今は自分の休暇を優先しろよ」
エリアスは思わず笑った。
「……皆さん、同じことをおっしゃいますね」
「言われるだけの理由があるんだろう」
レオンハルトは平然と答えた。
エリアスは反論できなかった。
◇
その夜、王都の王立魔導院では、地下書庫の奥に明かりが灯っていた。
古い書類箱を前に、年配の研究員が眉を寄せている。
向かいには、若い研究員が立っていた。
「……やはり、記録が足りません」
若い研究員が言った。
「ヴェルナーの報告書には、中央調整部の改修を中止した理由が書かれていません」
「いや」
年配の研究員は首を振った。
「理由が書かれていないのではない。書かれていた部分が失われているんだ」
彼は古い報告書を広げた。
そこには、六つの境界石と中央の花形術式を描いた図面があった。
図の端には、小さな注釈が残されている。
『第七標については、従来の解釈に重大な誤りがある可能性を確認。』
その下の数行は、黒く塗りつぶされていた。
若い研究員は身を乗り出した。
「……これは、後から消されたのでしょうか」
「わからん。少なくとも、原本に書かれた文字ではない」
年配の研究員は紙の端を指で押さえた。
「ただ、最後の一行だけは残っている」
若い研究員はそこを読んだ。
『守護者を失ったのではない。
守護者の役割そのものが、別の形へ移された可能性がある。』
しばらく沈黙が続いた。
「……守護者の役割が、移された?」
若い研究員が呟いた。
「どういう意味でしょう」
「それを調べている」
年配の研究員は別の紙を取り出した。
「この記録では、守護者がいなくなったあとも、結界そのものは機能していたらしい」
「なら、守護者は必要なかったのでは?」
「そう単純ではないだろう。結界は長い間、少しずつ不安定になっている」
若い研究員は図面を見た。
「……まるで、誰かが様子を見ていた仕組みだけが失われたようですね」
年配の研究員の手が止まった。
彼はゆっくりと顔を上げた。
「……今、何と言った?」
「え?」
「もう一度言ってみろ」
若い研究員は戸惑いながら答えた。
「誰かが様子を見ていた仕組みだけが失われたようだと……」
年配の研究員は図面を見つめた。
中央の花形術式。
六つの境界石。
そして、外側へ伸びる複数の観測線。
「……そうか」
彼は小さく呟いた。
「第七標は、魔力を調整する装置ではなかったのかもしれん」
「では、何だったのでしょう」
年配の研究員は答えなかった。
ただ、古い報告書の最後に残された一文へ目を落とした。
守護者の役割が、別の形へ移された。
その言葉の意味を、ようやく少し理解し始めた気がしていた。
◇
同じ頃、フィオーレの新しい家では、エリアスが書斎の窓を閉めようとしていた。
夜風が少し冷たくなり始めている。
机の上には、今日セドリックから受け取った資料が置かれていた。
レオンハルトから見せられた、王立魔導院の封書のことも気になっていた。
ただ、今夜はそれ以上調べるつもりはなかった。
エリアスは机の端に置いていたオスカーからの手紙を手に取った。
何度も読み返した、懐かしい筆跡。
その中には、こんな一節があった。
『その日の仕事を終える時刻も、休む日も、エリアス様が決めてよいのですから。』
エリアスは静かに息を吐いた。
「……そうでしたね」
手紙を丁寧に畳み、引き出しへしまう。
窓の外では、庭の木が風に揺れていた。
朝に植えたばかりの花の苗は、まだ小さい。
けれど、いつか庭いっぱいに花が咲く日を楽しみにしている。
エリアスは寝台へ向かった。
リュカはすでに丸くなって眠っている。
「おやすみなさい」
そう声をかけ、明かりを落とした。
王都では、長い間閉ざされていた古い記録が、今になって読み直されている。
フィオーレでは、地下に残された魔力の流れが、静かに反応を続けている。
その二つがどこでつながるのか、エリアスはまだ知らない。
ただ、七十年前に止まった研究が、再び動き始めていることだけは確かだった。




