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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第2章 花咲く家と、森の古い約束

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第34話 古い記録に残された名前


 翌朝、エリアスは庭の花壇を前に、少々困っていた。


 マルタから譲り受けた花の種を植えようと思っていたのだが、昨夜降った雨のせいで、土がすっかり水を含んでいた。


 指先で軽く押すと、湿った土が形を残したまま固まる。


 この状態で種を蒔くのは、あまりよくないだろう。


「……今日は見送った方がよさそうですね」


 そう呟いたところで、隣の庭から声がした。


「そうね。もう一日待った方がいいわ」


 生け垣の向こうに、マルタの姿があった。


 エリアスが顔を上げると、彼女は濡れた地面を指差した。


「今朝はまだ土が重いでしょう。もう少し乾いてからの方が、種も腐りにくいのよ」


「ありがとうございます。ちょうど迷っていたところです」


「そうでしょうね。昨日の雨は結構強かったもの」


 マルタは手にしていた籠を持ち直した。


「ところで、今日はお出かけ?」


「はい。少し調べ物をする予定です」


「それなら、帰りに市場のパン屋へ寄ってみたら? 今日は胡桃のパンを焼く日なのよ」


「胡桃のパンですか」


「ええ。昼過ぎには売り切れることが多いから、見つけたら買っておくといいわ」


 エリアスは素直に頷いた。


「ありがとうございます。覚えておきます」


「それじゃあ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 マルタが家へ戻ると、エリアスは花壇に置いていた道具を片づけた。


 足元では、リュカが濡れた石畳を慎重に歩いている。


 昨日までなら、庭に出るなり走り回っていたのに、今日は足先が濡れるのが気になるらしい。


 白い獣は芝生の手前で立ち止まり、エリアスを見上げた。


「……今日はお庭で遊ぶ気分ではありませんか?」


 リュカは小さく鳴いた。


 エリアスが抱き上げると、すぐに肩へ前脚をかけてくる。


 どうやら、抱っこしてもらう方がよかったようだ。


「では、先に朝食にしましょう」


 エリアスはリュカを抱いたまま、家の中へ戻った。


 今日は鈴蘭亭へ立ち寄る約束がある。


 それから、レオンハルトに借りた資料も読み進めたい。


 庭仕事は、また明日でいいだろう。


     ◇


 鈴蘭亭の食堂に入ると、ノアが厨房から顔を出した。


「あ、エリアスさん! おはようございます!」


「おはようございます」


「ちょうどよかった。今、パンが焼けたところなんです」


 ノアはそう言うと、湯気の立つ籠を持ってきた。


 丸く焼かれたパンがいくつも並び、表面には薄く焼き色がついている。


「今日は新しい配合を試してみたんですよ」


「そうなのですか?」


「はい。少しだけ牛乳を増やして、柔らかくしてみたんです」


 エリアスはひとつ受け取った。


 指で軽く押すと、生地が柔らかく沈む。


「……本当ですね。いつもより柔らかいです」


「でしょう?」


 ノアは嬉しそうに笑った。


「でも、母さんはもう少し焼いた方がいいって言うんですよ」


 ちょうどそのとき、厨房からミラの声が飛んできた。


「言ったのは焼き時間じゃなくて、表面の色だよ!」


「ほら、こういうところが細かいんです!」


 ノアが小声で言う。


 エリアスは思わず笑った。


 焼きたてのパンをひと口食べると、柔らかな生地の中に、ほんのりとした甘みが広がった。


「とてもおいしいですよ」


「本当ですか?」


「ええ。朝食にもよさそうですね」


 ノアの表情が明るくなった。


「よかった!」


 エリアスは紅茶を飲みながら、しばらく食堂の様子を眺めた。


 朝の客たちはそれぞれ食事を楽しみ、新聞を読む者もいれば、旅の予定を相談する者もいる。


 宿を出てからも、ここへ来ると落ち着く。


 それはきっと、この場所が単なる宿泊先ではなくなったからだろう。


「そういえば、エリアスさん」


 ノアが声をかけた。


「お庭、どうですか?」


「少しずつ整えています。今日は種を蒔こうと思ったのですが、雨で土が濡れていまして」


「ああ、昨日の雨ですか」


「ええ。もう少し乾くのを待とうと思います」


「じゃあ、今度手伝いに行きますよ」


「ありがとうございます」


 ノアは少し考えたあと、付け加えた。


「それと、今度料理の練習もしましょうね」


「ぜひお願いします」


「次は何を作りたいですか?」


 エリアスは少し迷った。


「……スープでしょうか」


「いいですね。野菜のスープなら、基本から覚えられますよ」


「楽しみです」


 ノアは頷き、厨房へ戻っていった。


 エリアスはカップを手に取った。


 こうして何でもない約束が増えていくことが、最近は嬉しかった。


     ◇


 昼前、エリアスはクロイス古書店を訪れた。


 店の奥では、レオンハルトが古い書類を整理している。


「こんにちは」


「……来たか」


 レオンハルトは顔を上げた。


「ちょうど、確認したいことがあった」


「何でしょう?」


「昨日の資料の続きだ」


 レオンハルトは机の上へ一冊の本を置いた。


 革表紙はかなり傷んでおり、背の部分には補修した跡が残っている。


「これを見てくれ」


 開かれたページには、古い魔法文字と、複数の円を組み合わせた図が描かれていた。


 エリアスは椅子へ腰を下ろした。


「……観測術式ですね」


「ああ。お前が見つけた旧水路の施設と、似た構造だ」


 レオンハルトは図の一部を指差した。


 中央の円から、六本の線が外側へ伸びている。


 線の先には、小さな記号が並んでいた。


「この図だと、観測装置は六か所に配置されている」


「ええ」


「だが、ここを見ろ」


 指差されたのは、中央から下へ伸びる細い線だった。


 ほかの六本とは違い、途中で折れ曲がっている。


 その先には、小さな四角形が描かれていた。


「……補助観測点でしょうか」


「そう読める」


 レオンハルトは頷いた。


「問題は、この図がどこで使われたものなのかだ」


 エリアスは周囲の文章を読み始めた。


 古い魔法文字の一部は欠けているが、大まかな内容は理解できる。


 魔力の循環。


 観測地点。


 異常時の通知。


 そして、中央の調整機構。


 それらについて記されていた。


「……興味深いですね」


 エリアスはページをめくった。


 すると、次のページの端に、小さな文字が書き込まれていることに気づいた。


 本文とは違う、後から加えられた注釈だった。


『北方境界研究記録を参照。


 アルノルト・ヴェルナーによる改修案との比較が必要。』


 エリアスの指が止まった。


「……ヴェルナー」


 レオンハルトが顔を上げた。


「知っている名前か?」


「ええ。以前、セドリック様からお借りした資料に出てきました」


 七十年ほど前。


 北の森の境界石を調べ、一部の配置を変更した魔導技師。


 アルノルト・ヴェルナー。


 彼は地下の魔力脈に異常が生じることを確認し、境界石の改修を試みていた。


 しかし、中心部分の調整ができず、研究は途中で終わっている。


「……同じ人物でしょうか」


 エリアスが呟くと、レオンハルトは頷いた。


「おそらくな」


「この注釈は、いつ書かれたものなのでしょう」


「正確にはわからない。ただ、本そのものはかなり古い」


 レオンハルトは表紙を確かめた。


「少なくとも、ヴェルナーの研究より前に書かれた文献だ」


 エリアスはもう一度、注釈を読んだ。


 古い観測術式の文献。


 そこに後から書き込まれた、ヴェルナーの名。


 つまり、彼は過去の術式を調べながら、北の森の結界を改修しようとしていたのだろう。


「……この図を参考にした可能性がありますね」


「ああ」


 レオンハルトは机の上へ別の紙を広げた。


 それは、エリアスが旧水路の観測施設で写し取った術式だった。


 二つの図を並べる。


 細かな違いはある。


 しかし、魔力の流れる方向や、観測部分の構造はよく似ていた。


「……やはり、関係がありますね」


 エリアスが言うと、レオンハルトは黙って頷いた。


 エリアスは図面を見つめた。


 北の祭殿。


 六つの境界石。


 失われた第七標。


 そして、街の地下へ続く補助流路。


 ヴェルナーは、これらの仕組みをどこまで理解していたのだろう。


 七十年前、彼は何を見つけたのか。


 そして、なぜ研究を途中で止めたのか。


 知りたいことが、また増えた。


     ◇


 その日の午後、エリアスは辺境伯家の屋敷を訪れた。


 セドリックには事前に連絡を入れていたため、すぐに書斎へ案内された。


「エリアス殿。ようこそ」


「こんにちは、セドリック様」


「今日は新しい資料を見つけられたとか」


「ええ。レオンハルトさんの古書店で、ヴェルナーの名が記された注釈を見つけました」


 エリアスは写しを差し出した。


 セドリックは受け取り、静かに読み進める。


「……なるほど」


 しばらくして、机の上へ紙を置いた。


「確かに、以前の資料とつながりがありますね」


「はい。ただ、まだ不明な部分も多いのですが」


「それについては、こちらでも少し調べてみました」


 セドリックは引き出しから一冊の記録帳を取り出した。


「七十年前の土地管理記録です」


 エリアスは顔を上げた。


「土地管理記録、ですか?」


「ええ。ヴェルナーが北の森で調査をしていた時期に、領地側がどのような支援をしていたのかを確認しました」


 セドリックはページをめくった。


 そこには、古い文字で調査費用や物資の記録が残されている。


 測量器具。


 魔力石。


 人員の手配。


 そして、北の森へ運ばれた建築資材。


「……これは」


 エリアスは目を留めた。


 記録の中に、ひとつ気になる項目があった。


『旧水路観測所 補修工事』


「……観測所」


 セドリックが頷いた。


「エリアス殿が見つけた施設と、同じものかもしれません」


 エリアスは記録を読み進めた。


 工事の内容は簡潔だった。


 観測装置の交換。


 地下流路の点検。


 石造りの建物の補修。


 そして、最後に短い一文が記されていた。


『中央調整部との接続については、王立魔導院の承認待ち。』


 エリアスは手を止めた。


「……王立魔導院」


 セドリックも静かに頷いた。


「この時点で、魔導院が関わっていたことは確かです」


 エリアスは記録へ目を落とした。


 中央調整部。


 それは、北の祭殿に残された花形の術式を指している可能性が高い。


 しかし、なぜ地方の古い結界を修復するために、王立魔導院の承認が必要だったのだろう。


 技術的な問題だったのか。


 それとも、何か別の理由があったのか。


「……承認は下りたのでしょうか」


 エリアスが尋ねた。


 セドリックは首を振った。


「それが、記録に残っていないのです」


「……残っていない?」


「ええ。補修工事の記録はここで終わっています。その後の報告書が見当たりません」


 エリアスは考え込んだ。


 ヴェルナーの研究は途中で止まった。


 観測施設の補修も、完全には終わっていない。


 そして、中央調整部は今も失われたままだ。


 偶然とは思えないつながりだった。


「……記録が失われたのでしょうか」


「可能性はあります」


 セドリックは頷いた。


「ただ、七十年前のことですから、単に整理されていないだけかもしれません」


「そうですね」


 エリアスはゆっくりと息を吐いた。


 今の段階で、何かを決めつけることはできない。


 それでも、調べるべき方向は見えてきた。


 王立魔導院。


 ヴェルナーの改修案。


 そして、中央調整部。


 これらを結ぶ記録が、どこかに残されている可能性は高い。


     ◇


 話がひと段落すると、セドリックは用意されていた紅茶を勧めた。


「ところで、新しいお住まいはいかがですか?」


「とても快適です」


 エリアスはカップを受け取った。


「庭もありますし、書斎も気に入っています」


「それはよかった」


「最近は料理も始めました」


「料理を?」


 セドリックは少し驚いた。


「ええ。まだ簡単なものだけですが」


「それは興味深いですね」


 セドリックは楽しそうに笑った。


「宮廷魔導師が、休日に料理を練習しているとは」


「……それほど珍しいことでしょうか」


「少なくとも、私の知る宮廷魔導師の方々には、あまりいらっしゃいませんね」


 エリアスは少し考えた。


 王都にいた頃は、確かに自分も料理をする機会がなかった。


 食事は王宮の厨房で用意され、生活に必要なものもほとんど揃っていた。


 それを便利だと思っていたが、今は少し違う。


「……自分で作るのは、楽しいですよ」


「そうですか」


 セドリックは微笑んだ。


「それなら、今度ぜひご馳走してください」


 エリアスは一瞬、言葉に詰まった。


「……もう少し練習してからでもよろしいでしょうか」


 セドリックは声を立てて笑った。


「もちろんです」


 エリアスもつられて笑った。


 その後、二人はしばらく庭のことや街の近況を話し、夕方になってから別れた。


     ◇


 夜、エリアスは新しい家の書斎で、今日の記録を整理していた。


 机の上には、レオンハルトから借りた資料の写しと、セドリックに見せてもらった土地管理記録の写しが並んでいる。


 アルノルト・ヴェルナー。


 七十年前、北の森の結界を調べていた魔導技師。


 彼は一部の境界石を移動させ、地下の魔力の流れを整えようとしていた。


 しかし、中央調整部の扱いについては、王立魔導院の承認を待っていた。


 その後の記録は見つかっていない。


 エリアスは手帳を開いた。


『ヴェルナーの研究と旧水路観測所の補修工事は、同時期に行われていた可能性が高い。』


 そう書き留める。


 続けて、別の一文を書いた。


『中央調整部の接続については、王立魔導院の承認が必要とされていた。理由は不明。』


 エリアスは筆を置いた。


 そのとき、机の端に置いた銀色のランプが目に入った。


 古い観測器。


 六つの境界石。


 そして、リュカが反応した花形の術式。


 これらの仕組みは、互いにつながっている。


 けれど、肝心の中心部分だけが、今もわからない。


「……第七標」


 エリアスは小さく呟いた。


 石ではないと記された、七番目の標。


 それは、装置なのか。


 役割なのか。


 あるいは、何か別のものを指しているのか。


 まだ答えは出ない。


 エリアスはランプを手に取った。


 表面には細かな古代文字が刻まれている。


 その一部が、窓から差し込む月明かりを受けて淡く輝いた。


 エリアスは慎重に魔力を流した。


 すると、内部の記録結晶が反応した。


 三度。


 二度。


 一度。


 そして、最後に短く一度。


 以前から続いていた信号だった。


 エリアスは手帳を開き、反応を記録した。


 そのとき、リュカが机の上へ飛び乗った。


 白い獣はランプを見つめ、静かに尾を揺らしている。


「……気になりますか?」


 エリアスが尋ねると、リュカは短く鳴いた。


 彼はランプを机へ戻した。


 無理に反応を引き出すつもりはない。


 リュカが何かを知っているとしても、それを伝える方法がまだわからないのだから。


 エリアスは小さな頭を撫でた。


「……焦らず、調べていきましょう」


 リュカは目を細めた。


 その姿を見て、エリアスは少し笑った。


 王都から遠く離れたこの街で、古い魔法の謎を調べている。


 けれど、今の自分には帰る家がある。


 庭には花が咲き、食卓には自分で作った料理が並ぶ。


 友人たちと笑い、手紙を受け取り、明日の予定を考える。


 そんな暮らしを大切にしながら、少しずつ謎を解いていけばいい。


 エリアスは資料を片づけ、書斎の明かりを落とした。


 明日は庭の土が乾いているだろうか。


 もし乾いていたら、マルタからもらった種を植えよう。


 そう考えながら、リュカを抱き上げた。


     ◇


 同じ頃、王都の王立魔導院では、地下書庫の奥に明かりが灯っていた。


 分厚い扉の前に、二人の研究員が立っている。


 片方は年配の男性で、もう片方はまだ若い研究員だった。


「……本当に、ここにあるのですか?」


 若い研究員が尋ねた。


「記録では、そうなっている」


 年配の男性は短く答えた。


「ただし、七十年前に保管場所が変更されている。今の書庫目録には載っていないはずだ」


「なぜ、そんなことを?」


「当時の事情までは知らん」


 男性は鍵を取り出した。


 扉には、古い魔法文字が刻まれている。


 通常の保管室とは異なる、厳重な封印術式だった。


 年配の男性が鍵を差し込むと、文字が淡く光った。


 しばらくして、扉が静かに開いた。


 中には、古い書類箱がいくつも並んでいる。


 そのうちのひとつに、手書きの札がついていた。


『北方境界術式 改修計画』


 年配の男性は箱を取り出し、蓋を開けた。


 中には、古びた報告書と数枚の図面が収められている。


 最初のページには、見覚えのある名前が記されていた。


『アルノルト・ヴェルナー』


 若い研究員が息を呑んだ。


「……これが、例の研究記録ですか」


「ああ」


 年配の男性はページをめくった。


 そこには、六つの境界石と、中央の花形術式を描いた図があった。


 さらに、その下には、小さな文字で注釈が記されている。


『第七標については、従来の解釈に重大な誤りがある可能性を確認。』


 年配の男性の指が止まった。


 続く文章は、一部が黒く塗りつぶされていた。


 ただ、最後の一行だけは読むことができた。


『守護者を失ったのではない。


 守護者の役割そのものが、別の形へ移された可能性がある。』


 若い研究員は、隣の男性を見た。


「……どういう意味でしょうか」


 年配の男性は答えなかった。


 ただ、古い図面を静かに見つめていた。


 七十年前に途絶えた研究。


 その記録が、今になって再び開かれている。


 遠く離れたフィオーレでは、同じ古い仕組みが、少しずつ反応を取り戻していた。


 だが、その二つがどのようにつながっているのかを知る者は、まだいなかった。


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