第32話 忘れられた水路の先で
調査の許可が下りたのは、エリアスが冒険者ギルドを訪ねた翌々日のことだった。
辺境伯家から正式な書類が届き、旧林道周辺の立ち入りと、地表から確認できる範囲での調査が認められた。ただし、地面を掘り返すことや、古い設備を動かすことについては別途許可が必要だという。
エリアスは書類を読み終え、内容を確認してから署名した。
「これで手続きは完了です」
受付のエマが書類を受け取った。
「現地の地盤調査は数年前に行われていますが、当時も一部で陥没が確認されています。崩れかけた石壁もあるそうなので、十分注意してください」
「承知しました」
「それから、今回は調査記録をギルドにも提出していただきます。何か異常が見つかった場合、今後の立ち入り制限を判断する資料になりますので」
「わかりました」
エリアスは手帳を鞄へしまった。
受付を離れようとしたところで、エマが呼び止める。
「あの、レインフォードさん」
「はい?」
「ひとつお願いしてもよろしいですか」
「何でしょう」
「先日、街の結界を設置していただいた際の報告書なのですが……」
エマは少し困った顔で、机の下から厚い紙束を取り出した。
「魔導技師の方が、ぜひ一度ご説明を伺いたいとおっしゃっていまして」
エリアスは紙束へ目を落とした。
自分が提出した、結界の構造図だった。
魔力石の配置と、外部からの魔力を分散させる回路をまとめたものである。
「どの部分でしょう?」
「こちらに質問を書き込んでいただいているそうです」
エリアスが受け取ると、余白には細かな文字がびっしりと並んでいた。
回路の起動条件。
消耗した魔力石の交換方法。
補助術式を停止する順序。
どれも、今後の維持管理に必要な質問だった。
「……なるほど。説明が足りませんでしたね」
「いえ、あの、そういう意味では……」
「改めて手順書を作成します。私が不在でも扱えるようにしておいた方がよいですから」
エマは安堵したように表情を和らげた。
「助かります。魔導技師の方々も喜ばれると思います」
「では、明日お持ちしますね」
エリアスは紙束を鞄へ収めた。
結界を作ることと、ほかの人が安全に使い続けられるようにすることは別の仕事だ。
その違いを、今回改めて実感していた。
◇
北門の前では、カイルが待っていた。
いつもの剣に加え、今日は短い縄と折り畳み式の杖を持っている。
「お、来たな」
「お待たせしました」
「許可は?」
「問題ありませんでした」
「よし。じゃあ行くか」
カイルは歩き始めたが、すぐにエリアスの肩掛け鞄へ目を向けた。
「今日はリュカも一緒か」
「ええ。元気になりましたし、どうしてもついてきたかったようで」
鞄の口から白い顔が覗いた。
カイルが指を伸ばすと、リュカは少し考えるようにその手を見つめたあと、鼻先を近づけた。
「おっ」
カイルが嬉しそうに声を上げる。
「今、触らせてくれたぞ」
「よかったですね」
「前は露骨に避けられてたからなあ」
リュカは一度だけカイルの指に鼻を触れ、すぐに鞄へ引っ込んだ。
カイルはそれでも満足そうだった。
「進歩だな」
エリアスは微笑んだ。
北門を抜けたところで、カイルが地図を取り出す。
「今日は森へ入るわけじゃないんだよな?」
「はい。旧水路の先にあったという建物の跡を調べます。必要なら途中で引き返しましょう」
「了解。地盤が悪いって話だから、俺が先を歩く」
カイルは杖で足元を確かめながら進み始めた。
しばらくすると、街の家並みが途切れ、草地の向こうに低い林が見えてきた。
地図では旧林道とされている場所だ。
現在は道らしい道もなく、ところどころに古い石垣が残っている。
「こっちだな」
カイルが草をかき分けた。
足元には、細長い石が規則的に並んでいる。
エリアスはしゃがみ込み、表面を確かめた。
「……水路の縁でしょうか」
「たぶんな。ほとんど埋まってるけど、真っすぐ続いてる」
二人はその石の並びに沿って進んだ。
やがて、林の手前に小さな窪地が現れた。
そこだけ周囲より地面が低く、倒れた木の幹が横たわっている。
カイルが足を止めた。
「ここから先、ちょっと気をつけろよ」
「はい」
杖の先で地面を軽く押す。
すると、土の一部がぼろぼろと崩れ落ちた。
下には、暗い空洞があった。
「……やっぱりな」
カイルは杖を引き戻した。
「この辺り、下が空いてるぞ」
エリアスも距離を取って確認した。
地中に、古い石造りの空間が残っている。
深さはそれほどないようだが、上部の石板が傷んでいるらしい。
「……ここで無理に進むのは危険ですね」
「ああ。回り道を探そう」
カイルは周囲の地形を確認し、少し高くなった場所へ二人を導いた。
エリアスはその後ろを歩きながら、地中の魔力の流れを確かめていた。
庭で観測したものと同じ、弱い反応。
それが、窪地の下へ集まっている。
ただし、流れは滞っていない。
むしろ、何かを通過しているようだった。
◇
林の奥へ回り込むと、古い石壁が見えてきた。
高さは人の肩ほど。
左右の壁は崩れ、屋根も残っていない。
それでも、中央には四角い台座が残されていた。
「……ここか」
カイルが足を止める。
エリアスは地図を開いた。
年配の職人から聞いた位置と、ほぼ一致している。
「そうですね。おそらく、これが昔の建物でしょう」
二人は少し離れた場所から全体を観察した。
壁には植物の蔓が絡み、石の隙間には小さな草が生えている。
建物そのものは、それほど大きくなかったようだ。
奥には人ひとりが通れるほどの入口があったらしいが、今は崩れた石で塞がれていた。
「倉庫だったのかな」
カイルが言った。
「それとも、水路の管理小屋か」
「管理施設だった可能性はありますね」
エリアスは台座へ目を向けた。
表面には、風化した文字が刻まれている。
遠目には読めないほど薄くなっているが、魔法文字に似た形だった。
「……少し近づいても?」
エリアスが尋ねると、カイルは周囲を確かめた。
「この辺なら大丈夫そうだ。ただ、壁には寄るなよ。崩れそうだから」
「わかりました」
二人は慎重に台座へ近づいた。
エリアスは膝をつき、刻まれた文字を確かめた。
古代魔法文字だった。
ただし、祭殿や境界石に刻まれていたものより、少し新しい形式に見える。
「……これは、後から作られた施設かもしれません」
「後から?」
「ええ。祭殿の術式を参考にして、別の時代に作られたものかもしれません」
エリアスは手帳を取り出し、文字を写し始めた。
ほとんど消えている部分もあったが、いくつかは読み取れた。
『補助流路』
『南方接続』
『観測』
最後の文字を確認したところで、エリアスは手を止めた。
「……観測施設」
「何かわかったか?」
「ええ。おそらく、ここは魔力の流れを確認するための場所だったのでしょう」
エリアスは周囲を見回した。
旧水路。
地下の魔力。
そして、祭殿と似た術式。
これらがつながっているなら、古い結界の状態を街の近くから調べるための設備だったのかもしれない。
「……なあ、エリアス」
カイルが声をかけた。
「ひとつ聞いていいか?」
「はい」
「これって、そんなに昔から誰も使ってないのか?」
「少なくとも、今は使われていないようですね」
「いや、そうじゃなくてさ」
カイルは台座の下を指差した。
「ここ、草が生えてないだろ」
エリアスは顔を上げた。
台座の周囲には苔が生え、落ち葉も積もっている。
しかし、台座の北側だけは、細長い範囲に草が生えていなかった。
土の色も、周囲よりわずかに濃い。
「……確かに」
「最近、誰か来てるんじゃないか?」
カイルはしゃがみ込み、地面を調べた。
「足跡は残ってないけど、落ち葉が少ない。何かがここを通ってるみたいだ」
エリアスは土へ手をかざした。
魔力の流れを確認する。
すると、台座の下から弱い魔力が立ち上がっていることに気づいた。
その流れが、周囲の土をわずかに温めていた。
「……人が通ったわけではなさそうです」
「ん?」
「地下から魔力が上がってきています。その影響で土の温度が少し高くなっているようです」
カイルは地面を見た。
「……だから草が生えないのか?」
「可能性はあります」
エリアスは頷いた。
「ですが、温度差はごくわずかです。ほかにも理由があるかもしれません」
カイルは少し考え、立ち上がった。
「まあ、どっちにしても気になる場所だな」
「ええ」
エリアスは台座の文字を見つめた。
古い施設。
残された観測術式。
そして、今も続く魔力の反応。
この場所は、完全に役割を失ったわけではないらしい。
◇
「……少し休憩しようか」
カイルの提案で、二人は林の外へ戻った。
倒木の近くに腰を下ろし、持参した水筒を取り出す。
エリアスは鞄から昼食の包みを出した。
今日は自分で用意したものだった。
パンに薄く切った肉と野菜を挟んだ、簡単なサンドイッチである。
「お、作ってきたのか?」
カイルが興味深そうに覗き込む。
「はい。ノアに教えていただいたんです」
「へえ。じゃあ、ひとつもらっていいか?」
「もちろんです」
エリアスはひとつ差し出した。
カイルは受け取り、ひと口かじった。
しばらく黙って噛んでいたが、やがて頷いた。
「……うまいじゃないか」
「本当ですか?」
「ああ。ちゃんとおいしいぞ」
エリアスは安堵した。
「よかったです。少し心配していたので」
「ただ、パンはもう少し薄く切ってもいいかもな」
「……なるほど」
「あと、野菜をもう少し増やすと食べやすいかもしれない」
エリアスは手帳を取り出しかけた。
カイルが慌てて笑う。
「いや、そこまで真面目に書かなくてもいいって!」
「次に作るときの参考になりますから」
「……お前らしいな」
カイルは笑いながら、残りのサンドイッチを食べた。
エリアスも自分の分を口へ運んだ。
確かに、少しパンが厚かった。
具材の味は悪くないが、もう少し工夫できそうだった。
そんなことを考えていると、鞄の中からリュカが顔を出した。
「あなたの分もありますよ」
エリアスは別の包みを取り出し、鶏肉を小皿へ載せた。
リュカは満足そうに食べ始める。
カイルはその様子を眺めた。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「リュカって、最初に森で見つけたんだよな」
「ええ」
「あのとき、かなり弱ってたよな」
「そうですね。怪我もしていましたし、魔力もほとんど残っていませんでした」
カイルは少し考えた。
「今はすっかり元気だけど、森の結界と関係してるって話だっただろ?」
「はい。まだ詳しいことはわかりませんが」
「……じゃあ、あのとき何があったんだろうな」
エリアスはリュカへ目を向けた。
白い獣は鶏肉を食べ終え、前脚を舐めている。
初めて出会ったときのことを思い出す。
森の中。
傷ついた小さな体。
そして、周囲に残っていた不安定な魔力。
「……何かを守ろうとしていたのかもしれませんね」
エリアスは静かに答えた。
「ただ、それを知るには、もう少し手がかりが必要です」
カイルは頷いた。
「そうだな」
しばらく二人で休んでいると、林の奥から風が吹いてきた。
木々の葉が揺れ、遠くで鳥が鳴く。
穏やかな午後だった。
けれど、エリアスの意識は、先ほど見つけた古い施設へ向いていた。
あの台座には、まだ調べられることがありそうだった。
◇
休憩を終えたあと、二人は再び石造りの建物へ戻った。
ただし、今度は台座へ近づかず、周囲の魔力を遠くから観測することにした。
エリアスは小さな水晶片を取り出し、地面へ置いた。
手製の簡易観測器だった。
内部へ魔力を少しだけ流すと、水晶に淡い光が灯った。
「……これで、地下の流れを確かめます」
カイルは少し離れた場所で周囲を警戒していた。
「危なかったらすぐやめろよ」
「はい」
エリアスは慎重に反応を読み取った。
地下には、細い魔力の流路が残っている。
それは北から南へ伸び、旧水路に沿って街の方へ続いていた。
しかし、途中で何かが変わっていた。
魔力が一度だけ弱まり、再び強くなる場所がある。
その位置は、石造りの建物の真下だった。
「……何かありますね」
エリアスは呟いた。
水晶の光が、短く三度揺れた。
二度。
そして、長く一度。
これまで何度も確認した周期だった。
しかし、今回はそのあとに、もうひとつ反応があった。
ごく弱い、短い光。
まるで、最後に何かを付け加えるように。
エリアスは眉を寄せた。
「……今のは」
もう一度、同じ反応が起こる。
三度。
二度。
一度。
そして、最後に短く一度。
これまでの記録にはなかった反応だった。
「……カイル」
エリアスが声をかけた。
「どうした?」
「新しい信号が確認できました」
「信号?」
「ええ。今までと少し違うんです」
エリアスは手帳を開き、反応を書き留めた。
以前から続いていた周期。
そして、最後に追加された短い光。
単なる魔力の乱れではない。
何らかの情報が、少しずつ変化している。
「……意味はわかるのか?」
カイルが尋ねた。
「いえ。まだわかりません」
エリアスは正直に答えた。
「ただ、以前の信号と違うということは、何か状態が変わった可能性があります」
カイルは少し考えた。
「……良くなったのか、悪くなったのか」
「そうですね。そこを確かめる必要があります」
エリアスは観測器を停止した。
水晶の光が消える。
石造りの建物は、何事もなかったように静かに佇んでいた。
「……今日はここまでにしましょう」
エリアスが言うと、カイルは頷いた。
「賛成だ。あとはレオンに相談した方がよさそうだな」
「ええ」
二人は調査を終え、街へ戻ることにした。
◇
夕方、鈴蘭亭へ戻ると、食堂にはいつもの賑わいが戻っていた。
ノアが二人に気づき、手を振る。
「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「今日も調査だったんですよね?」
「ええ。少し新しいことがわかりました」
「そうなんですね!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今日はご飯をいっぱい食べてくださいね」
カイルが笑った。
「言われなくても食うよ!」
「カイルさんは、いつもいっぱい食べますもんね」
「悪かったな」
二人のやり取りを聞きながら、エリアスは窓際の席へ腰を下ろした。
外では、夕暮れの街に明かりが灯り始めている。
新しい家へ帰る前に、こうして鈴蘭亭へ寄ることが、すっかり習慣になっていた。
エリアスは鞄から手帳を取り出し、今日の記録を確認した。
古い観測施設。
地下の魔力流路。
そして、新しく加わった短い信号。
それらが何を意味しているのかは、まだわからない。
しかし、少しずつ変化が起きていることは確かだった。
エリアスは手帳を閉じた。
今夜はレオンハルトへ手紙を書こう。
それから、セドリックにも報告を送る必要がある。
調べることはまだ多い。
けれど、急ぐ必要はない。
慎重に、ひとつずつ確かめていけばいい。
そう考えながら、エリアスは運ばれてきた夕食へ手を伸ばした。
◇
その夜。
フィオーレの北にある古い祭殿では、誰もいない石室の奥で、微かな光が灯っていた。
崩れかけた壁。
苔に覆われた床。
そして、中央に残された花形の術式。
その中心には、長い間、何の反応もなかった。
しかし今夜は違った。
細い光が、ゆっくりと床の上を走っている。
三度。
二度。
一度。
そして、最後に短く一度。
その反応が終わると、石室は再び静かになった。
ただ、術式の中心に残された小さな円だけが、しばらく淡く輝いていた。
誰にも知られないまま、古い仕組みの一部が動き始めていた。




