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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第2章 花咲く家と、森の古い約束

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第31話 古い水路の行方


 翌朝、エリアスが庭へ出ると、昨夜の光はすっかり消えていた。


 花壇には朝露が残り、春灯花の黄色い花が朝日に向かって開き始めている。隣家からは食器を洗う音が聞こえ、通りの向こうをパン屋の荷車がゆっくりと通り過ぎていった。


 昨夜と同じ場所とは思えないほど、庭は穏やかだった。


 エリアスは花壇の脇にしゃがみ、設置しておいた観測術式を確認した。


 地面に置いた小さな水晶片には、夜の間に記録された魔力の変化が残されている。


 手をかざすと、細い光の線が浮かび上がった。


 反応は夜半から明け方にかけて、全部で四回。


 いずれも同じ間隔で明滅している。


 三度、二度、そして一度。


 しかし、気になる点があった。


 最初の反応と最後の反応では、魔力の流れる向きが違っていたのだ。


 昨夜は北へ向かっていた流れが、明け方には南へ戻ってきている。


「……行きと帰りがあるのですね」


 エリアスは手帳に記録した。


 単純な魔力の漏出なら、流れは一方向になるはずだ。一定の間隔で向きを変えるということは、どこかで魔力を受け取り、再び送り返す仕組みが存在するのかもしれない。


 だが、今の街の魔道具にそのような機能はない。


 少なくとも、エリアスが調べた範囲では。


 彼は観測器を片づけ、立ち上がった。


 すると、背後から軽い足音が聞こえてきた。


 リュカだった。


 白い獣は花壇の前で立ち止まり、エリアスを見上げる。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


 リュカは返事の代わりに、彼の足元へ鼻先を押しつけた。


「朝食は、もう少し待ってくださいね」


 そう言うと、リュカは一度だけ尾を振った。


 エリアスは笑って家へ戻った。


 台所には、昨日買ったばかりの茶漉しが置いてある。


 今朝はようやく、いつもの紅茶を淹れられそうだった。


     ◇


 午前中、エリアスは古い水路の位置を確認するため、街の北側へ出かけた。


 昨夜のうちに地図へ印をつけておいたため、調べたい場所はある程度絞れている。


 住宅街を抜け、昔の共同井戸があった広場へ向かう。


 そこから北へ続く道を進むと、建物の間に細長い空き地が現れた。


 両側には古い石垣が残り、地面には背の低い草が生えている。


 現在は誰も使っていないようだった。


「……ここでしょうか」


 エリアスは地図と周囲の景色を見比べた。


 古い地誌には、共同井戸から北へ続く細い線が描かれている。


 その位置は、この空き地とほぼ一致していた。


 ただ、地表には水路らしいものが見当たらない。


 長い年月の間に埋められてしまったのだろう。


 エリアスは地面へ手をかざした。


 魔力の流れを確かめる。


 すると、地下に細い反応があった。


 庭や井戸跡と同じ、規則的な揺らぎ。


 しかし、こちらは少し弱い。


「……やはり、つながっていますね」


 エリアスは周囲を見回した。


 水路の跡は、さらに北へ続いているようだった。


 だが、そこから先は人家の裏手へ入り込んでしまう。


 無断で立ち入るわけにはいかなかった。


「……ここまでにしておきましょう」


 エリアスは手帳へ場所を書き留めた。


 そのときだった。


「おい、そこの兄ちゃん」


 背後から声がした。


 振り返ると、作業着を着た年配の男性が立っていた。


 手には木槌を持ち、腰には工具袋を下げている。


「こんにちは」


 エリアスが挨拶すると、男性は少し不思議そうに彼を見た。


「こんなところで何してるんだ?」


「古い水路について調べています」


「水路?」


「はい。昔、この辺りを通っていたと記録にありまして」


 男性はしばらく考えた。


「……ああ、あれか」


 エリアスは顔を上げた。


「ご存じなのですか?」


「知ってるも何も、昔はそこに石の溝があったんだよ」


 男性は空き地の奥を指差した。


「俺が若い頃には、まだ少し残ってた。今は家を建てるときに埋めちまったけどな」


「そうだったのですね」


「何だ、掘り返すつもりか?」


「いえ。どこを通っていたのか確かめたいだけです」


 男性は少し安心したようだった。


「ならいいけどよ。勝手に掘られちゃ困るからな」


「もちろんです」


 エリアスは頷いた。


「差し支えなければ、昔の様子を教えていただけませんか?」


 男性は木槌を工具袋へしまった。


「昔の様子ねえ……」


 少し考えてから、空き地へ目を向ける。


「石の溝があったのは覚えてる。水は流れてなかったけど、雨が降ると中に溜まってたな」


「なるほど」


「それから、北の方へ行くと、小さな石の建物があった」


 エリアスの手が止まった。


「石の建物?」


「ああ。今はもう残ってないと思うけどな。子供の頃、友達と探検しに行ったことがある」


 男性は懐かしそうに笑った。


「親に見つかって、ずいぶん怒られたもんだ」


「その建物は、どの辺りにあったのでしょう?」


「この道をもっと北へ行ったところだ。林の手前だったかな」


 エリアスは地図を開いた。


 男性に示された方角は、古い水路が途切れている場所と重なっていた。


「……ありがとうございます。大変参考になりました」


「大したことじゃないさ」


 男性は肩をすくめた。


「ただ、あの辺りは今でも地面が弱いから、気をつけろよ」


「はい。ありがとうございます」


 エリアスは丁寧に礼を述べた。


 男性は片手を上げ、近くの建物へ戻っていった。


 エリアスは地図へ新しい印を書き加えた。


 北へ続く古い水路。


 その先にあった石造りの建物。


 そして、地下の魔力の反応。


 少しずつ、調べるべき場所がはっきりしてきた。


     ◇


 昼過ぎ、エリアスは冒険者ギルドを訪れた。


 受付では、エマが書類を整理している。


「あら、レインフォードさん」


「こんにちは」


「今日は依頼をお探しですか?」


「いえ。少し調べたい場所がありまして」


 エリアスは地図を広げた。


「この辺りの立ち入りについて、確認したいんです」


 エマは地図を覗き込んだ。


「……北東の旧林道ですね」


「はい。昔、小さな石造りの建物があったと聞きました」


「ああ、旧水路の方ですか」


 エリアスは驚いた。


「ご存じなのですか?」


「ええ。数年前に地盤の調査依頼がありましたから」


 エマは書類棚から古い記録を取り出した。


「この辺りは、地面が沈みやすい場所なんです。今は通行禁止にはなっていませんが、あまり人が立ち入らないようにしています」


「そうでしたか」


「何か目的がおありですか?」


 エリアスは簡単に事情を説明した。


 古い水路の跡を調べていること。


 地下に魔力の流れが確認されたこと。


 そして、森の古い結界と関係している可能性があること。


 エマは真剣に聞いていた。


「……なるほど」


 しばらく考えたあと、書類を閉じる。


「でしたら、調査の許可を取った方がよいですね」


「そうですね」


「辺境伯家にも確認が必要ですが、ギルドから手続きを進めることはできます」


「お願いできますか?」


「もちろんです」


 エマは頷いた。


「ただ、現地へ行かれるなら、案内役も必要だと思います」


「カイルにお願いしようと思っています」


「それなら安心ですね」


 エマは少し笑った。


「ちょうど、今日は午後からギルドに戻る予定です」


「そうなのですか?」


「ええ。もうすぐ来ると思いますよ」


 エリアスは礼を述べ、受付の近くで待つことにした。


 しばらくすると、扉が開いた。


「ただいまー!」


 聞き慣れた声だった。


「お、エリアス!」


「こんにちは、カイル」


「どうした? 何か依頼か?」


「少し相談したいことがありまして」


 エリアスは地図を見せた。


 カイルはそれを覗き込み、眉を上げた。


「……また新しい場所を見つけたのか?」


「ええ。街の北東に、古い水路の跡があるようなんです」


「水路?」


「その先に、昔は小さな石造りの建物があったそうです」


 カイルは少し考えた。


「……ああ、あの辺か」


「ご存じですか?」


「詳しくは知らないけど、昔、地面が崩れたって話は聞いたことがある」


 エリアスは頷いた。


「調査の許可が下りたら、一緒に行っていただけませんか?」


「もちろんいいぞ」


 カイルは笑った。


「ただ、今度は足元に気をつけろよ。あの辺り、結構危ないらしいからな」


「はい」


「それと、無理に古い建物を触るなよ」


「……承知しています」


 カイルは少し疑わしそうな顔をした。


「本当か?」


「ええ。今回も調べるだけのつもりです」


「ならいいけど」


 エマが二人のやり取りを聞きながら、小さく笑った。


「カイルさん、すっかりレインフォードさんの保護者みたいですね」


「誰が保護者だよ!」


 カイルが抗議する。


 エリアスは不思議そうに二人を見た。


 その様子に、エマはますます楽しそうに笑った。


     ◇


 ギルドを出たあと、エリアスとカイルは鈴蘭亭へ向かった。


 ちょうど夕食の準備が始まる時間だった。


 店へ入ると、ノアがすぐに気づいた。


「あ、エリアスさん! カイルさんも!」


「こんにちは」


「今日も一緒なんですね」


「たまたまギルドで会ったんだよ」


 カイルが答える。


 ノアは二人を窓際の席へ案内した。


「今日は何にします?」


「俺はいつもの肉料理で」


「はい!」


「私は魚をお願いします」


「わかりました!」


 ノアが厨房へ戻ると、カイルは椅子へ深く腰を下ろした。


「……それにしても、エリアス」


「はい?」


「お前、引っ越したばかりなのに、もう調べ物ばっかりしてるな」


 エリアスは少し考えた。


「そうでしょうか」


「そうだろ。昨日も庭を調べてたんだろ?」


「ええ。少し気になることがありまして」


「それが新しい水路につながったわけか」


「はい」


 カイルは呆れたように笑った。


「……本当に、どこへ行っても魔法から離れられないんだな」


 エリアスは少し考えた。


 確かに、フィオーレへ来てからも魔法の研究は続いている。


 けれど、王都にいた頃とは違う。


 誰かに命じられたわけではない。


 自分が知りたいと思い、調べている。


 それに、魔法以外にも楽しみは増えた。


「……そうですね。でも、以前よりずっと楽しいですよ」


 カイルは顔を上げた。


「そうなのか?」


「ええ。今は自分の時間を、自分で使えますから」


 エリアスは穏やかに答えた。


「庭の手入れをしたり、本を読んだり。気になることがあれば、調べてみたり」


 カイルはしばらく黙っていた。


 それから、少し笑った。


「……そっか」


 短い返事だった。


 けれど、その声には納得したような響きがあった。


「まあ、お前が楽しいならいいけどさ」


「ありがとうございます」


「ただし、ちゃんと飯は食えよ」


「はい」


 エリアスが頷いたところで、ノアが料理を運んできた。


「お待たせしました!」


 温かな料理の香りが、二人の間に広がった。


 カイルはすぐに食事を始めた。


「……うまい!」


 エリアスもひと口食べた。


 いつもの味だった。


 新しい家へ引っ越しても、こうして鈴蘭亭へ来れば、変わらない料理を食べられる。


 そのことが、今はとても嬉しかった。


     ◇


 夜、新しい家へ戻ったエリアスは、書斎の机に地図を広げた。


 今日教えてもらった場所を、ひとつずつ書き込んでいく。


 共同井戸。


 古い水路。


 地盤の弱い旧林道。


 そして、石造りの建物があったという場所。


 それらを線で結ぶと、北の森へ向かう一本の道筋が浮かび上がった。


 ただし、現在の道とは一致しない。


 古い水路は、街道を避けるように地下を通っていたらしい。


 エリアスはその線を指先で辿った。


 そして、ふと気づいた。


「……この位置」


 地図の北側。


 旧林道の先にある、石造りの建物の跡。


 そこは、以前セドリックから借りた古い地図では、何も描かれていなかった場所だった。


 ただ、北の祭殿から伸びる細い線が、途中で途切れている。


 その線の延長上に、今日教えてもらった建物の跡があった。


「……偶然でしょうか」


 エリアスは二枚の地図を重ねた。


 年代も縮尺も違うため、完全には一致しない。


 しかし、北の祭殿から続く線と、旧水路の位置が近いことは確かだった。


 これが同じ施設を示しているなら。


 古い結界は、森の中だけではなく、街の地下にも広がっていたことになる。


 エリアスは手帳を開いた。


『旧水路と北の祭殿を結ぶ経路が存在する可能性あり。』


 そう書き留めたところで、リュカが机の上へ飛び乗った。


 白い獣は地図を覗き込み、鼻先を近づける。


「……どうしました?」


 リュカは古い水路の線を見つめていた。


 そして、そっと前脚を伸ばした。


 触れたのは、石造りの建物があったという場所だった。


 エリアスはその小さな前脚を見た。


「……ここが気になるのですか?」


 リュカは短く鳴いた。


 エリアスはしばらく考えた。


 これまでリュカは、古い結界に関わるものへ何度も反応してきた。


 銀色のランプ。


 境界石。


 祭殿の記録。


 そして、今度はこの場所。


 ただし、リュカが何を知っているのかは、まだわからない。


 エリアスは小さな頭を撫でた。


「……許可が下りたら、一緒に確認してみましょうか」


 白い獣は少しだけ尾を揺らした。


 その反応を見て、エリアスは微笑んだ。


 新しい家での暮らしは、まだ始まったばかり。


 庭には植えたい花があり、書斎には読みたい本がある。


 それなのに、すぐ近くで古い魔法の手がかりが見つかった。


 偶然なのか、それとも何か理由があるのか。


 今はまだわからない。


 エリアスは地図を丁寧に畳んだ。


 窓の外では、春の夜風が木々を揺らしている。


 遠くの北の森は、月明かりの下で静かに広がっていた。


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