第30話 庭の下を流れるもの
庭の北側に印をつけた翌朝、エリアスは小さな測量道具を作っていた。
書斎の机には、薄い銅板が三枚と、細い針金、透明な水晶片が並んでいる。どれも市場で手に入る、ごくありふれた材料だった。
銅板の表面に細かな術式を刻み、針金で水晶片とつなぐ。最後に魔力を少量通すと、水晶の内部に淡い光が灯った。
「……これなら十分でしょう」
完成したのは、地中の魔力の強弱を調べるための簡易観測器だった。
昨日のように直接地面へ触れれば、エリアス自身は魔力の流れを読み取れる。しかし、それだけでは時間ごとの変化を記録しにくい。
必要なのは、同じ条件で何度も測定できる道具だ。
エリアスは三つの観測器を小箱へ収め、手帳を開いた。
庭の北側。
居間の床下。
家から少し離れた、通り沿いの花壇。
まずは、この三か所を比べてみるつもりだった。
「さて、始めましょうか」
椅子から立ち上がると、寝台の上で丸くなっていたリュカが顔を上げた。
昨日から妙に庭を気にしている白い獣は、エリアスが扉へ向かうとすぐに後を追ってきた。
「今日はお庭の調査ですよ」
階段を下りながら声をかける。
「ただし、花壇を掘り返すわけではありませんから、あなたも土を掘らないでくださいね」
リュカは聞こえなかったふりをして、先に階段を下りていった。
エリアスは苦笑した。
どうやら、そこだけは約束してもらえそうにない。
◇
庭へ出ると、朝露を含んだ草が靴の先を濡らした。
春灯花の小さな黄色い花が、まだ開ききらないまま並んでいる。
エリアスは花壇を避け、昨日印をつけた場所へ向かった。
最初の観測器を地面へ置く。
銅板の裏側に刻んだ術式が周囲の魔力を拾い、水晶片へ伝える仕組みだ。地中へ魔力を流し込まないため、古い術式が埋まっていたとしても干渉する心配は少ない。
水晶に、小さな青い光が現れた。
しばらくすると、その光が短く三度揺れた。
少し間を置いて、二度。
そして、長く一度。
昨夜と同じだった。
「……反応は続いていますね」
エリアスは時刻と光の強さを手帳へ記録した。
続いて、居間の床下を調べる。
こちらにもわずかな反応があったが、庭ほどはっきりしていない。
三つ目の観測器を持って門の外へ出ようとしたところで、隣家の扉が開いた。
「あら、おはよう」
マルタだった。
手には水差しを持ち、これから庭の花へ水をやるところらしい。
「おはようございます、マルタさん」
「朝から何をしているの?」
「庭の土を調べているんです。昨日、少し変わった魔力の流れを見つけまして」
「まあ。あの塀の近く?」
「はい」
マルタは水差しを置いた。
「やっぱり、何かあるのかしら」
「今のところ危険な兆候はありません。ただ、地下の様子を確かめておこうと思いまして」
エリアスは観測器を見せた。
マルタは興味深そうに覗き込む。
「きれいねえ。これで土の中がわかるの?」
「魔力の動きだけですが」
「便利なものね。昔は、井戸を掘る場所だって勘で決めたものよ」
「井戸、ですか?」
何気なく聞き返したエリアスに、マルタは頷いた。
「ええ。この辺りにも、昔は共同井戸があったの。今の水路が整う前の話だけどね」
「どちらに?」
「たしか、通りを少し行った先よ。今は埋められているはずだけど」
マルタは住宅街の北側を指差した。
「前に住んでいたルーヴェルさんが、その井戸のことを調べていたわ。古い地図に載ってるとかで」
エリアスは顔を上げた。
「ルーヴェルさんが?」
「ええ。昔のことを調べるのが好きな人だったから」
マルタは懐かしそうに笑った。
「この辺りは昔、水が豊かな土地だったらしいの。でも、井戸が使われなくなってからは、みんな忘れちゃったわね」
エリアスは手元の観測器を見た。
庭の地下を通る、細い魔力の流れ。
以前、この家に住んでいた人物が調べていた共同井戸。
関係があるとは限らないが、確かめてみる価値はあった。
「その井戸の場所を、教えていただけますか?」
「もちろん。そんなに遠くないわよ」
マルタは水差しを玄関へ戻した。
「案内してあげましょうか」
「ご迷惑でなければ」
「ちょうど買い物へ行くところだから、ついでよ」
マルタは楽しそうに笑った。
エリアスは観測器を小箱へ収め、リュカを抱き上げた。
◇
共同井戸があったという場所は、家から歩いて十分ほどのところだった。
住宅街の外れにある、小さな広場である。
中央には古い石の台座が残り、その周りを低い花壇が囲んでいた。
「ここよ」
マルタが足を止めた。
「昔は、この真ん中に井戸があったんですって」
エリアスは台座へ近づいた。
石の表面には長い年月で生じた細かなひびがあり、ところどころに苔が残っている。
普通の井戸跡に見えた。
しかし、台座の内側に、何かを埋め込んでいたような四角い窪みがあった。
「……ここには、何があったのでしょう」
「あら、何だったかしら」
マルタは考え込んだ。
「昔、石の蓋があったとは聞いたけど。私が嫁いできた頃には、もう今の姿だったわ」
「そうでしたか」
エリアスは観測器を取り出した。
台座の上へ置くと、水晶片が淡く光る。
庭で見たものより、少し強い反応だった。
光が三度、短く揺れる。
続いて二度。
最後に長く一度。
エリアスは息を止めた。
まったく同じ間隔だ。
「……なるほど」
ただ、ここでひとつ奇妙なことに気づいた。
庭では北側から南側へ流れていた魔力が、この場所では逆向きになっている。
まるで、地中のどこかで流れが折り返しているようだった。
エリアスは台座の周囲を歩き、反応を比べた。
広場の北側では弱く、南側ではわずかに強い。
しかし、井戸跡の真上だけは明らかに異なっていた。
一定の魔力が、地下からゆっくりと上がってきている。
「……これは水脈ではありませんね」
「何かわかったの?」
マルタが尋ねる。
「昔の井戸の下に、魔力の通り道が残っているようです」
「まあ」
「ただ、井戸そのものが原因というわけではなさそうです。もっと広い範囲につながっているのでしょう」
マルタは台座を眺めた。
「古いものって、案外わからないものなのねえ」
「ええ。見た目だけでは判断できないことも多いですから」
そのとき、リュカがエリアスの腕の中で身を起こした。
白い鼻先を台座へ向け、静かに匂いを嗅いでいる。
だが、以前のように光を放ったり、魔力を使ったりする様子はない。
ただ、その場所を覚えようとしているようだった。
エリアスはリュカを抱き直した。
「……気になりますか」
リュカは短く鳴いた。
その声は穏やかだった。
◇
昼過ぎ、エリアスはクロイス古書店を訪れた。
店内には客が一人いたが、奥の書斎からはレオンハルトが出てきてくれた。
「今日はどうした」
「少し、地図を見せていただきたいのですが」
「また森の件か?」
「ええ。ただ、今回は街の中についてです」
レオンハルトは意外そうな顔をした。
「街の中?」
「新しい家の庭で、古い魔力の流れを見つけまして」
エリアスは午前中の出来事を説明した。
庭の北側で確認した周期的な反応。
共同井戸の跡でも、同じ反応が見られたこと。
そして、井戸跡では魔力の流れる向きが変わっていたこと。
レオンハルトは黙って聞いていた。
「……その井戸なら、心当たりがある」
そう言って、書棚から一冊の古い地誌を取り出した。
表紙には『フィオーレ旧市街記録』と書かれている。
「街の水路について調べた資料だ。百年ほど前の地図も載っている」
エリアスはページをめくった。
現在の中央広場。
湖へ続く道。
住宅街の位置。
今とは少し違う街並みが、細かな線で描かれていた。
「ああ、こちらですね」
エリアスは地図の北東側を指差した。
そこには、共同井戸を示す小さな印があった。
しかし、その近くにもうひとつ、見慣れない記号が描かれている。
「……これは?」
レオンハルトが覗き込んだ。
「古い排水路の記号に似ているな」
「排水路ですか」
「ああ。ただ、今の街の水路とは位置が合わない」
エリアスは地図を見つめた。
井戸から細い線が伸び、北へ続いている。
線は住宅街を抜け、さらに郊外へ向かっていた。
途中で途切れているものの、方向は北の森に近い。
「……水を運ぶための道ではなかったのかもしれません」
エリアスが言うと、レオンハルトが顔を上げた。
「魔力の流路だと?」
「可能性はあります。地下の魔力脈を安定させるために、人工的な補助経路を設けることは古代にも行われていましたから」
エリアスは手帳を開いた。
庭で確認した反応と、共同井戸の記録を並べる。
「ただし、これが北の祭殿から直接つながっているかは、まだわかりません」
「……そうだな」
レオンハルトは頷いた。
「ここまで広い範囲に残っているなら、昔の街そのものに何か役割があったのかもしれない」
「ええ」
エリアスは地図の中央を見た。
昔のフィオーレは、今よりずっと小さな集落だった。
その周囲に、いくつもの井戸と水路が描かれている。
もし、それらが単なる生活用水のためだけではなかったとしたら。
古い結界は、森だけで完結する仕組みではなかったのかもしれない。
「……調べる範囲が広がりましたね」
エリアスが言うと、レオンハルトは少し笑った。
「お前は嬉しそうだな」
「……そうでしょうか」
「顔に出ている」
エリアスは少し考えた。
確かに、新しいことがわかるのは楽しい。
けれど、今回は単なる研究では済まない。
街の暮らしにも関係している可能性があるからだ。
「……興味はありますが、慎重に進めたいと思っています」
「それでいい」
レオンハルトは地誌を閉じた。
「この本は貸してやる。古い街の記録なら、ほかにもいくつかあるはずだ」
「ありがとうございます」
「ただし、読むだけにしておけよ。いきなり井戸を掘り返すな」
エリアスは思わず笑った。
「もちろんです」
◇
夕方、エリアスは鈴蘭亭へ立ち寄った。
食堂では、ノアが夕食の準備をしていた。
「あ、エリアスさん!」
「こんにちは」
「今日はもう家の片づけ終わったんですか?」
「だいたいは。ですが、まだ少し残っています」
「そうですよね。引っ越したばかりですもんね」
ノアは皿を並べながら笑った。
「今日は何をしてたんですか?」
「庭の手入れと、少し調べ物を」
「庭ですか! 何か植えました?」
「まだです。マルタさんから花の種をいただいたので、明日植えてみようと思っています」
「いいですね!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「僕、今度休みの日に手伝いに行ってもいいですか?」
「もちろんです」
「じゃあ、今度は庭仕事ですね!」
ノアが楽しそうに言った。
そのとき、厨房からミラが顔を出した。
「ノア、庭仕事もいいけど、その前にうちの裏庭を片づけておくれ」
「……母さん!」
「人の家のことばっかり気にしてるんじゃないよ」
ノアが困ったような顔をする。
エリアスは笑いながら、空いている席へ腰を下ろした。
こうして鈴蘭亭へ戻ってくると、以前と変わらない時間が流れていることに安心する。
新しい家に暮らし始めても、この場所とのつながりは変わらない。
そのことが、素直に嬉しかった。
◇
夜、新しい家へ戻ったエリアスは、書斎の机に古い地誌を広げた。
ランプの明かりが、黄ばんだ紙を照らしている。
窓の外では、春の風が木々を揺らしていた。
リュカは机の隅で丸くなり、時折、眠たそうに尾を動かしている。
エリアスは共同井戸の位置を、現在の地図へ書き写した。
庭。
井戸跡。
古い水路。
そして、北の森。
それぞれの位置を線で結んでいく。
すると、ひとつ気になることがあった。
井戸から北へ続く線は、現在の主要な街道とは重なっていない。
むしろ、古い集落の外側を回り込むように伸びていた。
その線は、途中でいくつもの小さな印を通っている。
「……これは何でしょう」
エリアスは古い地誌の説明文を読み直した。
しかし、その印についての記述は見当たらない。
ただ、地図の端に小さな注釈が残っていた。
『旧水路、閉鎖済み。
北部施設との接続については、別記録を参照。』
エリアスは手を止めた。
北部施設。
その言葉が指すものは、まだわからない。
けれど、古い地図に残された線が、北の森へ向かっているのは確かだった。
エリアスは手帳へ書き留めた。
そのとき、リュカが突然顔を上げた。
白い獣は窓の方を見つめている。
「……どうしました?」
エリアスが尋ねると、リュカは机から飛び降りた。
そして、書斎の扉の前で立ち止まる。
何かを待っているようだった。
エリアスは椅子から立ち上がった。
「下へ行きたいのですか?」
リュカは短く鳴いた。
二人は階段を下り、居間へ向かった。
すると、窓の外で小さな光が揺れているのが見えた。
庭の北側。
昨日から調べている場所だった。
エリアスは窓を開けた。
花壇の上に、淡い青色の光が浮かんでいる。
蛍より少し大きいほどの光だった。
ひとつ。
ふたつ。
やがて、三つ。
小さな光はゆっくりと庭を漂い、木の枝の間を通り抜けていく。
エリアスは魔力の流れを確かめた。
光そのものには、ほとんど魔力がない。
むしろ、地中から漏れ出したわずかな魔力が、空気中で形を取っているようだった。
「……魔力の発光現象でしょうか」
エリアスは庭へ出た。
光は彼が近づいても逃げず、ただゆっくりと漂っている。
その動きは、不規則ではなかった。
短く三度、明るくなる。
少し間を置いて、二度。
そして、長く一度。
エリアスは静かに息を吐いた。
やはり、同じ反応だった。
銀色のランプ。
北の祭殿。
共同井戸。
そして、この庭。
すべてが、同じ周期で反応している。
だが、今夜はもうひとつ、違うことが起きていた。
光のひとつが、ゆっくりと北へ移動し始めたのだ。
残る光も、その後を追うように動く。
庭の塀を越え、住宅街の方へ。
エリアスは目で追った。
光は家々の屋根の間を通り抜け、やがて夜の闇へ溶け込んでいった。
「……道を示しているのでしょうか」
呟くと、足元のリュカが短く鳴いた。
エリアスはその声を聞き、少し考えた。
追いかけようと思えば、追いかけられる。
しかし、夜の住宅街を無闇に歩き回る必要はない。
それに、光がどこへ向かったのかは、魔力の流れを辿れば後から確認できるだろう。
エリアスは庭の地面へ小さな観測術式を設置した。
周囲の魔力を乱さない、ごく簡単な記録用のものだ。
朝になれば、夜の間に起きた変化を確かめられる。
「……今日は、ここまでですね」
エリアスは家へ戻った。
リュカも後をついてくる。
窓を閉めると、庭の光はもう見えなくなっていた。
けれど、地中を流れる魔力は、今も静かに続いている。
エリアスは書斎へ戻り、机の上の地図を見た。
北の森へ続く古い線。
その先には、まだ調べていない施設の記録がある。
そして、今夜の光は確かに北へ向かった。
エリアスは手帳を開き、最後の一行を書き加えた。
『庭の発光現象、北へ移動。旧水路の方向と一致する可能性あり。』
書き終えると、筆を置いた。
窓の外には、春の夜が広がっている。
新しい家で暮らし始めて、まだ二日目。
庭には花を植える場所があり、書斎には読みたい本が並んでいる。
そして、その足元には、三百年前から続く古い仕組みが残されているのかもしれない。
エリアスは少し笑った。
「……この家は、思っていた以上に面白い場所ですね」
リュカは机の上から彼を見上げ、静かに尾を揺らした。




