第29話 庭に咲く花と、古い魔法の知らせ
新しい家で迎えた最初の朝、エリアスは見慣れない天井を眺めながら目を覚ました。
窓の向こうから聞こえてくるのは、鳥の鳴き声と、どこかで水を汲む音。鈴蘭亭にいた頃のような厨房の賑わいはなく、家の中は驚くほど静かだった。
しばらく横になってから、昨夜ここへ引っ越してきたことを思い出す。
寝台の端では、リュカが枕に顎を載せて眠っていた。
「おはようございます」
エリアスが声をかけると、白い耳が片方だけ動いた。
まだ起きるつもりはないらしい。
エリアスは寝台を離れ、窓を開けた。
春の朝の空気が、薄いカーテンを揺らす。
庭の木には小鳥が二羽とまっていた。枝から枝へ飛び移りながら、何かをついばんでいる。
その下には、昨日リュカが気に入っていた木製のベンチがあった。
エリアスはしばらく庭を眺めていたが、やがて階下へ向かった。
台所に立つと、昨日ノアに教わったとおり、鍋へ水を入れた。
まずは朝食の準備だ。
パンは鈴蘭亭で購入したものがある。果物も、昨日市場で買っておいた。
あとは温かい飲み物を用意すれば、十分だろう。
湯を沸かしながら、エリアスは棚から茶葉の入った缶を取り出した。
ところが、そこで手が止まった。
「……茶漉しがありませんね」
昨日、食器や鍋は購入した。
カップもある。
しかし、茶葉を漉すための道具を買い忘れていた。
エリアスはしばらく棚の中を探したが、当然ながら見つからなかった。
「……仕方ありません」
指先へ魔力を集めかけて、思い直す。
茶葉だけを取り除く魔法なら、造作もない。
けれど、これから毎朝そのために魔法を使うのも、少し違う気がした。
オスカーが旅立つ前に渡してくれた手帳には、こんなことが書いてあった。
『生活用品は、一度に揃えようとせず、必要になったものを買い足すこと。』
エリアスはその文章を思い出し、カップを棚へ戻した。
「今日は市場で茶漉しを買いましょう」
ひとまず、朝は温めた果実水にすることにした。
鍋で温めると、甘酸っぱい香りが台所に広がる。
居間の食卓へ運ぶ頃には、リュカも階段を下りてきていた。
小さな白い獣は椅子へ飛び乗り、エリアスの朝食を眺めている。
「あなたの分もありますよ」
別の皿へ取り分けておいた鶏肉を見せると、リュカはすぐにそちらへ向かった。
エリアスは椅子に腰を下ろした。
窓の外には、陽光の差し込む庭が見える。
食卓には、パンと果物と温かい飲み物。
宿の朝食ほど品数は多くないが、自分で用意したものだった。
ひと口食べる。
昨日と同じパンのはずなのに、少し違う味がした。
焼き直しが足りなかったのかもしれない。
それでも悪くなかった。
「……こういう朝も、いいですね」
リュカは返事をせず、鶏肉を食べ続けていた。
◇
朝食を終えたあと、エリアスは庭の手入れを始めた。
最初に取りかかったのは、古い花壇だった。
前の住人が大切にしていたらしい木の周りには、小さな草花が残っている。
雑草と見分けがつきにくいものもあったため、エリアスは植物図鑑を片手に、一株ずつ確認していった。
王立魔導院では、薬草の成分や魔力の性質について数多く学んできた。
しかし、庭に生える植物のすべてが研究対象になるわけではない。
名前も知らない、ごく普通の草花がある。
エリアスはそのひとつを指先で持ち上げた。
細い茎の先に、淡い黄色の花が咲いている。
「……春灯花ですね」
図鑑に載っていた名前を読み上げる。
特別な薬効もなく、魔力もほとんど持たない植物だった。
けれど、春になると小さな花を咲かせ、初夏まで庭を彩るという。
エリアスは抜きかけていた手を離した。
「これは残しておきましょう」
その隣には、白い花をつける草が生えている。
こちらも、特に珍しい種類ではなかった。
エリアスは花壇の端を少し整え、残す植物と取り除く草を分けていった。
しばらくすると、庭の門の向こうから声がした。
「おはよう、エリアスさん」
顔を上げると、隣家のマルタが立っていた。
「おはようございます、マルタさん」
「朝から精が出るわねえ」
「庭を少し整えようと思いまして」
マルタは花壇を覗き込み、嬉しそうに笑った。
「あら、その花を残してくれたのね」
「はい。春灯花というそうですね」
「そうなの。毎年、勝手に芽を出すのよ」
マルタは門を開け、庭へ入ってきた。
「前の奥さんも、それを抜かずに残していたわ」
「そうだったのですね」
「ええ。立派な花じゃないけれど、春になると庭が明るくなるからって」
エリアスは黄色い花へ目を向けた。
確かに、ひとつひとつは小さい。
けれど、まとまって咲いている姿は愛らしかった。
「……素敵な考え方ですね」
「そうでしょう?」
マルタは笑った。
「それと、庭をいじるなら、あっちの隅は気をつけてね」
指差されたのは、北側の塀の近くだった。
「去年、雨のあとに土が沈んだことがあるの」
「土が、ですか?」
「ええ。大したことはなかったんだけど、少し穴が開いてね。息子に頼んで埋めてもらったのよ」
エリアスはその場所を見た。
昨日、魔力が薄いと感じたのも、ちょうどその辺りだった。
「……いつ頃のことでしょう」
「去年の秋だったかしら。正確には覚えていないけど」
「そうでしたか」
エリアスは立ち上がり、塀の近くへ歩いた。
地面は平らに整えられている。
表面には新しい草が生え、穴が開いていた痕跡はほとんど残っていなかった。
「……少し調べてもよろしいですか?」
「もちろん。何か気になるの?」
「いえ、念のためです」
エリアスはしゃがみ込み、土へ手を触れた。
魔力の流れを慎重に確かめる。
薄い。
やはり、周囲よりも魔力が少なかった。
けれど、まったく存在しないわけではない。
地面の下を、ごく細い流れが通っている。
その方向は、北から南へ向かっていた。
「……これは」
エリアスは手を止めた。
庭の地下に、人工的な魔力回路があるわけではない。
しかし、自然の魔力脈とも少し違う。
長い年月をかけて、一定の方向へ流れが作られたような状態だった。
「何かわかった?」
マルタが尋ねる。
エリアスは顔を上げた。
「地面の下に、少し変わった魔力の流れがあります」
「魔力?」
「はい。ただ、危険なものではなさそうです」
エリアスは慎重に言葉を選んだ。
現時点では、森の結界との関係もわからない。
必要以上に不安を与える理由はなかった。
「しばらく様子を見てみます。もし地面が沈んだり、何か変わったことがあれば教えてください」
「わかったわ」
マルタは頷いた。
「あなた、魔法に詳しいのね」
「少し、勉強していましたので」
「それなら安心ね」
マルタは笑い、持っていた小さな袋を差し出した。
「そうそう。これ、よかったら植えてみて」
中には、丸い種がいくつか入っていた。
「何の種でしょう?」
「夏に咲く花よ。背はあまり高くならないし、手入れも簡単なの」
「ありがとうございます」
エリアスは種を受け取った。
「大切に育てます」
「咲いたら見せてちょうだいね」
「もちろんです」
マルタは満足そうに笑い、隣家へ戻っていった。
エリアスは手元の種を眺めた。
庭へ植えるものが、またひとつ増えた。
◇
昼前、エリアスは市場へ出かけた。
目的は茶漉しと、足りない生活用品を買うことだった。
通りには買い物客が行き交い、露店からは果物や焼き菓子の香りが漂っている。
エリアスは店をいくつか回り、茶漉しと小さな布巾、それから保存用の瓶を購入した。
帰り道、ルドが管理する薬草店の前を通りかかった。
店先には乾燥させた薬草が吊るされ、木箱の中には新しい苗が並んでいる。
「おや、エリアスさん」
ルドが声をかけてきた。
「こんにちは。今日はお店にいらしたのですね」
「ああ。畑もだいぶ落ち着いたからね。久しぶりに店の方を手伝ってるんだ」
ルドは嬉しそうに笑った。
「おかげさまで、北の畑も元気になってきたよ」
「それはよかったです」
「ただ、まだ全部は戻っていないから、様子を見ながら育ててるところだ」
エリアスは頷いた。
北の森の異変は、完全には解決していない。
第三標の流れを整えたことで、周辺への影響は弱まっているが、根本的な仕組みはまだ不明なままだった。
「また近いうちに、畑を確認させてください」
「もちろんだよ」
ルドは頷いた。
「そういえば、あげた苗はどうだい?」
「元気に育っています。新しい葉も増えました」
「そりゃよかった」
ルドは満足そうに笑った。
「そろそろ少し大きな鉢に植え替えてもいい頃だね」
「実は、庭のある家へ引っ越したんです」
「おお、そうなのか!」
ルドの表情が明るくなった。
「それなら、庭に植えてやるといい。日当たりがよければ、よく育つよ」
「ありがとうございます。試してみます」
「ただし、水をやりすぎないようにな。薬草は種類によって好む環境が違うからね」
「はい。気をつけます」
ルドは店の奥から小さな袋を取り出した。
「これも持っていきなさい」
中には、乾燥させた種が入っていた。
「薬草の種だよ。育てやすい種類だから、初心者にも向いてる」
「よろしいのですか?」
「ああ。畑を助けてもらったお礼だ」
エリアスは丁寧に受け取った。
「ありがとうございます」
ルドは穏やかに笑った。
「植物を育てるのは、気長にやるのが一番だよ。急いだからって、早く大きくなるわけじゃない」
エリアスはその言葉を聞き、少し考えた。
魔法を使えば、植物の成長を促すことはできる。
けれど、無理に育てることが必ずしもよい結果につながるわけではない。
森の古い結界も、どこか似ているのかもしれなかった。
無理に力を加えるのではなく、本来の流れを理解すること。
それが、正しい方法を見つけるために必要なのだろう。
「……勉強になります」
エリアスが言うと、ルドは少し照れたように笑った。
「大したことは言ってないよ」
エリアスは礼を述べ、薬草店をあとにした。
◇
新しい家へ戻ると、玄関の前に見覚えのある馬車が停まっていた。
辺境伯家の紋章が入った、小ぶりの馬車だった。
その傍らでは、セドリックが庭を眺めている。
「セドリック様?」
声をかけると、セドリックが振り返った。
「こんにちは、エリアス殿」
「こんにちは。お待たせしてしまいましたか?」
「いえ。今来たところです」
セドリックは微笑んだ。
「新しいお住まいが決まったと伺ったので、ご挨拶にと思いまして」
「ありがとうございます」
「それから、昨日お送りした報告についても、少しお話しできればと」
「ちょうど私も気になっていました」
エリアスは鍵を取り出した。
「よろしければ、中へどうぞ」
「では、お言葉に甘えて」
二人は家の中へ入った。
居間には新しく購入した丸い食卓と椅子が並び、窓辺には薬草の鉢植えが置かれている。
まだ飾り気の少ない部屋だったが、セドリックは興味深そうに見回した。
「いい家ですね」
「ありがとうございます。とても気に入っています」
「静かで、日当たりもよい。書斎もあるそうですね」
「ええ。二階に」
「それは羨ましい」
セドリックは少し笑った。
「私も、仕事用ではない書斎が欲しいものです」
「お屋敷にも、書庫があるではありませんか」
「あれは家のものですから。好きな本を好きなだけ並べられる場所とは、少し違うのですよ」
エリアスはなるほどと思った。
確かに、王立魔導院の書庫も、自分のものではなかった。
蔵書は豊富だったが、自由に並べ替えるわけにはいかない。
自分だけの書斎というのは、それとは違う楽しみがあるのだろう。
「……よかったら、今度見にいらしてください」
「ぜひ」
セドリックは嬉しそうに頷いた。
エリアスは台所へ向かった。
「お茶を淹れますね」
「ありがとうございます」
今朝購入したばかりの茶漉しを取り出し、湯を沸かす。
やがて、茶葉の香りが居間へ広がった。
エリアスは二つのカップへ紅茶を注ぎ、食卓へ運んだ。
「どうぞ」
「いただきます」
セドリックはひと口飲み、微笑んだ。
「おいしいですね」
「よかったです。こちらで初めてお客様にお出しするお茶なんです」
「それは光栄です」
二人はしばらく、穏やかに紅茶を楽しんだ。
庭では、リュカが日向ぼっこをしている。
その姿を見たセドリックが、少し表情を和らげた。
「リュカも元気そうですね」
「ええ。もうすっかり回復しました」
「安心しました」
セドリックはカップを置いた。
「……それでは、森の件についてお話ししましょうか」
◇
セドリックが鞄から取り出したのは、一枚の観測記録だった。
そこには、祭殿周辺で確認された魔力反応が、時間ごとに書き留められている。
エリアスは記録へ目を落とした。
短い反応が三度。
間を置いて二度。
そして、長い反応が一度。
「……やはり」
思わず呟く。
セドリックが顔を上げた。
「何かわかりましたか?」
「ええ。以前、銀色のランプが同じ反応を示しました」
「同じ?」
「はい。間隔まで一致しています」
エリアスは書斎から手帳を持ってきた。
昨夜記録した内容を開き、セドリックの報告書と並べる。
二つの記録は、ほぼ同じだった。
「……確かに」
セドリックが驚いたように言った。
「偶然とは思えませんね」
「ええ。祭殿から発せられた信号を、ランプが受け取ったのでしょう」
エリアスは頷いた。
銀色のランプが観測器であることは、以前の調査でほぼ確かになっていた。
今回の記録は、その考えをさらに裏づけるものだった。
「問題は、この信号の意味です」
セドリックは考え込んだ。
「異常を知らせるものなのでしょうか」
「可能性はあります。ただ、これまでのような不規則な魔力の乱れとは異なります」
エリアスは手帳をめくった。
古代魔法の観測術式では、一定の反応を組み合わせて情報を伝える仕組みが使われることがある。
しかし、今回の信号は、一般的な符号とは一致しなかった。
「……何か特別な意味があるのかもしれません」
エリアスは静かに言った。
セドリックは頷いた。
「レオンハルト殿にも、記録をお渡ししましょう」
「ええ。古い資料に、似た記述があるかもしれません」
「では、こちらで手配します」
二人は今後の調査について、しばらく話し合った。
街の結界は安定している。
第三標の周辺でも、大きな異常は確認されていない。
ただし、祭殿の中心部分は、依然として不明なままだ。
新しい信号が何を意味しているのか。
それが、次の手がかりになる可能性は高かった。
◇
セドリックが帰ったあと、エリアスは居間の窓辺へ腰を下ろした。
庭には、夕方の光が差し込んでいる。
リュカはいつの間にか家の中へ戻ってきており、彼の足元で体を丸めていた。
エリアスは手帳を開いた。
三度。
二度。
一度。
規則的な反応。
古い祭殿が、何かを伝えようとしている。
その考えは、もうほとんど疑いようがなかった。
しかし、誰に向けたものなのだろう。
七つの境界石を管理していた人々は、すでにいない。
祭殿を守っていた者たちも、記録の中にしか残っていない。
それなのに、今になって信号が発せられている。
「……誰かが、受け取るのを待っているのでしょうか」
エリアスは小さく呟いた。
すると、リュカが顔を上げた。
淡い青色の瞳が、まっすぐに彼を見つめる。
「……リュカ?」
白い獣は静かに立ち上がり、エリアスの膝へ飛び乗った。
そして、手帳の上へ前脚を置いた。
ちょうど、信号の間隔を書き留めた部分だった。
エリアスはその様子を見つめた。
「……あなたは、この意味を知っているのですか?」
リュカは答えなかった。
けれど、その前脚は、しばらく手帳の上から動かなかった。
エリアスはそっと背を撫でた。
以前のように、魔力を使わせるつもりはない。
ただ、リュカが何かを伝えたいと思っているのなら、できるだけ理解したかった。
そのとき、窓の外から風が吹き込んだ。
庭の木が揺れ、小さな葉が一枚、窓辺へ舞い込んでくる。
リュカはその葉へ目を向けた。
それから、ふいに窓の外を見つめた。
エリアスも同じ方角へ顔を向ける。
庭の北側。
昨日、魔力が薄いと感じた場所だった。
そこには、特に変わったものはない。
塀があり、その手前に小さな花壇があるだけだ。
しかし、リュカはその場所をじっと見つめていた。
「……何かあるのでしょうか」
エリアスは立ち上がった。
庭へ出て、北側の塀へ近づく。
地面へ手を触れ、魔力の流れを確かめた。
やはり、ほかの場所より魔力が薄い。
ただし、朝とは少し違っていた。
地中を流れる細い魔力が、一定の間隔でわずかに揺れている。
その間隔は。
三度。
二度。
一度。
エリアスは手を止めた。
「……同じですね」
祭殿の信号。
銀色のランプ。
そして、この庭の地下。
離れた場所で、同じ反応が確認された。
エリアスはゆっくりと顔を上げた。
北の森から、この庭まで。
地中の魔力は、どこかでつながっているらしい。
けれど、なぜこの場所だけに反応が現れるのか。
その理由は、まだわからなかった。
エリアスはしばらく考えたあと、地面へ小さな印をつけた。
今すぐ掘り返すつもりはない。
まずは記録を取り、ほかの場所でも同じ反応があるか調べる必要がある。
「……どうやら、思っていたよりも近くにあるようですね」
エリアスは静かに呟いた。
腕の中のリュカが、短く鳴いた。
その声を聞きながら、エリアスは庭の向こうへ目を向けた。
遠くには、春の夕暮れに包まれたフィオーレの街が広がっている。
新しい家。
小さな庭。
そして、その地下を流れる古い魔力。
偶然選んだはずのこの家にも、森の古い約束につながる何かが残されているのかもしれなかった。
エリアスは小さく息を吐いた。
「……明日は、少し忙しくなりそうですね」
そう言って、庭の花壇へ目を落とした。
朝に残しておいた春灯花が、夕方の風に揺れている。
その淡い黄色の花は、何も知らないように静かに咲いていた。




