第28話 新居に届いた思いがけないもの
引っ越しの日は、よく晴れていた。
朝のフィオーレには薄い雲が浮かび、通りを抜ける風も穏やかだった。鈴蘭亭の前には小さな荷車が停まり、カイルが木箱をひとつずつ積み込んでいる。
「……エリアス」
「はい?」
「確認しておきたいんだけどさ」
カイルは荷車に載せた箱を見下ろした。
「これ、全部本なのか?」
「半分ほどは」
「半分?」
「ほかには衣類や日用品があります。魔道具も少し」
カイルは箱の数を数えた。
「……少し、ねえ」
荷車にはすでに六つの木箱が載っている。そのうち四つには、エリアスの丁寧な文字で『書籍』と記されていた。
「本って、こんなに重かったっけ」
「紙は一枚ずつなら軽いのですが、まとまると重くなりますから」
「それは知ってるよ」
カイルが苦笑すると、玄関からノアが出てきた。
「エリアスさん、部屋の確認終わりました!」
「ありがとうございます」
「忘れ物はなさそうです。あとはリュカだけですね」
そう言ったところで、二階から軽い足音が聞こえてきた。
ほどなくして、白い獣が階段を駆け下りてくる。
リュカは玄関で立ち止まると、並んだ木箱を見回した。
「お、主役の登場だな」
カイルが手を伸ばす。
しかしリュカは、その手をするりと避けてエリアスの足元へ向かった。
「相変わらず俺には厳しいなあ」
「嫌われているわけではないと思いますよ」
「本当か?」
「以前よりは近づいてくれるようになりましたから」
カイルはリュカを見た。
白い獣も、じっとカイルを見返している。
「……まあ、気長に仲良くなるか」
そう言って笑うと、リュカは興味をなくしたように顔を背けた。
ノアが吹き出した。
「まだまだ時間がかかりそうですね」
カイルは肩をすくめ、最後の箱を荷車へ載せた。
◇
出発前、エリアスはもう一度、鈴蘭亭の食堂へ戻った。
朝食を終えた客たちはすでに出発し、室内は静かになっていた。
厨房ではミラが昼食の仕込みをしている。
「ミラさん」
声をかけると、ミラは手を拭きながら振り返った。
「ああ、エリアスさん。荷物は全部積めたのかい?」
「はい。これから出発します」
「そうかい」
ミラはしばらくエリアスを見つめ、それから厨房の棚へ手を伸ばした。
「なら、これを持っていきな」
差し出されたのは、布に包まれた小さな籠だった。
中には焼きたてのパンと、瓶に入った果物のジャムが収められている。
「新しい家じゃ、まだ料理もできないだろう? お昼にでも食べなさい」
「……ありがとうございます」
「あと、こっちも」
ミラはもうひとつ、小さな包みを差し出した。
開けると、中には木製の匙が二本入っていた。
「昔、知り合いの職人に作ってもらったものなんだけどね。丈夫だから、普段使いにはちょうどいいよ」
エリアスは匙を手に取った。
持ち手には小さな花の模様が彫られている。
派手な装飾ではないが、丁寧な仕事だった。
「……素敵ですね」
「気に入ったならよかった」
ミラは満足そうに笑った。
エリアスは匙を包み直し、籠へ収めた。
「大切に使わせていただきます」
「そんなに畏まらなくていいんだよ」
ミラは笑いながら、エリアスの肩を軽く叩いた。
「引っ越したって、うちの常連なのは変わらないんだから」
「……はい」
エリアスは微笑んだ。
最初にこの宿へ来たときは、数日だけ滞在するつもりだった。
知らない街で宿を探し、食事をして、気ままに過ごす。
それだけの予定だったのに、今ではここへ来ることが日常の一部になっている。
「本当に、お世話になりました」
エリアスが頭を下げると、ミラは少し照れくさそうに笑った。
「ほら、もう行きな。カイルが外で待ってるよ」
「はい。また夕食に伺います」
「今日は引っ越し祝いに、何か作っておくからね」
その言葉に、エリアスの表情が明るくなった。
「楽しみにしています」
◇
新しい家に到着すると、荷車から家具を下ろす作業が始まった。
家具屋の職人たちが先に届けてくれた寝台や机は、すでに各部屋へ運び込まれている。
カイルは居間の中央に立ち、周囲を見回した。
「お、いいじゃないか」
「でしょう?」
ノアが嬉しそうに言った。
「書斎もあるんですよ。二階の」
「それは聞いた。まずは荷物を入れようぜ」
三人は木箱を運び始めた。
エリアスも手伝おうとしたが、カイルから重い箱を取り上げられた。
「お前はどこに置くか指示してくれ」
「ですが、私も運べますよ」
「知ってる。魔法で一度に全部運ぶことだってできるんだろ?」
「ええ」
「でも、今日は俺たちも手伝いに来てるんだからさ」
カイルは箱を肩に担ぎ直した。
「少しくらい働かせてくれよ」
エリアスは一瞬言葉に詰まった。
自分が魔法を使えば、荷物を運ぶのにそれほど時間はかからない。
けれど、カイルたちは朝から準備をしてくれた。
ノアも仕事の合間を縫って来てくれている。
その気持ちを、無理に断る必要はないのだろう。
「……では、お願いします」
「おう。任せとけ」
カイルは二階へ続く階段を上がっていった。
エリアスはその背中を見送り、居間の窓を開けた。
庭には春の光が差し込んでいる。
リュカはすでに日当たりのよい場所を見つけたらしく、木製のベンチの下でくつろいでいた。
「……あなたは、早いですね」
声をかけると、リュカが片耳を動かした。
エリアスは笑い、次の箱へ手を伸ばした。
◇
昼前には、大きな荷物の運び込みが終わった。
残っているのは、本や食器を棚へ並べる作業くらいだった。
「いやあ、終わった終わった!」
カイルは居間の椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。
ノアも隣に座る。
「思ったより早かったですね」
「俺たちが頑張ったからな」
「エリアスさんも結構運んでましたよ」
「そうだったな」
カイルは笑った。
エリアスは台所で、ミラからもらったパンを皿へ並べていた。
まだ食器の置き場所も決まっていないため、必要なものを木箱から取り出しながらの作業だ。
「お昼にしましょうか」
「お、待ってました!」
カイルが立ち上がる。
ノアは台所へ来ると、エリアスの手元を覗いた。
「ジャムもあるんですね」
「ええ。ミラさんが持たせてくださいました」
「母さん、昨日から準備してたんですよ」
「そうだったのですか?」
「はい。新しい家で最初に食べるものだから、おいしいものにしたいって」
エリアスは少し驚いた。
ミラは今朝、何気ない様子で籠を渡してくれた。
けれど、前日から準備してくれていたらしい。
「……あとで、改めてお礼を伝えなければなりませんね」
「きっと喜びますよ」
ノアは笑った。
三人は丸い食卓を囲み、パンとジャムを分け合った。
まだ何も飾られていない居間。
壁際には開けていない箱が残り、窓辺には鉢植えがひとつ置かれている。
それでも、食卓を囲む人がいるだけで、部屋はずいぶん賑やかに感じられた。
「……こういうのもいいな」
カイルがパンを食べながら言った。
「何がですか?」
エリアスが尋ねる。
「新しい家で、みんなで飯食うの」
「ああ、確かに」
ノアも頷いた。
「まだ何も揃ってないのに、もう住んでるって感じがしますよね」
エリアスは部屋を見回した。
窓から入る風。
食卓の上のパン。
笑いながら話す二人。
家具を選んでいたときには想像していなかった光景だった。
「……そうですね」
エリアスはゆっくりと頷いた。
「私も、そう思います」
◇
午後になると、ノアは鈴蘭亭へ戻り、カイルもギルドの用事があると言って帰っていった。
一人になった家は、急に静かになった。
エリアスは二階の書斎で、本を棚へ並べていた。
魔法理論。
古代文字の研究書。
旅先で購入した植物図鑑。
レオンハルトから借りた地方の伝承集。
種類ごとに分けながら、一冊ずつ棚へ収めていく。
やがて、持参した本をすべて並べ終えた。
棚にはまだ余裕がある。
「……もう少し増やしても大丈夫そうですね」
独り言を呟いたところで、玄関の方から控えめな物音がした。
誰かが扉を叩いている。
エリアスは階段を下り、玄関へ向かった。
「はい」
扉を開けると、そこには年配の女性が立っていた。
灰色がかった髪を後ろでまとめ、腕には小さな籠を抱えている。
「こんにちは。突然ごめんなさいね」
「こんにちは」
「お隣の家に住んでいるマルタといいます。今日、お引っ越しだって聞いたものだから」
エリアスは丁寧に頭を下げた。
「エリアス・レインフォードと申します。本日から、こちらに住むことになりました」
「まあ、ご丁寧に」
マルタは優しく笑った。
「前のご夫婦が引っ越してから、ずっと空いていたでしょう? また人が住むようになって嬉しいわ」
「そうだったのですね」
「これ、よかったらどうぞ」
差し出された籠には、小さな焼き菓子が入っていた。
表面に砂糖が薄くまぶされ、甘い香りが漂っている。
「うちで焼いたものなの。お口に合うかわからないけれど」
「ありがとうございます。とてもおいしそうです」
エリアスは籠を受け取った。
マルタは玄関の中を少し覗き込み、笑った。
「まだ片づけの途中ね」
「はい。荷物を運び終えたところです」
「何か困ったことがあったら声をかけてちょうだい。うちはすぐ隣だから」
「ありがとうございます」
「それと、庭の木は切らないであげてね」
マルタが少し声を落とした。
エリアスは顔を上げる。
「庭の木、ですか?」
「ええ。あの白い花が咲く木。前の奥さんが大切にしていたのよ」
エリアスは庭へ視線を向けた。
小さな木が、春の風に揺れている。
「切るつもりはありませんよ」
「そう? よかった」
マルタは安心したように笑った。
「春になると、ほんとうにきれいな花が咲くの。来年が楽しみね」
「ええ。私も楽しみです」
その返答に、マルタは満足そうに頷いた。
簡単な挨拶を交わし、彼女は隣家へ戻っていった。
エリアスは扉を閉め、手元の籠を見た。
朝にはミラからパンをもらい、今は隣人から焼き菓子をいただいた。
まだ何も返せていない。
そのことを少し気にしていると、足元へリュカがやってきた。
「……どうしました?」
リュカは籠を見上げた。
エリアスは思わず笑った。
「これは、あなたの食べ物ではありませんよ」
白い獣は不満そうに鼻を鳴らした。
「あとで、あなたの分も用意しますから」
そう言うと、リュカはようやく離れていった。
◇
夕方、エリアスは庭へ出た。
日差しは少し弱まり、木々の影が長く伸びている。
庭の隅には、前の住人が残した小さな花壇があった。
土は固くなっていたが、雑草を取り除けば使えそうだった。
エリアスはしゃがみ込み、指先で土を確かめた。
魔力の循環は穏やかだった。
ただ、少し気になることがあった。
庭の北側だけ、ほかの場所より魔力が薄い。
ごくわずかな差だったが、確かに違っていた。
「……こちらも、森の影響でしょうか」
エリアスは顔を上げた。
遠くに見える北の森は、夕暮れの光の中で静かに広がっている。
街を守るための結界は、今も正常に働いていた。
それでも、森の古い術式が完全に安定したわけではない。
地下の魔力脈にも、まだ調べるべき部分が残っている。
エリアスは土から手を離した。
今は庭の魔力を無理に整える必要はない。
植物が育つには十分な状態だった。
「……まずは、普通に育ててみましょう」
そう呟き、立ち上がった。
そのとき、庭の門の方から声がした。
「エリアス殿!」
振り返ると、見覚えのある使者が立っていた。
辺境伯家の紋章が入った上着を着ている。
「こんにちは」
「お引っ越しの最中に失礼いたします。セドリック様からお手紙を預かっております」
「ありがとうございます」
エリアスは門へ向かい、手紙を受け取った。
封筒には緑色の封蝋が押されている。
差出人を確認し、その場で封を切った。
『エリアス殿
新しいお住まいへのお引っ越し、誠におめでとうございます。
落ち着かれましたら、ぜひ一度お祝いに伺えればと思っております。
さて、北の森に関する件で、新たな報告が入りました。
監視を続けている魔導技師によると、祭殿周辺の魔力が、一定の間隔で反応を繰り返しているとのことです。
これまでの不規則な揺らぎとは異なるため、現在詳しく調べさせております。
急ぎの対応をお願いするものではありませんが、念のためお知らせいたします。
セドリック・エルフォード』
エリアスは手紙を読み終えた。
一定の間隔で繰り返される反応。
その言葉に、昨夜の銀色のランプを思い出した。
短く三度。
少し間を置いて、二度。
そして、長く一度。
あの規則的な明滅と、何か関係があるのだろうか。
「……ひとつ、確認していただきたいことがあります」
エリアスは使者へ声をかけた。
「セドリック様に、祭殿の反応がどのような間隔で起きているのか、詳しい記録をお願いできますか」
「承知いたしました」
「可能であれば、反応の強さも記録していただけると助かります」
「そのようにお伝えいたします」
使者は丁寧に頭を下げ、屋敷へ戻っていった。
エリアスは手紙を畳み、鞄へ収めた。
祭殿の反応が、規則的になっている。
それは、古い術式が安定し始めた兆候なのかもしれない。
あるいは、これまで眠っていた機能が、再び動き始めているのか。
今の段階では、どちらとも言えなかった。
エリアスは庭から家へ戻り、書斎へ向かった。
◇
机の上に銀色のランプを置き、昨夜の記録を広げる。
短く三度。
二度。
長く一度。
エリアスはその間隔を、魔法術式の記号へ置き換えてみた。
古代魔法では、一定の魔力変化を情報として伝える技術が存在した。
現代でも似た仕組みは使われているが、当時はもっと単純な形だったらしい。
ただし、符号の意味を知らなければ、内容を読み取ることは難しい。
「……信号だとしたら、誰に向けたものなのでしょう」
エリアスは記録を眺めた。
銀色のランプは、古代の観測器だった可能性が高い。
ならば、祭殿から送られてくる情報を受け取っていても不思議ではない。
問題は、その情報が何を意味しているかだった。
エリアスは手帳にいくつかの仮説を書き留めた。
魔力の量。
術式の状態。
異常の有無。
あるいは、特定の機能が起動したことを知らせる合図。
どれも考えられる。
しかし、まだ判断できなかった。
そのとき、足元にいたリュカが静かに近づいてきた。
白い獣は机の脚に前脚をかけ、エリアスを見上げた。
「どうしました?」
抱き上げると、リュカは机の上のランプへ視線を向けた。
だが、以前のように触れようとはしない。
ただ、じっと見つめている。
エリアスはその様子を確かめた。
「……今日は、光りませんね」
リュカは小さく鳴いた。
エリアスはランプへ手を伸ばしかけ、思い直した。
まだ新しい家に来たばかりだ。
荷物も片づいていない。
今夜は、これ以上の調査をする必要はないだろう。
「……続きは、明日にしましょうか」
ランプを柔らかな布で包み、引き出しへ収める。
リュカは特に不満を示さなかった。
エリアスはその頭を撫で、書斎の窓を閉めた。
◇
夜。
鈴蘭亭で夕食をご馳走になったエリアスは、新しい家へ帰ってきた。
通りの明かりは少なくなり、住宅街には静けさが広がっている。
手の中の真鍮の鍵を、玄関の鍵穴へ差し込む。
軽い音がして、扉が開いた。
エリアスは中へ入った。
昼間はあれほど賑やかだった居間も、今は静かだった。
食卓にはミラからもらった小さな花瓶が置かれ、窓辺には薬草の鉢植えがある。
まだ少し物足りない部屋。
けれど、不思議と落ち着いた。
エリアスは上着を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。
その足元へ、リュカがやってくる。
「……疲れましたか?」
白い獣は返事の代わりに、エリアスの膝へ飛び乗った。
エリアスは背を撫でた。
朝から荷物を運び、家具を整え、近所の人へ挨拶をした。
思っていた以上に忙しい一日だった。
けれど、心地よい疲れだった。
エリアスは部屋を見回した。
この家には、まだ何もないところが多い。
書棚には空きがある。
庭にも、これから植える植物を選ばなければならない。
台所の道具も、十分に揃っているわけではない。
けれど、少しずつ整えていけばいい。
最初から完璧にする必要はないのだ。
「……これから、ですね」
エリアスが呟くと、リュカは目を細めた。
彼は窓の外へ目を向けた。
遠くの北の森には、まだ古い謎が眠っている。
その謎を解くためには、これからも多くの人の力を借りることになるだろう。
けれど、それとは別に、ここには自分の暮らしがある。
朝起きて、窓を開ける。
庭の植物へ水をやり、簡単な朝食を作る。
読みかけの本を開き、気が向けば市場へ出かける。
夕方には鈴蘭亭へ食事に行き、友人たちと話す。
そんな時間を、これから少しずつ積み重ねていく。
エリアスはリュカを抱き上げ、二階へ向かった。
新しい寝室には、今日届いたばかりの寝台が置かれている。
窓を開けると、春の夜風が静かに入り込んだ。
「……おやすみなさい、リュカ」
白い獣は小さく鳴き、寝台の上で体を丸めた。
エリアスは明かりを落とした。
新しい家で迎える、初めての夜だった。
外では風が木々を揺らしている。
遠くの街灯が、石畳の道を淡く照らしていた。
エリアスは寝台へ横になり、ゆっくりと目を閉じた。
明日も、きっと忙しくなるだろう。
けれど、今はそれが楽しみだった。




