第27話 小さな家の、大きな準備
新しい家の契約が正式に決まったのは、それから三日後のことだった。
鈴蘭亭に届けられた封筒には、契約書の控えと一緒に、小さな真鍮の鍵が入っていた。
エリアスは食堂の窓際で、その鍵を手のひらに載せていた。
飾り気のない、少し古びた鍵だった。持ち手には小さな花の模様が刻まれている。
「それが新しい家の鍵ですか?」
向かいに座ったノアが尋ねた。
「はい。今日から使ってよいそうです」
「じゃあ、もう引っ越せるんですね!」
「そうですね。ただ、家具を揃えなければなりません」
エリアスは鞄から一枚の紙を取り出した。
昨夜のうちに書いた、必要なものの一覧だった。
寝台、寝具、食卓、椅子、調理器具、食器、掃除道具。
書いてみると、想像していたよりもずっと多かった。
「これ、全部買うんですか?」
「一度に揃える必要はないと思っていますが、最低限のものは必要ですね」
ノアは紙を覗き込み、少し考えた。
「そういえば、台所の道具は?」
「こちらに」
エリアスが紙の下の方を指差す。
ノアはそれを読んで、首を傾げた。
「鍋、包丁、まな板……あれ、お皿は?」
「食器の欄に書いてありますよ」
「じゃあ、布巾は?」
「……布巾」
「あと、油とか塩とか。調味料も必要ですよね」
エリアスは筆記具を取り出した。
「追加しておきます」
「洗濯用の籠は?」
「それも必要ですね」
「それから、掃除に使う布と、予備の蝋燭と……」
ノアが次々に挙げる品を、エリアスは書き留めていった。
紙の余白が、少しずつ埋まっていく。
「……ずいぶん増えましたね」
「ひとり暮らしって、結構いろいろ必要なんですよ」
ノアは得意げに言った。
「僕、宿の買い出しをしてますから!」
「頼もしいですね」
「へへっ」
ノアは照れたように鼻の下を擦った。
エリアスは改めて一覧を眺めた。
魔道具なら、必要な機能を考え、材料を揃えて組み立てればよい。
しかし、暮らしに必要なものとなると、何を用意すればよいのかさえ、まだ十分にわかっていなかった。
王都では気にも留めなかったことばかりだ。
それが今は、新鮮で面白い。
「ノア。今日、買い物に付き合っていただけますか?」
「もちろんです!」
ノアは勢いよく頷いた。
「午後なら時間があるので、家具屋さんから回りましょう!」
そこへ、厨房からミラが顔を出した。
「ノア、張り切るのはいいけど、エリアスさんに余計なものまで買わせるんじゃないよ」
「わかってるって!」
「それと、家具は寸法を測ってから選ぶこと。気に入ったからって、大きなものを買っちまうと、部屋に入らないからね」
ノアがぴたりと動きを止めた。
「……寸法」
エリアスも手元の紙を見た。
「……まだ測っていませんね」
二人は顔を見合わせた。
ミラは呆れたように笑った。
「まったく、似た者同士だねえ」
◇
昼過ぎ、新しい家へ向かう途中で、エリアスたちはカイルと出会った。
大通りの角で、カイルが大きな木箱を肩に担いでいる。
「お、エリアス! ノアも一緒か」
「こんにちは、カイル」
「何してるんだ?」
「新しい家の寸法を測りに行くところです」
「ああ、引っ越しの準備か」
カイルは木箱を荷車へ載せ、近くにいた商人へ声をかけた。
「これで全部だな?」
「ああ、助かったよ!」
商人から礼を受け取ると、カイルは二人の方へ戻ってきた。
「俺も行こうか?」
「お仕事はよろしいのですか?」
「今ので終わりだ。午後は空いてる」
「それなら、ぜひお願いします」
「よし、決まり!」
三人は並んで住宅街へ向かった。
歩きながら、カイルは必要な家具について尋ねた。
「寝台はどうするんだ?」
「新しく購入するつもりです」
「今の宿のやつくらいの大きさか?」
「そうですね。少し広くてもよいかもしれません」
「まあ、部屋の広さ次第だな」
ノアが横から口を挟む。
「机も必要ですよね。書斎に置くやつ」
「ええ。本を読むための机が欲しいですね」
「椅子も忘れないでくださいよ」
「……そうでした」
カイルが笑った。
「お前、本棚のことばっかり考えてるだろ」
「そういうつもりではありませんが……」
エリアスは少し考えた。
確かに、書斎に何を置くかという話になると、真っ先に本のことが浮かんでしまう。
「……否定できませんね」
その素直な返答に、ノアも笑った。
やがて、淡い緑色の屋根が見えてきた。
エリアスは鞄から鍵を取り出した。
扉の鍵穴へ差し込み、ゆっくり回す。
小さな音がして、鍵が外れた。
エリアスは一度手を止めた。
昨日まで、誰かに開けてもらわなければ入れなかった家。
今は、自分の鍵で扉を開けられる。
たったそれだけのことなのに、何とも言えない嬉しさがあった。
「……どうした?」
カイルが尋ねた。
「いえ」
エリアスは扉を押し開けた。
「自分の家の鍵を使うのは、初めてでしたので」
カイルは少し意外そうな顔をした。
けれど、すぐに笑った。
「そっか。じゃあ、記念すべき一回目だな」
「ええ」
エリアスも笑った。
三人は新しい家へ足を踏み入れた。
◇
最初に調べたのは、玄関の幅だった。
カイルが持参した測り紐を伸ばし、ノアが数字を書き留める。
「よし、ここは問題なし。次は階段だな」
「階段も測るんですか?」
エリアスが尋ねると、カイルが頷いた。
「大きな寝台を買ったら、二階へ運ばなきゃならないだろ?」
「……確かに」
「家具屋に任せるとしても、通れるかどうかは確認しておいた方がいい」
カイルは階段の幅を測り、途中の曲がり角も確かめた。
その様子は慣れたものだった。
「カイルは、引っ越しのお仕事もされるのですか?」
「時々な。護衛の仕事がない日は、荷物運びを手伝うこともある」
「そうだったのですね」
「冒険者って、魔物と戦ってるばっかりじゃないんだぞ」
カイルは笑った。
「重い家具を運んだり、屋根を直したり。そういう依頼も結構あるんだ」
「なるほど。勉強になります」
「まあ、お前なら魔法で運べそうだけどな」
「運ぶことはできます。ただ、建物を傷つけないようにするには、寸法を確かめる方が確実ですね」
「そういうこと!」
カイルは満足そうに頷いた。
その間、ノアは居間と台所を確認していた。
「エリアスさん! こっち、結構広いですよ!」
二人が向かうと、ノアは台所の収納棚を開けていた。
「鍋もいくつか入るし、食器も十分置けそうです」
「本当ですね」
「それに、ここの窓から庭が見えるんですよ」
ノアが窓を開ける。
春の風が入り込み、薄いカーテンを揺らした。
庭では、リュカが小さな花の間を歩いている。
昨日見つけた日当たりのよい場所を、今日も気に入ったらしい。
「……いいですね」
エリアスが呟くと、ノアが振り返った。
「何がですか?」
「料理をしながら、庭の様子が見えるところです」
「ああ、そうですね!」
ノアは笑った。
「リュカがいたずらしてたら、すぐわかりますね」
窓の外では、ちょうどリュカが花壇の土を前脚で掘ろうとしていた。
「……リュカ」
エリアスが呼ぶと、白い獣はぴたりと動きを止めた。
そして何事もなかったかのように、庭の真ん中へ歩いていく。
カイルがその様子を見て吹き出した。
「絶対、怒られるってわかってたな」
「そうですね……」
エリアスは苦笑した。
「庭の使い方についても、少し話し合う必要がありそうです」
◇
家具屋を訪れたのは、それから一時間ほど後だった。
店内には木の香りが漂い、さまざまな家具が並んでいる。
明るい色の食卓。
背もたれの高い椅子。
引き出しのついた机。
そして、大小さまざまな寝台。
エリアスはひとつずつ確かめながら、必要なものを選んでいった。
最初に決めたのは、書斎用の机だった。
深い茶色の木材で作られた、飾りの少ない机である。
広さは十分だが、部屋を圧迫するほど大きくはない。
引き出しも二つ備えられていた。
「これなら、本を広げても余裕がありますね」
「気に入ったか?」
カイルが尋ねる。
「はい。とても」
「じゃあ、それで決まりだな」
次に選んだのは、居間に置く小さな丸い食卓だった。
椅子は二脚。
ただし、客が来たときのために、折り畳める椅子も追加した。
ノアがその椅子を見て笑った。
「これなら、僕たちが遊びに行っても座れますね」
「ええ。そのつもりです」
エリアスが答えると、ノアは嬉しそうに頷いた。
寝台も無事に決まった。
カイルが測ってくれた階段の幅を確認し、家具屋の主人からも問題なく運べると説明を受けた。
必要な家具がひととおり決まる頃には、店の外で鐘が鳴っていた。
「……結構時間かかったな」
カイルが伸びをした。
「でも、だいたい揃いましたね!」
ノアは嬉しそうだった。
エリアスも購入品の一覧を見た。
寝台。
食卓。
椅子。
書斎の机。
必要な家具は、ほぼ揃った。
あとは細かな生活用品を買い足せばよい。
「お二人のおかげです。ありがとうございました」
「いいって、これくらい」
カイルは笑った。
「その代わり、引っ越しが終わったら飯を食わせてくれよ」
「ええ。約束です」
「……ちゃんと食べられるものを頼むぞ?」
カイルが冗談めかして言った。
ノアがすぐに反論する。
「僕が教えるんですから、大丈夫ですよ!」
「じゃあ、ノアを信用するか」
「そこはエリアスさんを信用してください!」
二人のやり取りに、エリアスは笑った。
どうやら、料理の練習は早めに始めた方がよさそうだった。
◇
買い物を終えたあと、三人は鈴蘭亭へ戻った。
夕食まで少し時間があったため、エリアスは客室で荷物の整理を始めることにした。
本を種類ごとに分け、衣類を畳み直す。
市場で購入した小物も、ひとつずつ箱へ収めていく。
思っていた以上に、荷物が増えていた。
エリアスは床に並べた箱を見つめた。
「……こんなに買っていたのですね」
王都から持ってきた鞄だけでは、とても収まりそうにない。
そのとき、机の上に置かれた銀色のランプが目に入った。
昨夜、再び反応した古い魔道具。
今は何の光も放っていない。
エリアスは手を止め、ランプを持ち上げた。
底面の記録結晶を確かめる。
内部には、まだ読み取れていない情報が残されている。
昨夜の反応も、単なる偶然ではないだろう。
しかし、今は急いで調べるつもりはなかった。
街の結界は安定している。
森の祭殿についても、次の調査に向けて準備を進めているところだ。
今できることを、順番に進めればいい。
エリアスはランプを柔らかな布で包み、箱の中へ収めた。
そのとき、リュカが箱の中を覗き込んだ。
「……気になりますか?」
白い獣は鼻先を近づけたあと、箱の縁に前脚を載せた。
「大丈夫ですよ。新しい家にも持っていきますから」
リュカはエリアスを見上げた。
そして、短く鳴いた。
「もちろん、あなたも一緒です」
そう言うと、リュカは満足したように尾を揺らした。
エリアスはその姿を見て、穏やかに笑った。
◇
その夜、辺境伯家の書庫では、セドリックが一通の報告書を読んでいた。
差出人は、北の森の監視を担当している領地付き魔導技師だった。
街の結界が設置されてから、森の魔力は徐々に安定し始めている。
第三標の周辺でも、以前のような強い振動は確認されなくなった。
ただし、祭殿付近では依然として微弱な魔力の反応が続いていた。
報告書の最後には、短い一文が添えられている。
『本日夕刻、北の祭殿周辺にて、従来の観測記録にない周期的な魔力反応を確認。』
セドリックはその文章を読み返した。
周期的な反応。
これまで、森の魔力は不規則に乱れていた。
それが、一定の間隔で反応し始めている。
まるで、何かが規則正しく動き始めたようだった。
「……周期的、ですか」
セドリックは机の引き出しから、以前の観測記録を取り出した。
そこには、銀色のランプに現れた六つの反応について、エリアスから受け取った説明が記されていた。
さらに、七十年前の報告書も開く。
境界石の移設。
第七標の沈黙。
そして、白き導き手に関する記述。
それらを比べながら、セドリックは小さく息を吐いた。
何かが変わり始めている。
ただ、それがよい兆候なのか、悪い兆候なのかはわからなかった。
セドリックは新しい紙を取り出し、エリアス宛ての手紙を書き始めた。
急を要するものではない。
けれど、伝えておくべき内容だった。
翌朝、使者を鈴蘭亭へ向かわせることにした。
◇
同じ頃。
エリアスは客室の窓辺で、最後の箱を閉じたところだった。
荷物はまだすべて整理できていないが、今日のところは十分だろう。
窓の外には、静かな夜のフィオーレが広がっている。
遠くの鐘楼から、夜を告げる鐘の音が聞こえた。
エリアスは机に残した一枚の紙を手に取った。
新しい家の間取り図だった。
書斎には、今日選んだ机を置こう。
居間には丸い食卓。
庭には薬草を植えて、窓辺にはお気に入りの花を飾りたい。
カイルやノアを招いて、皆で食事をするのも楽しみだった。
それから、レオンハルトには本を見に来てもらおう。
セドリックも、都合が合えば招いてみたい。
そう考えると、椅子はもう少し必要になるかもしれない。
「……また、買い足さなければなりませんね」
エリアスは小さく笑った。
そのとき、寝台の上からリュカが飛び降りてきた。
白い獣は足元へ近づき、前脚でエリアスの靴を軽く叩いた。
「どうしました?」
リュカは彼を見上げたあと、机の上に残された小さな袋へ鼻先を向けた。
袋の中には、今日市場で買ったルミナの実が入っている。
「……ああ、そういうことですか」
エリアスは苦笑した。
「もう夜ですよ。食べすぎはよくありません」
リュカは納得しない様子で、もう一度靴を叩いた。
「……ひとつだけですよ」
エリアスが袋を開けると、白い尾が勢いよく揺れた。
小さな果実を受け取ったリュカは、満足そうに寝台へ戻っていく。
エリアスはその姿を見送り、机の上を片づけた。
難しい術式を解読することも、古い魔法の謎を調べることも、変わらず好きだった。
けれど、今はそれ以外にも考えたいことがある。
明日の買い物。
新しい家の家具。
庭に植える植物。
そして、友人たちと過ごす時間。
そんな日々が、少しずつ形になろうとしている。
エリアスは窓の明かりを落とし、寝台へ向かった。
新しい家への引っ越しは、数日後。
それまでに、もう少し準備を進めなければならない。
寝台へ腰を下ろすと、リュカがすぐに隣へ寄ってきた。
「おやすみなさい、リュカ」
白い獣は小さく鳴き、体を丸めた。
静かな夜だった。
窓の外では春の風が吹き、街の明かりがひとつ、またひとつと消えていく。
エリアスは目を閉じた。
明日も、きっと忙しくなるだろう。
けれど、その忙しさは、以前とは少し違う。
誰かに求められて過ごす一日ではなく、自分で選んだ暮らしを整えるための一日。
そのことが、今は何より楽しみだった。




