第26話 新しい家を決める日
翌朝、エリアスはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外では、雨上がりの石畳を荷車が通っていく。車輪の音が遠ざかると、代わりに小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
寝台の足元にはリュカが丸くなっている。柔らかな白い毛が掛布に広がり、長い尾だけがときどき動いた。
エリアスは起こさないように寝台を離れ、窓辺の鉢植えを確かめた。
ルドから譲り受けた薬草の苗は、すっかり新しい土に馴染んでいた。葉は六枚に増え、茎もしっかりしている。
昨日見てきた家なら、この苗を庭へ植え替えることもできるだろう。
庭のある家。
書棚の備え付けられた、小さな書斎。
南向きの窓から午後の日差しが入る、白い壁の家。
昨日から何度も思い出している。
不思議なことに、ほかの二軒については、細かな間取りさえあまり覚えていなかった。
「……ずいぶん気に入ってしまったようですね」
自分のことなのに、少しおかしかった。
王都では、住まいを選ぶ必要がなかった。魔導院に用意された部屋は十分に広く、生活に不便を感じたこともない。
けれど、自分で選んだわけではなかった。
今度は違う。
どんな家具を置き、何を育て、誰を招くのか。そうしたことを、自分で決めていいのだ。
エリアスは机の上に置いた間取り図を広げた。
一階には居間と台所。二階には寝室と書斎がある。
庭はそれほど広くないが、植木を数本置く余裕はあった。
建物の裏には小さな物置もある。
気になるのは、借りる期間だった。
エリアスが国王から許された休暇は、およそ一年。
その先については、まだ何も決まっていない。
一年で王都へ戻ることになれば、家を借りても長くは住めないだろう。
かといって、その可能性だけを考えて何もしないのは、少し違う気がした。
休暇の終わりを待つために、この街へ来たわけではないのだから。
エリアスは間取り図を丁寧に畳んだ。
「今日、もう一度見に行きましょう」
声に反応したのか、リュカが寝台の上で頭を持ち上げた。
「あなたも一緒に来ますか?」
白い耳がぴんと立つ。
「今度は、住むかもしれない家を見に行くんです」
リュカは掛布から飛び降り、迷いなくエリアスの足元へやってきた。
どうやら返事を聞く必要はなさそうだった。
◇
朝食の時間、エリアスはミラに家のことを相談した。
「市場の東側にある、緑色の屋根の家です。以前はご夫婦が暮らしていたそうで」
「ああ、もしかして、ルーヴェルさんの家かい?」
「ご存じなのですか?」
「もちろん。奥さんがよくうちに食べに来てたんだよ」
ミラは懐かしそうに目を細めた。
「旦那さんは学校で読み書きを教えてた人でね。本が大好きだった。あの家の棚も、自分で寸法を考えて大工に作ってもらったんだって」
「そうだったのですね」
「二年ほど前に息子さんのいる街へ引っ越したけど、家は売りたくないって言ってたよ。いつか戻ってくるかもしれないからって」
エリアスは頷いた。
家が丁寧に手入れされていた理由が、少しわかった気がした。
「それなら、長くお借りできるとは限りませんね」
「その辺はきちんと聞いておいた方がいいね。家賃だけじゃなく、修理が必要になったときのことも」
「修理ですか?」
「屋根が雨漏りしたり、水道が壊れたりしたら、誰が直すのかってことさ」
ミラは当たり前のように言った。
エリアスは少し考えた。
雨漏りなら防水術式で対処できる。水道も、構造を見れば修復は難しくないだろう。
しかし、借家の設備を勝手に改造するわけにはいかない。
「……契約というのは、考えることが多いのですね」
「そうだよ。気に入ったからって、何も確かめずに決めちゃいけない」
「勉強になります」
ミラはエリアスの手元にある間取り図を見た。
「でも、あの家はいい家だと思うよ。静かだし、鈴蘭亭からもそう遠くない」
「はい。私もそう思いました」
「それなら、一度じっくり見ておいで」
そのとき、厨房からノアが出てきた。
「家を見に行くんですか?」
「ええ。今日、もう一度」
「じゃあ僕も行っていいですか?」
エリアスは少し驚いた。
「構いませんが、お仕事は?」
「昼過ぎなら空いてます。午後の仕込みが始まるまでですけど」
「ノア」
ミラが横から口を挟んだ。
「あんた、遊びに行くなら先に食器を全部片づけるんだよ」
「わかってるって!」
ノアはすぐにエリアスへ向き直った。
「僕、家具を運ぶときに通れる道とか見ておきたいんです」
「まだ借りると決まったわけではありませんよ」
「でも、決めたら引っ越すでしょう?」
当然のように言われ、エリアスは返答に迷った。
ノアはもう、手伝うつもりでいるらしい。
「……そのときは、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろん!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
ミラが呆れたように笑う。
「まったく。自分の部屋の片づけも、そんなに張り切ってくれたらいいんだけどね」
「母さん、それは今関係ないでしょ!」
食堂に笑い声が広がった。
エリアスも紅茶を飲みながら、つられて笑った。
◇
昼過ぎ、二人と一匹は東側の住宅街へ向かった。
通りには小さな花壇が並び、開け放たれた窓から洗濯物の揺れる音が聞こえてくる。
中央広場の賑わいからは少し離れているが、寂しい場所ではなかった。
家々の前では住人たちが立ち話をし、庭の手入れをしている老人の姿も見える。
「この辺り、いいですね」
エリアスが言うと、ノアが頷いた。
「静かですけど、お店も近いですから。鈴蘭亭まで歩いても、そんなにかからないと思います」
リュカはエリアスの腕の中で鼻先を動かしていた。
風に乗って、花の香りが漂ってくる。
やがて、淡い緑色の屋根が見えてきた。
「あ、ここですか?」
「はい」
エリアスが門の前で足を止めると、ちょうど家の前に一人の女性が立っていた。
昨日案内してくれた店から来た担当者だという。
「レインフォード様ですね。お待ちしておりました」
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。何か気になることがあれば、遠慮なくお尋ねください」
鍵を開けてもらい、一行は家の中へ入った。
昨日は夕方に近かったため、室内が少し暗く見えた。
しかし、今日は違う。
南側の窓から明るい光が差し込み、居間の床を照らしている。
「わあ、結構広いですね!」
ノアが周囲を見回した。
「エリアスさん、ここに本棚とか置けそうですよ」
「そうですね。ですが、二階にも書棚があるんです」
「えっ、二階にも?」
ノアは目を輝かせた。
「見てもいいですか?」
「もちろんですよ」
担当者が階段を示した。
ノアは足早に上っていく。
エリアスはその後ろ姿を見送りながら、居間の窓へ近づいた。
庭には古い木製のベンチが残されていた。
少し塗装が剥がれているが、まだ使えそうだ。
傍らには背の低い木が一本植えられている。
「これは何の木でしょう?」
エリアスが尋ねると、担当者は庭へ目を向けた。
「たしか、春に白い花が咲く木だったと思います。名前までは存じませんが」
「そうですか」
今は小さな緑の葉が出始めている。
花の季節は、少し前に終わったのだろう。
エリアスは庭へ出て、木の幹にそっと触れた。
魔力の状態は穏やかだった。
土の質も悪くない。
薬草を育てるには、十分な環境だ。
そのとき、腕の中のリュカが身をよじった。
「下りたいのですか?」
地面へ下ろすと、リュカは庭の隅へ向かって駆け出した。
低い木の周りを一周し、古いベンチの下へ潜り込む。
しばらくして顔を出すと、今度は日当たりのよい石畳の上に腹ばいになった。
「……気に入ったようですね」
エリアスはその様子を見て、頬を緩めた。
担当者も笑った。
「かわいらしい子ですね。室内で飼われるのでしょうか」
「はい。そのつもりです」
「でしたら、飼育についても契約書に記載しておきますね。家主様には事前に確認しておりますので、ご安心ください」
「ありがとうございます」
エリアスは丁寧に礼を述べた。
前回は家の造りばかり気になっていたが、こうした確認も大切なのだろう。
少しずつ、暮らすということが具体的になっていく。
◇
二階の書斎では、ノアが作り付けの棚を眺めていた。
「エリアスさん、これ全部本を入れるんですか?」
「そのつもりですが、まだそれほど本は持っていませんから」
「……そのうちいっぱいになりそうですけどね」
ノアの言葉に、エリアスは否定できなかった。
王都から持参した本に加え、フィオーレに来てから購入した本も増えている。
レオンハルトから借りる予定のものまで含めれば、この棚もいずれ足りなくなるかもしれない。
「そうなったら、もう一台置くことを考えます」
「やっぱり!」
ノアは声を立てて笑った。
エリアスは窓を開けた。
春の風が入り込み、長く閉め切られていた部屋の空気を入れ替えていく。
窓からは、住宅街の屋根と、その向こうに広がる湖の一部が見えた。
「……いい景色ですね」
ノアも隣へ来た。
「あ、本当だ。湖が見えますね」
二人はしばらく窓の外を眺めた。
遠くで子供たちが遊んでいる。
どこかの家からは、昼食の片づけをする音が聞こえてきた。
「エリアスさん」
「はい?」
「ここに住んだら、僕も遊びに来ていいですか?」
「もちろんです」
「本当ですか?」
「ええ。よかったら、お茶でも飲みにいらしてください」
ノアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度お菓子を持ってきます!」
「それは楽しみです」
「カイルさんも呼んだら、絶対来ますよね」
「そうですね。レオンハルトさんも、お誘いしてみましょうか」
「あの人、来てくれるかなあ」
「どうでしょう。好きそうな本を用意しておけば、来てくださるかもしれません」
ノアが吹き出した。
「それ、ちょっとずるくないですか?」
「……そうでしょうか」
二人は顔を見合わせて笑った。
エリアスは改めて書斎を見回した。
今は何もない部屋。
けれど、ここで本を読み、手紙を書き、時には友人と話すことになるのかもしれない。
そんな光景を想像すると、不思議と胸が弾んだ。
◇
一階へ戻ると、担当者が契約について詳しく説明してくれた。
家賃は月ごとの支払い。
契約期間は一年で、その後は家主との相談によって更新できるという。
水回りや屋根など、通常の使用で生じた設備の不具合は家主側が修繕する。
ただし、借主が大きな改装を行う場合には、事前の許可が必要だった。
「庭で植物を育てるのは構いませんが、大きな木を植える場合はご相談ください」
「承知しました」
「それから、魔道具の新設なども、建物に影響するものについては確認をお願いしています」
エリアスは頷いた。
冷却魔道具や照明なら、既存の設備を使えばよい。
研究用の大きな装置を置く予定もない。
もっとも、王都での経験から考えると、必要になったときに作りたくなる可能性はあった。
「……その場合は、必ずご相談します」
「ありがとうございます」
説明を聞き終えたあと、エリアスは少しだけ考える時間をもらった。
契約は一年。
休暇の残り期間を考えれば、無理のない長さだった。
家賃も、生活費として十分に支払える。
何より、この場所で暮らしてみたいという気持ちが強かった。
エリアスは顔を上げた。
「こちらをお借りしたいと思います」
担当者の表情が明るくなった。
「ありがとうございます。それでは、家主様へご連絡いたしますね」
「よろしくお願いします」
隣で聞いていたノアが、小さく拳を握った。
「やった!」
エリアスが振り向くと、ノアは少し照れたように笑った。
「いや、なんか僕まで嬉しくなっちゃって」
「ありがとうございます」
「引っ越しの日が決まったら、絶対教えてくださいね」
「ええ。真っ先にお伝えします」
足元では、リュカが庭へ続く扉の前に座り、こちらを見上げていた。
どうやら、もう一度外へ出たいらしい。
エリアスはその小さな姿を見て、静かに笑った。
新しい暮らしは、思っていたよりも賑やかなものになりそうだった。
◇
鈴蘭亭へ戻る途中、エリアスはノアと別れ、クロイス古書店へ立ち寄った。
家の契約を申し込んだことを伝えると、レオンハルトは本の修繕をする手を止めた。
「決めたのか」
「はい。書斎も庭もある、素敵な家でした」
「そうか。なら、引っ越し祝いを考えておく」
「そんな、お気遣いなく」
「私が勝手に用意するだけだ」
レオンハルトは素っ気なく答え、机の端に置いた紙束を揃えた。
その中から、一枚の図面が見えた。
エリアスは目を留めた。
「……新しい資料ですか?」
「ああ。昨日の祭殿で写してきた術式を整理していた」
レオンハルトは図面を広げた。
六つの境界石から伸びる魔力の流れが、中央の花形の術式へ集まっている。
しかし、その中心は大きく空いていた。
「やはり、ここが問題だな」
「ええ。魔力を調整する仕組みが失われています」
「ただ、ひとつ気になることがある」
レオンハルトは花形の外側に描かれた、細い線を指差した。
「この線、外側から中央へ向かっているだけじゃない」
エリアスは図面を覗き込んだ。
確かに、一部の線は中央から外側へ向かって伸びている。
それも、六つの境界石へ戻るのではなく、地中へ続いていた。
「……地下の魔力脈ですね」
「おそらくな」
レオンハルトは頷いた。
「もしそうなら、この結界は魔力を閉じ込めるためのものじゃない。循環させるための仕組みだったんだろう」
エリアスはしばらく図面を見つめた。
森へ流れ込む魔力。
地下へ戻る流れ。
そして、それらを調整する中心部分。
必要な情報が、少しずつ揃い始めている。
「……それなら、修復の方法も考えられそうです」
「ただし、まだ中心部分の構造がわからない」
「ええ。そこが問題ですね」
レオンハルトは古い記録集を閉じた。
「祭殿には、まだ調べていない部分がある。次に行くときは、もう少し詳しく見てみたい」
「私もそう思っています」
エリアスは頷いた。
ただ、森へ向かう前に確認したいことがあった。
リュカの反応。
銀色のランプに残された記録。
そして、七番目の標についての古い記述。
それらが、すべて同じものを指しているとは限らない。
むしろ、ひとつの仕組みを別々の立場から記録したものと考えた方が自然だった。
「……レオンハルトさん」
「何だ?」
「七番目の標について、少し考えが変わりました」
レオンハルトが顔を上げた。
「ほう」
「これまでは、失われた装置がどこかにあるのだと思っていました。ですが、もしかすると、装置だけではなかったのかもしれません」
「……どういう意味だ?」
「結界を調整する仕組みと、それを見守る存在。その両方が揃って、初めて第七標として機能していたのではないでしょうか」
レオンハルトは黙った。
エリアスは続けた。
「リュカが古い術式へ反応することも、それなら説明できます。ただ、あの子自身が装置の代わりになるとは思いません」
「……なるほど」
レオンハルトは図面へ視線を戻した。
「守護者と結界が、別々の役割を持っていたということか」
「ええ。まだ仮説ですが」
「悪くない考えだ」
レオンハルトは少し考えたあと、引き出しから小さな紙片を取り出した。
「なら、これも見ておけ」
そこには、古代魔法文字で短い文章が記されていた。
『守る者は、力を与える者にあらず。
巡る道を見届け、乱れを告げる者なり。』
エリアスはゆっくりと読んだ。
守る者は、力を与える者ではない。
ただ、巡る道を見届け、乱れを知らせる。
その言葉は、リュカの行動と不思議なほどよく重なっていた。
「……そういうことなのかもしれませんね」
エリアスは静かに呟いた。
レオンハルトは紙片を机へ戻した。
「焦る必要はない。街の結界も、今は安定しているんだろう?」
「ええ。魔導技師の皆さんが監視を続けてくださっています」
「なら、手順を間違えないことだ」
エリアスは頷いた。
古い術式を解き明かすことは、彼にとって決して難しいだけの仕事ではない。
むしろ、知的な興味を強く刺激されるものだった。
けれど今回は、研究結果だけが重要なのではない。
森に暮らす生き物たちや、街で生活する人々の安全も関わっている。
急いで答えを出すより、確かな方法を選ぶ必要があった。
「……ありがとうございます」
エリアスは図面から顔を上げた。
「また相談させてください」
「いつでも来い」
レオンハルトはそう言って、修繕途中の本を手元へ引き寄せた。
エリアスはその姿を見ながら、少し笑った。
いつの間にか、この古書店も気軽に訪ねられる場所になっていた。
◇
夕方、鈴蘭亭へ戻ると、食堂にはカイルの姿があった。
ちょうど食事を終えたところらしく、空になった皿を前にしている。
「お、エリアス!」
「こんばんは、カイル」
「どうだった? 家は」
「お借りすることにしました」
「本当か!」
カイルは嬉しそうに笑った。
「よかったな!」
「ありがとうございます」
「で、いつ引っ越すんだ?」
「家主様との確認が済んでからになります。まだ日にちは決まっていません」
「そっか。じゃあ、荷物運びが必要になったら言ってくれ」
「ぜひお願いします」
エリアスが答えると、カイルは少し意外そうな顔をした。
「お、素直に頼るようになったな」
「以前、頼ってよいとおっしゃっていましたから」
カイルは一瞬黙り、それから笑った。
「……言ったな、確かに」
二人が話していると、ノアが料理を運んできた。
「エリアスさん、家のこと、母さんにも話しましたよ!」
「もうですか?」
「はい! すごく喜んでました」
その後ろからミラが顔を出した。
「おめでとう、エリアスさん。いい家が見つかってよかったね」
「ありがとうございます。ミラさんに相談してよかったです」
「まだ契約の確認があるんだろう? 困ったことがあったら言っておくれ」
「はい」
ミラは満足そうに頷き、厨房へ戻っていった。
エリアスは席に着き、運ばれてきた料理へ目を向けた。
香草を使った肉料理と、温かな野菜のスープ。
付け合わせには、春の野菜が彩りよく盛られている。
「……おいしそうですね」
「今日は母さんが張り切ってたんですよ」
ノアが笑った。
「何かお祝いみたいなことしたいって」
「……そうだったのですか」
エリアスは少し驚いた。
まだ正式に契約したわけでもない。
引っ越しの日も決まっていない。
それでも、こうして喜んでくれる人たちがいる。
王都で功績を認められたときとは、まったく違う嬉しさだった。
「……ありがとうございます」
エリアスは静かに礼を言った。
ノアは照れたように笑った。
「もう、そんなに何度も言わなくていいですよ!」
カイルも頷いた。
「そうそう。引っ越したら、今度は俺たちに飯をご馳走してくれよ」
エリアスは少し考えた。
「……私が作るのですか?」
「もちろん」
「……それは、少し時間をいただくかもしれません」
「おい、大丈夫か?」
カイルが笑った。
エリアスもつられて笑う。
「ノアに料理を教えていただこうと思っています」
「僕でよければ、いくらでも!」
ノアがすぐに答えた。
「まずは簡単なものから始めましょう!」
「ぜひお願いします」
カイルは二人を見比べた。
「じゃあ、最初は俺が味見役だな」
「カイルさん、食べたいだけでしょ!」
「ばれたか」
食堂に笑い声が広がった。
エリアスはその輪の中で、ゆっくりと食事を楽しんだ。
◇
夜が更け、客室に戻ったエリアスは机の上へ間取り図を広げた。
窓辺には薬草の鉢植え。
その隣には、銀色のランプ。
読みかけの本が数冊と、王都から持ってきた小さな時計。
最初は必要なものだけを持って旅立ったはずなのに、少しずつ物が増えている。
市場で買ったもの。
人から譲り受けたもの。
この街で出会った人たちとの思い出が残るもの。
それらをひとつずつ眺めながら、エリアスは引っ越しの準備について考えた。
新しい家では、どこに本を並べよう。
庭には何を植えよう。
台所には、どんな道具が必要だろう。
考えることは多い。
けれど、不思議と面倒には感じなかった。
「……楽しみですね」
呟くと、寝台の上でリュカが顔を上げた。
エリアスは椅子から立ち上がり、その隣へ腰を下ろした。
「今日、あの家を借りることに決めましたよ」
リュカは短く鳴いた。
「あなたも気に入ってくれたようですし、きっと楽しく暮らせると思います」
白い獣はエリアスの膝へ移り、体を丸めた。
エリアスはその背を撫でた。
かつて王都では、仕事のために一日を過ごすことが多かった。
朝から晩まで研究室に籠もり、難しい術式に向き合う。
それはそれで充実していたし、決して嫌いな時間ではなかった。
けれど、自分の暮らしについて考える余裕は、ほとんどなかった。
今は違う。
明日の朝食を楽しみにし、窓辺の植物の成長を喜び、友人と会う約束をする。
帰る場所を、自分で選ぶ。
そんな小さな出来事が、以前よりずっと大切に感じられる。
エリアスは窓の外へ目を向けた。
フィオーレの街には、夜の明かりが点々と灯っている。
遠くの北の森は、暗い輪郭を残して静かに広がっていた。
あの森には、まだ調べなければならないことがある。
古い祭殿。
失われた第七標。
そして、リュカが持つ不思議な力。
すべてを解き明かすまでには、まだ時間がかかるだろう。
けれど、それでいいと思えた。
急ぐべきことと、時間をかけて考えるべきこと。
その違いを見失わずにいたい。
「……少しずつ、進めていきましょう」
エリアスがそう言うと、リュカは眠たそうに目を細めた。
彼は小さく笑い、白い獣を抱き上げた。
寝台へ戻そうとした、そのときだった。
机の上から、かすかな音が聞こえた。
銀色のランプだった。
エリアスは足を止めた。
ランプの表面に刻まれた文字が、淡く光っている。
けれど、以前とは違う。
光は一瞬で消えず、ゆっくりと一定の間隔で明滅していた。
「……?」
エリアスはリュカを抱いたまま、机へ近づいた。
魔力を流してはいない。
ランプにも触れていなかった。
それなのに、内部の記録結晶が反応している。
エリアスは慎重に魔力の状態を確かめた。
外部から、ごく弱い信号が届いている。
その方向は、北。
古い祭殿がある方角だった。
「……新しい反応ですね」
手帳を開き、明滅の間隔を書き留める。
短く三度。
少し間を置いて、二度。
そして、長く一度。
それが繰り返されていた。
エリアスはしばらく考えた。
単なる故障なら、ここまで規則的な反応にはならない。
何かの情報を伝えようとしている可能性がある。
しかし、意味まではわからなかった。
そのとき、腕の中のリュカが静かに顔を上げた。
青い瞳が、ランプの光を見つめている。
けれど、以前のように魔力を放とうとはしなかった。
ただ、じっと見ている。
「……知っているのですか?」
エリアスは小さく尋ねた。
リュカは答えなかった。
長い尾が一度だけ動く。
エリアスはそれ以上追及せず、明滅の記録を続けた。
しばらくすると、ランプの光は静かに消えた。
部屋には、元の穏やかな明かりが戻った。
エリアスは手帳を閉じた。
新しい家。
新しい暮らし。
そして、まだ解き明かされていない古い約束。
どれも、これからのフィオーレでの日々につながっている。
彼はリュカを抱き直し、寝台へ向かった。
窓の外では、春の風が静かに吹いていた。




