↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第1章 春風の街、フィオーレ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/73

第25話 この街で暮らすということ


 翌朝、エリアスは鈴蘭亭の食堂で、二枚の紙を並べていた。


 一枚は、北の祭殿で確認した術式の写し。もう一枚は、街の外周に設置した結界の点検記録だった。


 森から流れ込む魔力は、第三標の流路を整えてから幾分落ち着いている。ただし、祭殿の中心部分は依然として働いておらず、街を守るための結界も解除できない。


 昨夜のうちに計算したところ、現在の魔力石なら、あと十日ほどは余裕を持って運用できそうだった。交換用の石も、セドリックが手配してくれている。


 ひとまず、急を要する状況ではなくなった。


 エリアスはそのことに安堵しながら、紙の端へ数字を書き込んだ。


「エリアスさん」


 顔を上げると、ミラが湯気の立つカップを持って立っていた。


「また朝から難しいものを広げてるね」


「おはようございます、ミラさん」


「おはよう。ほら、紅茶。冷めないうちに飲んでおくれ」


「ありがとうございます」


 カップを受け取ると、ミラは向かいの椅子へ腰を下ろした。


 まだ朝食の混雑が始まる前で、厨房ではノアがパンを焼いている。時折、竈の扉が開く音が聞こえてきた。


「森の方はどうだったんだい?」


「古い建物が見つかりました。結界の仕組みも少しずつわかってきています」


「そうかい。じゃあ、もう安心なのかね」


「すぐに問題が起きる状態ではなくなりました。ただ、完全に直すにはもう少し時間が必要です」


 エリアスが説明すると、ミラは頷いた。


「なら、焦らずやりなさいよ。あんたが無理して倒れたら、うちのノアが大騒ぎするからね」


「そんなに心配をかけていましたか?」


「昨日だって、何度時計を見に行ったことか」


 厨房の方から声がした。


「母さん! 聞こえてるよ!」


「聞こえるように言ってるんだよ!」


 ミラが返すと、奥で何かを置く音がした。


 エリアスは笑いをこらえながら紅茶を飲んだ。


 こうしたやり取りにも、すっかり馴染んできた。


 王都を出発した頃には、宿の食堂で毎朝こんなふうに会話をするとは思っていなかった。


「ところで、エリアスさん」


 ミラが少し声を落とした。


「この先も、しばらくフィオーレにいるつもりかい?」


「はい。そのつもりです」


「それなら、そろそろ部屋のことを考えてもいいかもしれないね」


「部屋、ですか?」


「今は旅人向けの部屋を使ってるだろう? 何か月も住むなら、借家の方が落ち着くと思うよ」


 エリアスは手元のカップを見た。


 そういえば、最初にこの宿を訪れたときは十日ほど滞在する予定だった。


 その後も部屋を延長してもらっているが、いつの間にか当初の予定を大きく過ぎている。


「……確かに、そうですね」


「別に、追い出そうってわけじゃないよ」


 ミラはすぐに付け加えた。


「うちにいてくれるのは嬉しいんだ。ただ、あんたは本を広げたり、植物を育てたりするのが好きだろう? 今の部屋じゃ手狭なんじゃないかと思ってね」


「お気遣いありがとうございます」


「市場の東側なら、小さな家を貸してるところもあるはずだよ。庭付きの家だって、探せば見つかるかもしれない」


 庭。


 その言葉に、エリアスは少し興味を引かれた。


 ルドからもらった苗は、今は窓辺で育てている。


 いつか薬草だけでなく、季節の花や野菜も育ててみたいと思っていた。


 自分の庭があれば、それもできるだろう。


「……少し、探してみようと思います」


「そうするといいよ。気になる家があったら相談に乗るからね」


 ミラは立ち上がった。


「それと、家が決まっても、うちには食べに来るんだよ」


「もちろんです」


 エリアスは間を置かずに答えた。


「ミラさんのお料理を食べられなくなるのは、困りますから」


 ミラは声を立てて笑った。


「そこまで言われたら、毎日でも作ってやらないとね」


 厨房へ戻っていく背中を見送りながら、エリアスは窓の外へ目を向けた。


 通りには朝の光が差し込み、向かいの花屋が店先に鉢植えを並べ始めている。


 この街に、自分の家を持つ。


 これまで考えたことのなかった選択肢だった。


     ◇


「家を探してる?」


 昼前、冒険者ギルドで会ったカイルは、意外そうに聞き返した。


「ええ。長く滞在するなら、借家もよいのではないかとミラさんに勧められまして」


「そりゃいいな。今の宿も悪くないけど、荷物も増えてるだろ?」


「そうですね。少しずつ本が増えてきました」


「少しずつ?」


 カイルは笑った。


「この前、部屋に積んであるのを見たけど、結構な量だったぞ」


「まだ三十冊ほどですよ」


「十分多いって」


 エリアスは不思議そうな顔をした。


 王都の研究室には、数百冊の資料があった。個人の蔵書も含めれば、もっと多い。


 三十冊なら、むしろ少ない方だと思っていた。


「それで、どんな家がいいんだ?」


 カイルが尋ねた。


「そうですね……」


 エリアスは考えた。


「静かな場所がいいですね。できれば庭があって、本棚を置ける部屋があると嬉しいです」


「庭付きか。あとは?」


「日当たりのよい窓も欲しいです。植物を育てたいので」


「なるほどな。広さは?」


「ひとりで暮らすので、あまり大きくなくても構いません」


「いや、お前の場合は本の置き場所が必要だろ」


 エリアスは少し考え直した。


「……確かに」


「それから、台所も見ておけよ」


「台所ですか?」


「ああ。自炊するんだろ?」


「……自炊」


 エリアスはそこで言葉を止めた。


 王都では、食事はほとんど王宮の厨房で用意されていた。


 フィオーレへ来てからも、鈴蘭亭で毎日おいしい料理をいただいている。


 自分で料理をする機会は、まだほとんどなかった。


「……練習が必要ですね」


 真剣な顔で言うと、カイルが吹き出した。


「まさか、そこまで考えてなかったのか?」


「家を借りること自体、今朝初めて考えましたので」


「まあ、そうか」


 カイルは笑いを収めた。


「でも、料理できなくたって何とかなるさ。鈴蘭亭もあるし、市場には惣菜屋もある。最初から全部ひとりでやろうとしなくていいんだよ」


 エリアスはその言葉を聞き、少し肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはまだ早いぞ。いい家が見つかるかどうかわからないしな」


「そうですね」


「知り合いに聞いてみるよ。空き家に詳しい奴がいるんだ」


「助かります」


 カイルは頷き、ギルドの掲示板へ目を向けた。


「そういや、北の街道も一部は通れるようになったらしいぞ」


「もうですか?」


「ああ。まだ通行できない場所はあるけど、荷馬車が立ち往生してたところは片づいたらしい」


 エリアスは安心した。


 森の異変によって止まっていた人々の暮らしが、少しずつ戻り始めている。


「ルドさんの畑も、かなり回復してきたそうです」


「そうなのか?」


「ええ。昨日、連絡をいただきました」


「よかったな」


 カイルは嬉しそうに笑った。


「最初に受けた依頼だったもんな」


「はい」


 エリアスも微笑んだ。


 薬草の採取から始まった小さな依頼が、思いがけず古い結界の調査へつながった。


 まだ解決していない問題はある。


 それでも、畑が元気を取り戻したことは、素直に嬉しかった。


     ◇


 午後、エリアスは市場の東側を歩いていた。


 カイルに紹介された不動産を扱う店で、いくつかの借家について教えてもらったのだ。


 紹介された家は三軒。


 一軒目は中央広場に近く、買い物に便利な場所だった。


 ただ、周囲に店が多く、昼間は少し賑やかすぎるかもしれない。


 二軒目は湖の近くにあり、景色が美しかった。


 しかし、街の中心からは距離があり、雨の日の移動が大変そうだった。


 そして、三軒目。


 市場の東側から少し外れた、住宅街の端にある小さな家だった。


「……ここですね」


 エリアスは手元の紙と建物を見比べた。


 白い壁に、淡い緑色の屋根。


 木製の扉の脇には、小さな花壇が設けられている。


 庭は広すぎず、手入れもしやすそうだった。


 窓は南側に大きく取られ、午後の日差しが室内へ差し込んでいる。


 エリアスは門の前で足を止めた。


「……素敵な家ですね」


 思わず呟いた。


 案内してくれた店の主人が、嬉しそうに頷く。


「でしょう? 以前は年配のご夫婦が暮らしていた家なんですが、今は空いているんです」


「そうだったのですね」


「庭も小さいですが、日当たりはいいですよ」


 エリアスは庭を見た。


 土の一部にはまだ草が残っている。


 少し手を入れれば、薬草や花を育てることができそうだった。


「中も見せていただけますか?」


「もちろんです」


 主人は鍵を取り出し、扉を開けた。


     ◇


 家の中は、思っていたより明るかった。


 玄関を入ると、小さな居間があり、その奥に台所が続いている。


 二階には寝室と、もうひとつ小さな部屋があった。


「こちらは書斎として使われていたそうです」


 主人が扉を開ける。


 部屋には大きな窓があり、壁には作り付けの棚が残されていた。


 エリアスは思わず足を止めた。


「……書棚ですね」


「ええ。前のご主人が本好きだったらしくて」


 エリアスは棚へ近づいた。


 古い木製の棚だが、丁寧に作られている。


 高さも十分で、資料を並べるにはちょうどよさそうだった。


 窓辺には小さな机を置ける場所もある。


 ここなら、落ち着いて本を読むことができるだろう。


「……いいですね」


 エリアスは静かに呟いた。


 主人は少し笑った。


「気に入っていただけましたか?」


「はい。とても」


 エリアスは部屋を見回した。


 王都の研究室とは違う。


 広大な書庫も、複雑な実験設備もない。


 けれど、自分の好きな本を並べ、窓辺で紅茶を飲みながら過ごすには、十分な場所だった。


 それに、庭もある。


 リュカが走り回るには少し狭いかもしれないが、陽の当たる場所で昼寝をするにはちょうどよさそうだ。


「……リュカも気に入ってくれるでしょうか」


 小さく呟くと、主人が不思議そうに尋ねた。


「リュカ?」


「ああ、一緒に暮らしている小さな獣です」


「そうでしたか。庭もありますし、大丈夫だと思いますよ」


「ありがとうございます」


 エリアスは微笑んだ。


 その後、家賃や契約について詳しく話を聞いた。


 王都で暮らしていた頃には、こうした手続きを自分で行う機会がほとんどなかった。


 説明を聞きながら、オスカーが渡してくれた手帳を思い出す。


 生活費の管理。


 家の契約。


 近所付き合い。


 旅に出る前は、そこまで必要だろうかと思っていた項目ばかりだった。


 今になって、そのありがたさがよくわかる。


「……少し考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 エリアスが尋ねると、主人は快く頷いた。


「もちろんです。大きな買い物ではありませんが、暮らす場所を決めるのは大切なことですから」


「ありがとうございます」


 エリアスはもう一度、窓の外の庭を見た。


 春の風が木々を揺らし、小さな花が陽光の中で揺れている。


 この家で暮らす自分の姿が、自然と浮かんできた。


     ◇


 夕方、鈴蘭亭へ戻ると、食堂にはいつもの顔ぶれが揃っていた。


 カイルは窓際の席で夕食を食べており、レオンハルトは珍しく、その向かいに座っている。


「お、エリアス!」


 カイルが顔を上げた。


「家、どうだった?」


「とてもよいところがありました」


「本当か?」


「はい。庭もあって、書棚も備え付けられているんです」


「そりゃ、お前にぴったりだな」


 カイルは嬉しそうに笑った。


 レオンハルトも顔を上げる。


「……書棚付きか」


「ええ」


「それなら、店の本を何冊か持っていってもいい」


 エリアスは驚いた。


「よろしいのですか?」


「ああ。長く置いてあるものも多いからな」


「ありがとうございます」


 レオンハルトは短く頷いた。


「ただし、貸すだけだ。勝手に持っていくなよ」


「もちろんです」


 そのやり取りを聞いて、カイルが笑った。


「お前ら、本の話になると本当に楽しそうだな」


「カイルも、剣の話になると同じでしょう」


 レオンハルトが返す。


「……まあ、そうだな」


 カイルは少し考え、納得したように頷いた。


 エリアスは二人の会話を聞きながら、席へ腰を下ろした。


 ノアがすぐに夕食を運んでくる。


「おかえりなさい、エリアスさん!」


「ただいま戻りました」


「家、見に行ってたんですよね?」


「ええ」


「どうでした?」


「とても気に入りました」


 ノアは嬉しそうに笑った。


 けれど、すぐに少し寂しそうな顔になった。


「……そっか。じゃあ、もうすぐ引っ越しちゃうんですね」


 エリアスはその表情に気づいた。


「まだ決めたわけではありませんよ」


「でも、いい家が見つかったんでしょう?」


「はい」


 ノアは少し黙った。


 それから、無理に明るい声を出そうとした。


「まあ、同じ街に住むんですもんね! いつでも会えますよね」


 エリアスは微笑んだ。


「もちろんです。それに、私はこちらの料理が大好きですから」


「……本当ですか?」


「ええ。今後も食事に伺いたいと思っています」


 ノアの表情が明るくなった。


「それなら、いつでも来てください!」


 その様子を見て、カイルが笑った。


「ノア、お前、わかりやすいな」


「いいじゃないですか!」


 ノアは少し照れたように言い返した。


 レオンハルトは黙って紅茶を飲んでいたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。


     ◇


 夜。


 エリアスは客室の窓辺に立っていた。


 外には、フィオーレの街並みが広がっている。


 灯りのともった家々。


 遠くに見える鐘楼。


 そして、静かに流れる春の風。


 寝台の上では、リュカが丸くなって眠っていた。


 エリアスは机へ目を向けた。


 そこには、今日見てきた家の間取りが描かれた紙が置かれている。


 小さな居間。


 台所。


 寝室。


 そして、書斎。


 庭には、薬草や季節の花を植えたい。


 窓辺には、今育てている苗を置こう。


 書棚には、お気に入りの本を並べて。


 休日には、カイルやノアを招いてもいいかもしれない。


 そんなことを考えていると、自然と胸が温かくなった。


 王都を出る前、自分はただ静かに暮らしたいと思っていた。


 誰にも急かされず、好きなことをして過ごす。


 それが、望んでいた平穏だった。


 けれど、フィオーレでの日々は、思っていたものとは少し違っていた。


 毎日が静かなわけではない。


 予想外の出来事も起きる。


 誰かに助けを求められることもあれば、自分が助けられることもある。


 それでも、この街で過ごす時間は心地よかった。


 エリアスは窓の外を見つめた。


 平穏とは、何も起きないことではないのかもしれない。


 困ったときに頼れる人がいて、帰ってきたときに迎えてくれる場所がある。


 そうした日々の積み重ねが、今の自分にとっての穏やかな暮らしなのだろう。


「……この街で、暮らしていきたいですね」


 小さく呟いた。


 そのとき、寝台の上から物音がした。


 リュカが起き上がり、エリアスの足元までやってきた。


「起こしてしまいましたか?」


 抱き上げると、白い獣は彼の腕の中へ顔を埋めた。


「今日、とても素敵な家を見つけたんですよ」


 エリアスは窓の外を眺めながら話しかけた。


「小さな庭があって、陽当たりのよい書斎もあるんです」


 リュカは顔を上げた。


「あなたも、きっと気に入ると思います」


 白い尾がゆっくりと揺れた。


「……今度、一緒に見に行きましょうか」


 リュカは短く鳴いた。


 まるで、賛成するように。


 エリアスは微笑んだ。


 窓の外では、夜のフィオーレが静かに眠り始めていた。


 遠くの森には、まだ解き明かされていない謎が残っている。


 古い祭殿。


 失われた第七標。


 そして、リュカが持つ不思議な力。


 それらについても、いずれ答えを見つけたいと思う。


 しかし、今夜だけは難しいことを考えずにいたかった。


 エリアスはリュカを抱き直し、部屋の明かりを少し落とした。


 明日は、家のことをもう少し詳しく調べてみよう。


 それから、ルドの畑の様子も見に行きたい。


 市場には、まだ食べたことのない果物が並んでいるかもしれない。


 やりたいことは、いくらでもあった。


 それが、今は何より嬉しかった。


 エリアスは窓を閉め、寝台へ向かった。


 フィオーレで迎える夜は、いつもより少しだけ特別に感じられた。

第1章「春風の街、フィオーレ」完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。