第25話 この街で暮らすということ
翌朝、エリアスは鈴蘭亭の食堂で、二枚の紙を並べていた。
一枚は、北の祭殿で確認した術式の写し。もう一枚は、街の外周に設置した結界の点検記録だった。
森から流れ込む魔力は、第三標の流路を整えてから幾分落ち着いている。ただし、祭殿の中心部分は依然として働いておらず、街を守るための結界も解除できない。
昨夜のうちに計算したところ、現在の魔力石なら、あと十日ほどは余裕を持って運用できそうだった。交換用の石も、セドリックが手配してくれている。
ひとまず、急を要する状況ではなくなった。
エリアスはそのことに安堵しながら、紙の端へ数字を書き込んだ。
「エリアスさん」
顔を上げると、ミラが湯気の立つカップを持って立っていた。
「また朝から難しいものを広げてるね」
「おはようございます、ミラさん」
「おはよう。ほら、紅茶。冷めないうちに飲んでおくれ」
「ありがとうございます」
カップを受け取ると、ミラは向かいの椅子へ腰を下ろした。
まだ朝食の混雑が始まる前で、厨房ではノアがパンを焼いている。時折、竈の扉が開く音が聞こえてきた。
「森の方はどうだったんだい?」
「古い建物が見つかりました。結界の仕組みも少しずつわかってきています」
「そうかい。じゃあ、もう安心なのかね」
「すぐに問題が起きる状態ではなくなりました。ただ、完全に直すにはもう少し時間が必要です」
エリアスが説明すると、ミラは頷いた。
「なら、焦らずやりなさいよ。あんたが無理して倒れたら、うちのノアが大騒ぎするからね」
「そんなに心配をかけていましたか?」
「昨日だって、何度時計を見に行ったことか」
厨房の方から声がした。
「母さん! 聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ってるんだよ!」
ミラが返すと、奥で何かを置く音がした。
エリアスは笑いをこらえながら紅茶を飲んだ。
こうしたやり取りにも、すっかり馴染んできた。
王都を出発した頃には、宿の食堂で毎朝こんなふうに会話をするとは思っていなかった。
「ところで、エリアスさん」
ミラが少し声を落とした。
「この先も、しばらくフィオーレにいるつもりかい?」
「はい。そのつもりです」
「それなら、そろそろ部屋のことを考えてもいいかもしれないね」
「部屋、ですか?」
「今は旅人向けの部屋を使ってるだろう? 何か月も住むなら、借家の方が落ち着くと思うよ」
エリアスは手元のカップを見た。
そういえば、最初にこの宿を訪れたときは十日ほど滞在する予定だった。
その後も部屋を延長してもらっているが、いつの間にか当初の予定を大きく過ぎている。
「……確かに、そうですね」
「別に、追い出そうってわけじゃないよ」
ミラはすぐに付け加えた。
「うちにいてくれるのは嬉しいんだ。ただ、あんたは本を広げたり、植物を育てたりするのが好きだろう? 今の部屋じゃ手狭なんじゃないかと思ってね」
「お気遣いありがとうございます」
「市場の東側なら、小さな家を貸してるところもあるはずだよ。庭付きの家だって、探せば見つかるかもしれない」
庭。
その言葉に、エリアスは少し興味を引かれた。
ルドからもらった苗は、今は窓辺で育てている。
いつか薬草だけでなく、季節の花や野菜も育ててみたいと思っていた。
自分の庭があれば、それもできるだろう。
「……少し、探してみようと思います」
「そうするといいよ。気になる家があったら相談に乗るからね」
ミラは立ち上がった。
「それと、家が決まっても、うちには食べに来るんだよ」
「もちろんです」
エリアスは間を置かずに答えた。
「ミラさんのお料理を食べられなくなるのは、困りますから」
ミラは声を立てて笑った。
「そこまで言われたら、毎日でも作ってやらないとね」
厨房へ戻っていく背中を見送りながら、エリアスは窓の外へ目を向けた。
通りには朝の光が差し込み、向かいの花屋が店先に鉢植えを並べ始めている。
この街に、自分の家を持つ。
これまで考えたことのなかった選択肢だった。
◇
「家を探してる?」
昼前、冒険者ギルドで会ったカイルは、意外そうに聞き返した。
「ええ。長く滞在するなら、借家もよいのではないかとミラさんに勧められまして」
「そりゃいいな。今の宿も悪くないけど、荷物も増えてるだろ?」
「そうですね。少しずつ本が増えてきました」
「少しずつ?」
カイルは笑った。
「この前、部屋に積んであるのを見たけど、結構な量だったぞ」
「まだ三十冊ほどですよ」
「十分多いって」
エリアスは不思議そうな顔をした。
王都の研究室には、数百冊の資料があった。個人の蔵書も含めれば、もっと多い。
三十冊なら、むしろ少ない方だと思っていた。
「それで、どんな家がいいんだ?」
カイルが尋ねた。
「そうですね……」
エリアスは考えた。
「静かな場所がいいですね。できれば庭があって、本棚を置ける部屋があると嬉しいです」
「庭付きか。あとは?」
「日当たりのよい窓も欲しいです。植物を育てたいので」
「なるほどな。広さは?」
「ひとりで暮らすので、あまり大きくなくても構いません」
「いや、お前の場合は本の置き場所が必要だろ」
エリアスは少し考え直した。
「……確かに」
「それから、台所も見ておけよ」
「台所ですか?」
「ああ。自炊するんだろ?」
「……自炊」
エリアスはそこで言葉を止めた。
王都では、食事はほとんど王宮の厨房で用意されていた。
フィオーレへ来てからも、鈴蘭亭で毎日おいしい料理をいただいている。
自分で料理をする機会は、まだほとんどなかった。
「……練習が必要ですね」
真剣な顔で言うと、カイルが吹き出した。
「まさか、そこまで考えてなかったのか?」
「家を借りること自体、今朝初めて考えましたので」
「まあ、そうか」
カイルは笑いを収めた。
「でも、料理できなくたって何とかなるさ。鈴蘭亭もあるし、市場には惣菜屋もある。最初から全部ひとりでやろうとしなくていいんだよ」
エリアスはその言葉を聞き、少し肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いぞ。いい家が見つかるかどうかわからないしな」
「そうですね」
「知り合いに聞いてみるよ。空き家に詳しい奴がいるんだ」
「助かります」
カイルは頷き、ギルドの掲示板へ目を向けた。
「そういや、北の街道も一部は通れるようになったらしいぞ」
「もうですか?」
「ああ。まだ通行できない場所はあるけど、荷馬車が立ち往生してたところは片づいたらしい」
エリアスは安心した。
森の異変によって止まっていた人々の暮らしが、少しずつ戻り始めている。
「ルドさんの畑も、かなり回復してきたそうです」
「そうなのか?」
「ええ。昨日、連絡をいただきました」
「よかったな」
カイルは嬉しそうに笑った。
「最初に受けた依頼だったもんな」
「はい」
エリアスも微笑んだ。
薬草の採取から始まった小さな依頼が、思いがけず古い結界の調査へつながった。
まだ解決していない問題はある。
それでも、畑が元気を取り戻したことは、素直に嬉しかった。
◇
午後、エリアスは市場の東側を歩いていた。
カイルに紹介された不動産を扱う店で、いくつかの借家について教えてもらったのだ。
紹介された家は三軒。
一軒目は中央広場に近く、買い物に便利な場所だった。
ただ、周囲に店が多く、昼間は少し賑やかすぎるかもしれない。
二軒目は湖の近くにあり、景色が美しかった。
しかし、街の中心からは距離があり、雨の日の移動が大変そうだった。
そして、三軒目。
市場の東側から少し外れた、住宅街の端にある小さな家だった。
「……ここですね」
エリアスは手元の紙と建物を見比べた。
白い壁に、淡い緑色の屋根。
木製の扉の脇には、小さな花壇が設けられている。
庭は広すぎず、手入れもしやすそうだった。
窓は南側に大きく取られ、午後の日差しが室内へ差し込んでいる。
エリアスは門の前で足を止めた。
「……素敵な家ですね」
思わず呟いた。
案内してくれた店の主人が、嬉しそうに頷く。
「でしょう? 以前は年配のご夫婦が暮らしていた家なんですが、今は空いているんです」
「そうだったのですね」
「庭も小さいですが、日当たりはいいですよ」
エリアスは庭を見た。
土の一部にはまだ草が残っている。
少し手を入れれば、薬草や花を育てることができそうだった。
「中も見せていただけますか?」
「もちろんです」
主人は鍵を取り出し、扉を開けた。
◇
家の中は、思っていたより明るかった。
玄関を入ると、小さな居間があり、その奥に台所が続いている。
二階には寝室と、もうひとつ小さな部屋があった。
「こちらは書斎として使われていたそうです」
主人が扉を開ける。
部屋には大きな窓があり、壁には作り付けの棚が残されていた。
エリアスは思わず足を止めた。
「……書棚ですね」
「ええ。前のご主人が本好きだったらしくて」
エリアスは棚へ近づいた。
古い木製の棚だが、丁寧に作られている。
高さも十分で、資料を並べるにはちょうどよさそうだった。
窓辺には小さな机を置ける場所もある。
ここなら、落ち着いて本を読むことができるだろう。
「……いいですね」
エリアスは静かに呟いた。
主人は少し笑った。
「気に入っていただけましたか?」
「はい。とても」
エリアスは部屋を見回した。
王都の研究室とは違う。
広大な書庫も、複雑な実験設備もない。
けれど、自分の好きな本を並べ、窓辺で紅茶を飲みながら過ごすには、十分な場所だった。
それに、庭もある。
リュカが走り回るには少し狭いかもしれないが、陽の当たる場所で昼寝をするにはちょうどよさそうだ。
「……リュカも気に入ってくれるでしょうか」
小さく呟くと、主人が不思議そうに尋ねた。
「リュカ?」
「ああ、一緒に暮らしている小さな獣です」
「そうでしたか。庭もありますし、大丈夫だと思いますよ」
「ありがとうございます」
エリアスは微笑んだ。
その後、家賃や契約について詳しく話を聞いた。
王都で暮らしていた頃には、こうした手続きを自分で行う機会がほとんどなかった。
説明を聞きながら、オスカーが渡してくれた手帳を思い出す。
生活費の管理。
家の契約。
近所付き合い。
旅に出る前は、そこまで必要だろうかと思っていた項目ばかりだった。
今になって、そのありがたさがよくわかる。
「……少し考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」
エリアスが尋ねると、主人は快く頷いた。
「もちろんです。大きな買い物ではありませんが、暮らす場所を決めるのは大切なことですから」
「ありがとうございます」
エリアスはもう一度、窓の外の庭を見た。
春の風が木々を揺らし、小さな花が陽光の中で揺れている。
この家で暮らす自分の姿が、自然と浮かんできた。
◇
夕方、鈴蘭亭へ戻ると、食堂にはいつもの顔ぶれが揃っていた。
カイルは窓際の席で夕食を食べており、レオンハルトは珍しく、その向かいに座っている。
「お、エリアス!」
カイルが顔を上げた。
「家、どうだった?」
「とてもよいところがありました」
「本当か?」
「はい。庭もあって、書棚も備え付けられているんです」
「そりゃ、お前にぴったりだな」
カイルは嬉しそうに笑った。
レオンハルトも顔を上げる。
「……書棚付きか」
「ええ」
「それなら、店の本を何冊か持っていってもいい」
エリアスは驚いた。
「よろしいのですか?」
「ああ。長く置いてあるものも多いからな」
「ありがとうございます」
レオンハルトは短く頷いた。
「ただし、貸すだけだ。勝手に持っていくなよ」
「もちろんです」
そのやり取りを聞いて、カイルが笑った。
「お前ら、本の話になると本当に楽しそうだな」
「カイルも、剣の話になると同じでしょう」
レオンハルトが返す。
「……まあ、そうだな」
カイルは少し考え、納得したように頷いた。
エリアスは二人の会話を聞きながら、席へ腰を下ろした。
ノアがすぐに夕食を運んでくる。
「おかえりなさい、エリアスさん!」
「ただいま戻りました」
「家、見に行ってたんですよね?」
「ええ」
「どうでした?」
「とても気に入りました」
ノアは嬉しそうに笑った。
けれど、すぐに少し寂しそうな顔になった。
「……そっか。じゃあ、もうすぐ引っ越しちゃうんですね」
エリアスはその表情に気づいた。
「まだ決めたわけではありませんよ」
「でも、いい家が見つかったんでしょう?」
「はい」
ノアは少し黙った。
それから、無理に明るい声を出そうとした。
「まあ、同じ街に住むんですもんね! いつでも会えますよね」
エリアスは微笑んだ。
「もちろんです。それに、私はこちらの料理が大好きですから」
「……本当ですか?」
「ええ。今後も食事に伺いたいと思っています」
ノアの表情が明るくなった。
「それなら、いつでも来てください!」
その様子を見て、カイルが笑った。
「ノア、お前、わかりやすいな」
「いいじゃないですか!」
ノアは少し照れたように言い返した。
レオンハルトは黙って紅茶を飲んでいたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
◇
夜。
エリアスは客室の窓辺に立っていた。
外には、フィオーレの街並みが広がっている。
灯りのともった家々。
遠くに見える鐘楼。
そして、静かに流れる春の風。
寝台の上では、リュカが丸くなって眠っていた。
エリアスは机へ目を向けた。
そこには、今日見てきた家の間取りが描かれた紙が置かれている。
小さな居間。
台所。
寝室。
そして、書斎。
庭には、薬草や季節の花を植えたい。
窓辺には、今育てている苗を置こう。
書棚には、お気に入りの本を並べて。
休日には、カイルやノアを招いてもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と胸が温かくなった。
王都を出る前、自分はただ静かに暮らしたいと思っていた。
誰にも急かされず、好きなことをして過ごす。
それが、望んでいた平穏だった。
けれど、フィオーレでの日々は、思っていたものとは少し違っていた。
毎日が静かなわけではない。
予想外の出来事も起きる。
誰かに助けを求められることもあれば、自分が助けられることもある。
それでも、この街で過ごす時間は心地よかった。
エリアスは窓の外を見つめた。
平穏とは、何も起きないことではないのかもしれない。
困ったときに頼れる人がいて、帰ってきたときに迎えてくれる場所がある。
そうした日々の積み重ねが、今の自分にとっての穏やかな暮らしなのだろう。
「……この街で、暮らしていきたいですね」
小さく呟いた。
そのとき、寝台の上から物音がした。
リュカが起き上がり、エリアスの足元までやってきた。
「起こしてしまいましたか?」
抱き上げると、白い獣は彼の腕の中へ顔を埋めた。
「今日、とても素敵な家を見つけたんですよ」
エリアスは窓の外を眺めながら話しかけた。
「小さな庭があって、陽当たりのよい書斎もあるんです」
リュカは顔を上げた。
「あなたも、きっと気に入ると思います」
白い尾がゆっくりと揺れた。
「……今度、一緒に見に行きましょうか」
リュカは短く鳴いた。
まるで、賛成するように。
エリアスは微笑んだ。
窓の外では、夜のフィオーレが静かに眠り始めていた。
遠くの森には、まだ解き明かされていない謎が残っている。
古い祭殿。
失われた第七標。
そして、リュカが持つ不思議な力。
それらについても、いずれ答えを見つけたいと思う。
しかし、今夜だけは難しいことを考えずにいたかった。
エリアスはリュカを抱き直し、部屋の明かりを少し落とした。
明日は、家のことをもう少し詳しく調べてみよう。
それから、ルドの畑の様子も見に行きたい。
市場には、まだ食べたことのない果物が並んでいるかもしれない。
やりたいことは、いくらでもあった。
それが、今は何より嬉しかった。
エリアスは窓を閉め、寝台へ向かった。
フィオーレで迎える夜は、いつもより少しだけ特別に感じられた。
第1章「春風の街、フィオーレ」完




