第24話 街に戻る日
森へ向かう準備が整ったのは、それから二日後のことだった。
フィオーレの北門には、まだ朝露の残る時間から数人の冒険者が集まっていた。街道の通行規制は続いていたが、辺境伯家の許可を得た調査隊だけは、護衛をつけて立ち入ることになっている。
カイルは荷物を確かめながら、エリアスに水筒を差し出した。
「予備だ。自分の分とは別に持っとけ」
「ありがとうございます。でも、カイルの荷物が増えてしまいませんか?」
「お前が持つんだよ」
「……ああ、そういうことでしたか」
「しっかりしてくれよ。今日は俺が足元まで見てやれるとは限らないんだからな」
カイルは笑ったが、すぐに真面目な顔で装備を締め直した。
彼のほかに、ギルドから二人の冒険者が同行する。一人は弓を扱う女性で、もう一人は周辺の地形に詳しい年配の男性だった。
レオンハルトは地図と研究記録を持参し、セドリックは領地付きの魔導技師たちと後方支援に回ることになっていた。
調査と、必要に応じた結界の調整。
その二つが、今日の目的だった。
「エリアス殿」
セドリックが近づいてきた。
「街の結界は、こちらで監視を続けます。何かあればすぐに連絡を」
「よろしくお願いします。森の状況を確認し、必要な処置だけを行います」
「ええ。くれぐれも、ご自身の安全を優先してください」
エリアスは頷いた。
数日前まで、北の森は散歩の途中で偶然見つけた、興味深い場所だった。
今は街の暮らしに関わる問題を抱え、誰もがその動向を気にしている。
できることなら、早く安心できる状態へ戻したかった。
「……リュカは?」
カイルが尋ねた。
「鈴蘭亭に預けてきました。まだ完全には回復していませんから」
「それがいい。ノアが面倒見てくれるだろ」
「ええ」
出発前、リュカは一緒に行きたがった。
けれどエリアスが事情を話すと、しばらく不満そうにしていたものの、最後には寝台へ戻ってくれた。
ノアにお気に入りの果物を預けてきたので、少なくとも空腹になることはないはずだ。
エリアスは北の森へ目を向けた。
春の朝日を浴びた木々は、遠くから見る限りいつもと変わらない。
しかし、地中を流れる魔力には、明らかな乱れが生じていた。
「……行きましょう」
その言葉に、カイルが頷いた。
一行は北門を抜け、森へ続く道を歩き始めた。
◇
森へ入ると、以前よりも空気が重く感じられた。
足元には湿った落ち葉が積もり、木々の間を吹き抜ける風は冷たい。
カイルは先頭で道を確かめながら、時折立ち止まって周囲の音に耳を澄ませていた。
「……やっぱり静かだな」
「鳥の声が、ほとんど聞こえませんね」
「ああ。前に来たときより少ない」
カイルは足元に残る小さな足跡を見つけ、しゃがみ込んだ。
「これは森鹿のものだな。何頭かで南へ移動してる」
「普段はこの時期に移動するのですか?」
「いや。春なら、もっと北の方にいるはずだ」
カイルは足跡を指でなぞった。
「何かを避けてるみたいだ」
エリアスは森の奥へ意識を向けた。
魔力がゆっくりと北へ引き寄せられている。
以前は不規則だった流れが、今は一定の方向を持ち始めていた。
その先にあるのは、古い地図に描かれた祭殿だろう。
「……地下の魔力が、ひとつの場所へ集まっています」
エリアスが言うと、レオンハルトが地図を広げた。
「祭殿の位置と重なるか?」
「おそらく。ただ、地図に描かれた建物が今も残っているかはわかりません」
レオンハルトは頷いた。
「まずは第三標を確認しよう。最近、周辺の地面が崩れた場所だ」
「そうですね」
カイルが先へ進むよう合図した。
一行は倒木を避け、古い林道を進んでいった。
◇
第三標の周囲には、地面が大きく裂けた跡が残っていた。
林道の一部が崩れ、土の下から太い木の根が露出している。
少し離れた場所には、荷馬車の車輪が落ちたらしい深い溝があった。
「……ここか」
カイルが地面を確かめる。
「思ったよりひどいな」
エリアスは慎重に石柱へ近づいた。
高さは胸ほど。
表面には古い魔法文字が刻まれているが、その一部が欠けていた。
周囲には、淡い青色の光が薄く漂っている。
「……魔力が溢れていますね」
「止められるか?」
レオンハルトの問いに、エリアスは少し考えた。
「直接止めるのは避けた方がよさそうです。内部の圧力が高くなっていますから」
エリアスは地面へ手をかざした。
魔力の流れを読み取る。
石柱の内部では、外側から集まった魔力が行き場を失い、同じ場所を何度も循環していた。
その一部が地中へ漏れ出し、周辺の土を押し上げている。
「……なるほど」
エリアスは手帳を開いた。
「この石柱は、魔力を集めるだけでなく、一定量を別の場所へ送り出す役割も持っています」
「その送り先が、祭殿なのか?」
レオンハルトが尋ねる。
「可能性は高いです。ただ、現在は途中の回路が損傷しているようです」
エリアスは石柱から少し離れた場所へ目を向けた。
そこには、落ち葉に埋もれた細い石の溝があった。
普通の排水路にも見えるが、内部には微かな魔力が残っている。
「……こちらですね」
エリアスはしゃがみ込み、溝の周囲を確かめた。
長い年月の間に土が入り込み、一部は木の根によって押し上げられている。
そのため、魔力の通り道が塞がれていた。
「……これなら、調整できそうです」
カイルが近づいた。
「どうするんだ?」
「まず、石の溝を傷つけないように土を取り除きます。そのあと、魔力が流れるか確かめます」
「土を掘るなら俺たちの仕事だな」
カイルはすぐに仲間へ声をかけた。
冒険者たちは小さな道具を取り出し、慎重に土を取り除いていく。
エリアスも手伝おうとしたが、カイルに止められた。
「お前は石柱を見ててくれ。変な反応が出たら、すぐ知らせてほしい」
「……わかりました」
エリアスは素直に頷いた。
自分が魔法を使えば、土を取り除くこと自体は簡単だ。
しかし、古い術式が埋まっている場所で不用意に力を加えるのは危険だった。
カイルたちが少しずつ土を取り除く間、エリアスは魔力の状態を監視した。
やがて、石の溝が地面の下から姿を現した。
「……これでどうだ?」
カイルが顔を上げる。
エリアスは慎重に確認した。
「ありがとうございます。少しずつ流れが戻っています」
石柱の周囲に漂っていた青い光が、ゆっくりと薄くなっていく。
地面の奥から伝わっていた振動も、弱まった。
「……おお」
カイルが息を吐いた。
「よかった。何とかなりそうだな」
「ええ。ただ、これだけでは十分ではありません」
エリアスは北の方角を見た。
「ほかの石柱にも、同じような異常が起きているかもしれませんから」
レオンハルトが頷いた。
「それなら、まず祭殿の近くまで行く必要があるな」
一行は装備を整え、さらに森の奥へ進むことにした。
◇
古い街道は、途中から完全に草木に覆われていた。
それでも、ところどころに石畳の跡が残っている。
カイルは足元を確かめながら、慎重に道を選んでいた。
「……この辺り、昔は人が通ってたんだな」
「ええ。地図では、祭殿へ続く主要な道だったようです」
レオンハルトは周囲を見回した。
「今では、ほとんど使われていないようだが」
エリアスは古い石畳へ目を向けた。
表面には苔が生え、割れ目から小さな草が伸びている。
長い年月の間に、人々から忘れられた道。
けれど、そこには確かに、かつての暮らしの痕跡が残っていた。
「……不思議ですね」
エリアスが呟く。
カイルが振り返った。
「何が?」
「昔はここを、多くの人が歩いていたのでしょうね」
「ああ。そうかもしれないな」
「今は森に戻っていますが、道を作った人たちは、きっと長く使われると思っていたのでしょう」
カイルは少し考えた。
「……でも、こうして残ってるだけでもすごいんじゃないか?」
エリアスは顔を上げた。
「道が消えても、跡があれば探せる。俺たちも、それを頼りに歩いてるわけだし」
その言葉に、エリアスは微笑んだ。
「……確かに、そのとおりですね」
三人は再び歩き始めた。
やがて、木々の間から広い空間が見えてきた。
そこには、古い石造りの建物が残されていた。
「……あれか?」
カイルが足を止める。
建物は半ば崩れ、屋根の一部が失われていた。
周囲には太い木の根が絡みつき、石壁には蔦が這っている。
それでも、中央の円形部分だけは、不思議なほど原形を保っていた。
エリアスは静かに息を吐いた。
「……北の祭殿ですね」
レオンハルトが地図を確かめる。
「位置も一致している」
一行は慎重に近づいた。
祭殿の入口には、古い魔法文字が刻まれていた。
ほとんどは風化しているが、一部はまだ読み取れる。
エリアスは文字を目で追った。
『巡るものを留めず。
満ちるものを溢れさせず。
大地の息吹を、静かに還す。』
「……なるほど」
エリアスは呟いた。
レオンハルトが隣に立つ。
「何と書いてある?」
エリアスは内容を伝えた。
レオンハルトはしばらく考え込んだ。
「……やはり、封印ではないのかもしれないな」
「ええ。魔力の循環を保つための施設だった可能性が高いと思います」
カイルは建物の奥を見た。
「……中へ入るか?」
エリアスは少し考え、首を横に振った。
「まずは入口から状態を確認しましょう。内部の術式がどうなっているか、まだわかりませんから」
カイルは頷いた。
「了解」
エリアスは祭殿の入口へ手をかざした。
魔力の流れを慎重に読み取る。
すると、奥から微かな反応が返ってきた。
六つの境界石とは違う。
もっと複雑で、穏やかな構造。
花びらが幾重にも重なったような術式だった。
「……これが」
エリアスは息を止めた。
銀色のランプに現れた、あの花の形。
それと、よく似ている。
ただし、こちらは完全ではなかった。
術式の中心に、大きな空白がある。
何かが抜け落ちたような、不自然な空間。
「……中心部分が、欠けています」
エリアスが言うと、レオンハルトが顔を上げた。
「欠けている?」
「ええ。術式そのものは残っていますが、中央で魔力を調整する部分が働いていません」
カイルが尋ねる。
「そこを直せば、元に戻るのか?」
「……それは、まだわかりません」
エリアスは静かに答えた。
「何が必要だったのか、確かめなければ」
そのとき、背後から風が吹いた。
木々が大きく揺れ、遠くで鳥が鳴く。
エリアスは顔を上げた。
森の奥から、微かな魔力が流れ込んでくる。
それは、これまで感じていた不安定な流れとは少し違っていた。
穏やかで、柔らかな魔力。
どこか、リュカのものに似ている。
「……まさか」
エリアスはゆっくりと振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ、春の風が木々を揺らしているだけだった。
◇
祭殿の調査を終えた頃には、陽が少し傾き始めていた。
一行は無理に奥へ進まず、来た道を引き返すことにした。
途中、第三標の状態をもう一度確認したが、魔力の流れは安定していた。
地面の振動も、今のところ収まっている。
「……少しはよくなったみたいだな」
カイルが言った。
「ええ。ですが、祭殿の中心部分が働いていない以上、再び異常が起きる可能性はあります」
エリアスは頷いた。
「街へ戻ったら、セドリック様と相談しましょう」
「そうだな」
レオンハルトも同意した。
森を抜けた頃には、夕方が近づいていた。
遠くにフィオーレの街並みが見える。
白い壁の建物。
中央広場の鐘楼。
そして、屋根の上に立ち上る夕食の煙。
カイルが大きく伸びをした。
「……やっと戻ってきたな」
「お疲れさまでした」
エリアスは微笑んだ。
レオンハルトは静かに頷き、鞄の中の記録集を確かめた。
「今日は、かなり重要なことがわかった」
「ええ」
エリアスは頷いた。
「祭殿が残っていることも、中心部分が働いていないことも」
「それに、第三標の異常も少し落ち着いた」
カイルが付け加える。
「今日は十分だろ」
「そうですね」
エリアスは街へ続く道を見た。
まだ解決していないことは多い。
けれど、今日は確かに前へ進めた。
急ぐことだけが、正しいわけではない。
できることをひとつずつ積み重ねていく。
その大切さを、今は少し理解できた気がした。
◇
鈴蘭亭へ戻ると、食堂には夕食の香りが漂っていた。
扉を開けた途端、ノアが顔を上げる。
「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「よかった! ちゃんと帰ってきた!」
ノアは安心したように笑った。
「リュカ、ずっと待ってましたよ」
「そうでしたか」
エリアスが階段へ向かおうとすると、白い影が勢いよく飛び出してきた。
「……リュカ!」
小さな獣がエリアスの足元へ駆け寄り、そのまま腕へ飛びつく。
エリアスは慌てて抱き上げた。
「もう、そんなに急がなくても」
リュカは胸元へ鼻先を押しつけ、長い尾を何度も揺らした。
「……ただいま」
エリアスはその背を撫でた。
柔らかな毛並み。
温かな体。
そして、すっかり回復した魔力。
その様子に、自然と笑みが浮かんだ。
「元気になって、よかったですね」
リュカは短く鳴いた。
まるで、返事をするように。
ノアが笑いながら言った。
「今日は、僕が何をあげても落ち着かなかったんですよ」
「そうだったのですか?」
「はい。エリアスさんが帰ってくるまで、ずっと階段の方を見てました」
エリアスは少し驚いた。
それから、リュカを抱き直した。
「……待っていてくれたのですね」
白い獣は、彼の腕の中で気持ちよさそうに目を細めた。
その姿を見て、ノアも嬉しそうに笑った。
「さあ、夕食にしましょう! 今日は母さんが特別に、肉の煮込みを作ってるんです」
「それは楽しみですね」
エリアスは頷いた。
食堂の窓からは、夕暮れの街並みが見える。
今日も、フィオーレには温かな明かりが灯っていた。
森の謎は、まだ残っている。
けれど、帰ってくる場所があり、迎えてくれる人がいる。
それだけで、今日の疲れが少し軽くなるような気がした。
エリアスはリュカを抱いたまま、食堂へ向かった。
今夜は、ゆっくり食事を楽しもう。
明日のことは、また明日考えればいい。




