第23話 秘密と約束
朝の鈴蘭亭には、いつもと変わらない焼きたてのパンの香りが漂っていた。
エリアスが階段を下りると、厨房からノアが顔を出した。
「おはようございます、エリアスさん。リュカの具合はどうですか?」
「おかげさまで、だいぶよくなりました」
「本当ですか? よかった!」
ノアは目に見えて安心した。
昨夜はリュカが食事を取らなかったこともあり、何度か部屋まで様子を見に来てくれたのだ。
「朝は少しだけ鶏肉を食べました。今は部屋で眠っています」
「それなら、あとで母さんにも伝えておきますね」
「ありがとうございます」
エリアスが席に着くと、ノアは温かいスープとパンを運んできた。
食堂の窓からは朝日が差し込み、卓上の木目を明るく照らしている。
昨日まで街を騒がせていた魔道具の異常は、ひとまず落ち着いているようだった。
それでも、エリアスが張った街の結界には、北側から絶えず負荷がかかっている。
今朝、目を覚ましたときにも状態を確かめたが、魔力石の消耗は予想より早かった。
魔導技師たちが交代で点検してくれているものの、長く維持できる仕組みではない。
「エリアスさん、今日はお出かけですか?」
ノアの声に、エリアスは顔を上げた。
「午後から古書店へ行こうと思っています。レオンハルトさんに相談したいことがありまして」
「そうなんですね。じゃあ、お昼はどうします?」
「こちらでいただくつもりです」
「わかりました。今日は母さんが魚の香草焼きを作るって言ってましたよ」
「それは楽しみです」
ノアは満足そうに笑い、別の客の注文を取りに行った。
エリアスはパンを手に取った。
温かく、表面は香ばしく焼けている。
いつもの朝食だった。
だからこそ、この穏やかな時間を守りたいと思う。
森の問題を解決したい理由は、もう十分にあった。
◇
朝食を終えて部屋へ戻ると、机の上に置いた銀色のランプが淡く光っていた。
昨夜は何の反応もなかったはずだ。
エリアスは扉を閉め、慎重に近づいた。
光っているのは照明部分ではない。
底面に埋め込まれた記録結晶だった。
「……外部からの信号でしょうか」
手をかざし、魔力の状態を読み取る。
ランプ自体には、ほとんど魔力が残っていない。
それなのに、内部の細い回路だけがゆっくりと明滅している。
外から何かを受け取っているのだろう。
そのとき、寝台の上から布の擦れる音がした。
リュカが起き上がっていた。
「おはようございます。もう少し眠っていてもいいんですよ」
エリアスが声をかけると、白い獣は寝台から飛び降りた。
まだ少し足取りが重い。
それでもランプの前まで歩いてくると、じっと光を見つめた。
「……気になりますか?」
リュカは短く鳴いた。
エリアスは椅子へ腰を下ろし、膝の上へ抱き上げた。
「昨日は無理をさせてしまいましたからね。今日は何もしなくて大丈夫です」
そう言って背を撫でる。
柔らかな毛並みの下では、穏やかな魔力が循環していた。
まだ完全には回復していないが、昨日よりはずっと安定している。
エリアスが手を止めようとすると、リュカが前脚を伸ばした。
小さな肉球が、彼の指先に触れる。
「……どうしました?」
リュカは一度だけ鳴いた。
それから、ランプではなく窓の方を向いた。
北の森がある方角だった。
エリアスはしばらく考えた。
森に何かが起きていることは、もう疑いようがない。
だが、リュカが何を知っているのかは、まだわからなかった。
言葉を交わせない以上、こちらの都合で答えを求めるべきではない。
「……一緒に行きたいのですか?」
リュカは顔を上げた。
「ですが、まだ体調が戻っていません。今日はお留守番をお願いします」
白い耳が伏せられる。
「元気になったら、また散歩へ行きましょう。今度は森ではなく、湖の方へ」
しばらくすると、リュカは諦めたように彼の膝へ伏せた。
エリアスはその背を撫でながら、机の上の手帳へ目を向けた。
昨夜描いた魔法陣が、ページいっぱいに広がっている。
六つの境界石と、中央にあると考えられる第七標。
そして、魔力を地下へ戻すための流路。
仕組みの一部は理解できた。
しかし、まだ決定的な情報が足りない。
古い結界は、何を基準に魔力の量を調整していたのか。
それがわからなければ、同じ仕組みを作り直しても、いずれ同じ問題が起こるだろう。
エリアスは手帳を閉じた。
今日は、もう一度資料を読み直してみよう。
◇
午前中、辺境伯家から使者が訪れた。
届けられたのは、セドリックからの短い手紙だった。
エリアスは客室で封を切った。
『エリアス殿
昨日お話しした七十年前の報告書について、新たに判読できた箇所が見つかりました。
可能であれば、本日午後に一度お越しいただけないでしょうか。
レオンハルト殿にも関係する内容と思われますので、同席いただければ幸いです。
セドリック・エルフォード』
エリアスは便箋を読み終えた。
ちょうどレオンハルトを訪ねるつもりだったので、都合はよい。
しかし、ひとつ気になることがあった。
レオンハルトにも関係する内容。
なぜ、わざわざそう書いたのだろう。
エリアスは返事を書き、使者へ預けた。
そのあと、古書店へ向かうことにした。
◇
クロイス古書店では、レオンハルトが入口の棚を整理していた。
「こんにちは」
「……エリアスか」
「少し、お時間をいただけますか?」
「構わん。ちょうど片づけが終わるところだ」
エリアスはセドリックから届いた手紙を見せた。
レオンハルトは内容を読み、しばらく黙っていた。
「……七十年前の報告書か」
「ええ。新しい記述が見つかったそうです」
「そうか」
レオンハルトは手紙を返した。
その表情には、わずかな緊張があった。
「レオンハルトさん?」
「……いや。何でもない」
そう答えたものの、彼はすぐには動かなかった。
エリアスは少し考え、静かに尋ねた。
「以前、魔導院での研究についてお話しくださいましたよね」
「ああ」
「今回の結界と、何か関係があるのでしょうか」
レオンハルトは視線を落とした。
しばらくして、ようやく口を開く。
「……ある」
短い返事だった。
エリアスは黙って続きを待った。
「私は昔、リュネリアの古代結界について調べていた」
「はい」
「当時はまだ、研究者になって間もなかった。古い術式を解読することが楽しくて、毎日のように資料を読んでいたよ」
レオンハルトは奥の書斎へ歩き始めた。
エリアスも後に続く。
「ある日、北の森に関する古い記録を見つけた。そこには、七つの境界石を使った結界のことが書かれていたんだ」
「……今、調べているものですね」
「そうだ」
レオンハルトは机の引き出しを開けた。
中から、古びた封筒を取り出す。
「私はその記録をもとに、術式を再現しようとした」
エリアスは顔を上げた。
「再現、ですか?」
「ああ。ただ、実物ではなく小規模な模型だった。安全を確認しながら、魔力の循環を調べるつもりだったんだ」
レオンハルトは封筒を机へ置いた。
「だが、途中で問題が起きた」
「どのような?」
「魔力が循環するはずの回路で、一部が戻ってこなくなった」
エリアスは目を細めた。
「……戻ってこない?」
「ああ。どこかへ吸い込まれるように消えてしまった」
レオンハルトは封筒から一枚の図面を取り出した。
複雑な魔法陣の中心には、花のような形をした構造が描かれている。
エリアスは息を止めた。
昨日、銀色のランプが示したものとよく似ていた。
「……これを、どこで?」
「古い記録の断片から復元したんだ」
レオンハルトは図面を見つめた。
「ただ、中心部分がどうしても理解できなかった」
エリアスは静かに頷いた。
それは当然かもしれない。
周囲の六つの石柱が魔力を集め、中央で調整する。
そこまでは理解できる。
しかし、その調整の基準となるものが、記録には残っていないのだ。
「……それで、研究はどうなったのですか?」
レオンハルトは少し間を置いた。
「中止になった」
エリアスは顔を上げた。
「資料が足りなかったから、ではなく?」
「それも理由のひとつだ。だが、決定的だったのは別のことだ」
レオンハルトは静かに続けた。
「実験中、術式が予想以上の魔力を集め始めた。停止させるために回路を切ったが、その影響で研究室の一部が損傷した」
「……そうでしたか」
「幸い、怪我人はいなかった。だが、危険な術式だと判断され、研究は打ち切られた」
エリアスは図面を見つめた。
魔力が戻ってこない。
中心部分が理解できない。
そして、予想以上の魔力が集まった。
もし、現在の森でも同じことが起きているのなら。
「……ひとつ、確認してもよろしいですか?」
「何だ?」
「術式を停止させたとき、魔力はどこへ流れましたか?」
レオンハルトは少し考えた。
「……外へ漏れたはずだ」
「すべて、ですか?」
「いや。そういえば……」
レオンハルトは記憶を辿った。
「一部は、中央の回路に残っていた」
エリアスは静かに頷いた。
やはり、中心部分に何か仕組みがある。
単に魔力を集めるだけではない。
魔力を受け止め、調整し、どこかへ流すための働きがあるはずだ。
「……レオンハルトさん」
「何だ?」
「その研究は、失敗だったのでしょうか」
突然の問いに、レオンハルトは顔を上げた。
「……どういう意味だ?」
「確かに、実験はうまくいかなかったのかもしれません。ですが、その記録があるおかげで、今の私たちは考えることができます」
エリアスは図面を指差した。
「もし、この研究がなければ、同じ問題に気づかないまま森の結界へ手を加えていたかもしれません」
レオンハルトは黙った。
エリアスは穏やかに続けた。
「失敗した実験にも、残るものはあると思います」
しばらく沈黙が続いた。
窓の外から、通りを歩く人々の声が聞こえてくる。
レオンハルトは図面へ視線を落とした。
「……そうだな」
低い声だった。
それから、小さく息を吐く。
「少なくとも、無駄ではなかったのかもしれない」
エリアスは頷いた。
「ええ。私は、そう思います」
◇
午後、二人は辺境伯家を訪れた。
書庫へ案内されると、セドリックがすでに待っていた。
「お待ちしていました」
「お招きいただきありがとうございます」
エリアスが礼を述べると、セドリックはレオンハルトへ視線を向けた。
「レオンハルト殿も、お越しいただき感謝します」
「……こちらこそ」
レオンハルトは短く頭を下げた。
セドリックは二人を椅子へ案内した。
机の上には、七十年前の報告書が広げられている。
「まず、こちらをご覧ください」
セドリックは一枚の紙を示した。
そこには、以前にはなかった文章が書き加えられていた。
『第七標の所在は、祭殿の守護者のみが知る。
守護者亡き後、標は沈黙した。
ただし、白き導き手が現れるとき、道は再び開かれる。』
エリアスはその文章を読んだ。
「……白き導き手」
セドリックは頷いた。
「以前、お話しされていた小さな白い獣のことを思い出しまして」
「……リュカですね」
「ええ。偶然とは思えません」
レオンハルトは記録へ目を落とした。
「確かに、古い伝承にも同じ呼び名が出てくる」
エリアスは静かに考えた。
白き導き手。
森の異変を知らせる存在。
そして、第七標への道を示すもの。
リュカが古い術式に反応する理由が、少しずつ見えてきた。
「……ただ、リュカに無理はさせたくありません」
エリアスは言った。
「昨日、ランプが反応した際に、かなり魔力を消耗してしまいました」
セドリックは真面目な表情で頷いた。
「もちろんです。無理に力を借りるつもりはありません」
レオンハルトも同意した。
「その子の役割がわからない以上、慎重に扱うべきだろう」
エリアスは少し安心した。
リュカは、森で偶然助けた小さな存在だ。
古代の結界と関係があるとしても、それだけで何かを求めるつもりはなかった。
「……ありがとうございます」
エリアスは静かに礼を述べた。
◇
その後、三人は地図と記録を照らし合わせながら、森の構造について話し合った。
七つの境界石。
そのうち六つは、外側に配置されている。
最後のひとつは、祭殿の守護者に関係している可能性が高い。
「……つまり、第七標は特定の場所にある石柱ではなく、何らかの中枢装置なのかもしれませんね」
エリアスが言うと、レオンハルトが頷いた。
「ああ。少なくとも、普通の境界石とは仕組みが違うはずだ」
セドリックは地図を見つめた。
「では、祭殿の場所を特定する必要がありますね」
「ええ。ただ、現在の森では、古い道がほとんど残っていません」
エリアスは答えた。
「カイルに相談すれば、通れる道を探してくれると思います」
「そうですね」
セドリックは頷いた。
「では、必要な護衛と許可をこちらで整えましょう」
話し合いは、夕方近くまで続いた。
最後に、セドリックが静かに口を開いた。
「……皆さんに、ひとつお願いがあります」
エリアスとレオンハルトが顔を上げた。
「今回の件について、まだ詳しい内容を公表するのは控えたいのです」
「……理由を伺っても?」
エリアスが尋ねる。
「古い結界が何を守っていたのか、まだわかっていません。中途半端な情報が広まれば、余計な不安を招くかもしれません」
エリアスは少し考えた。
確かに、正体のわからない古代魔法が森に眠っていると聞けば、不安になる人もいるだろう。
しかし、危険を知らせるべき相手には、必要な情報を伝えなければならない。
「……では、危険区域や魔道具への影響については、引き続き公表しましょう」
エリアスは答えた。
「ただし、まだ確認できていない推測については、慎重に扱うということで」
セドリックは頷いた。
「ええ。それがよいと思います」
レオンハルトも短く答えた。
「異論はない」
三人は顔を見合わせた。
それぞれ立場は違う。
けれど、森と街を守りたいという気持ちは同じだった。
今は、その共通の目的があれば十分だった。
◇
鈴蘭亭へ戻ったのは、夕食の少し前だった。
エリアスが玄関を開けると、ノアが厨房から顔を出した。
「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「今日は遅かったですね」
「少し、話し合いが長引いてしまいまして」
「そうだったんですね。ご飯、すぐに用意できますよ」
「ありがとうございます」
エリアスは微笑んだ。
階段へ向かおうとしたところで、ノアが呼び止めた。
「あ、エリアスさん」
「はい?」
「リュカ、今日はずっといい子にしてましたよ」
「そうでしたか」
「母さんが何度か様子を見に行ったんですけど、ほとんど寝てたみたいです」
「ありがとうございます。あとでお礼を伝えますね」
「はい!」
エリアスは二階へ上がった。
客室の扉を開けると、寝台の上でリュカが顔を上げた。
「ただいま」
エリアスが近づくと、リュカはゆっくりと起き上がった。
そして、彼の膝へ飛び乗る。
「……ずいぶん元気になりましたね」
エリアスは背を撫でた。
魔力の状態も、かなり回復している。
もう少し休めば、普段どおりに動けるようになるだろう。
「今日は、いろいろなことがわかりましたよ」
エリアスは静かに話しかけた。
「あなたが、あの森と関係していることも」
リュカは顔を上げた。
青い瞳が、まっすぐに彼を見つめる。
「ですが、無理に何かをしてもらおうとは思っていません」
エリアスは微笑んだ。
「あなたが元気でいてくれることの方が、大切ですから」
リュカはしばらく動かなかった。
それから、そっと鼻先をエリアスの手に押しつけた。
小さな温もりが伝わってくる。
「……ありがとうございます」
エリアスはその頭を撫でた。
窓の外では、夕暮れの街に明かりが灯り始めている。
遠くの鐘楼からは、いつもの鐘の音が響いていた。
フィオーレの夜は、穏やかだった。
けれど、北の森にはまだ多くの謎が残されている。
失われた第七標。
古い祭殿。
そして、白き導き手。
それらが何を意味するのか、今はまだわからない。
エリアスはリュカを抱き上げ、窓辺へ向かった。
「……もう少しだけ、付き合ってくださいね」
白い獣は短く鳴いた。
その声は、どこか嬉しそうに聞こえた。
エリアスは静かに微笑んだ。
大切なものを守るために、できることをひとつずつ。
それが、今の自分にできる最善なのだろう。




