第22話 春を取り戻すために
北の森から響いた低い音は、一度きりでは終わらなかった。
最初の震動からしばらくして、再び地面が揺れた。噴水の水面に細かな波紋が広がり、広場の街灯がかすかに軋む。
通りを歩いていた人々が足を止めた。
「地震か?」
「北の方から聞こえたぞ」
「また魔道具がおかしくなったんじゃないか?」
不安げな声が重なる中、エリアスは中央広場の石畳に片膝をついた。
指先から細い魔力を伸ばし、街の外周に設置した結界の状態を確かめる。
結界そのものは正常だった。
外から流れ込む異常な魔力を抑え、街の魔道具を守っている。
ただ、北側の魔力石にかかる負荷が、先ほどよりも増えていた。
「エリアス、どうだ?」
隣にしゃがんだカイルへ、エリアスは顔を向けた。
「結界は維持できています。ですが、森から流れてくる魔力が増えています」
「それって、さっきレオンが言ってたことと関係あるのか?」
「まだ断定はできません。ただ、可能性は高いでしょう」
エリアスは立ち上がった。
今、結界を解除すれば、街の魔道具に再び異常が起きる。
反対に、このまま魔力の流入を制限し続ければ、森の奥で負荷が増すかもしれない。
必要なのは、魔力を遮ることではなく、安全に流すことだった。
「レオンハルトさん。古い記録に、魔力の排出先について書かれていませんでしたか?」
レオンハルトは手元の記録集を開いた。
「排出先か……。直接そう書かれた箇所はなかったはずだ。ただ、ひとつ気になる言葉がある」
「何でしょう」
「『地へ返す』という一節だ」
エリアスは考えた。
地へ返す。
古代の魔導師たちが、単なる魔力の放出をそう表現することもある。
しかし、森の結界に関する記録で繰り返し使われていたのなら、別の意味があるのかもしれない。
「……地下の魔力脈でしょうか」
「その可能性はある」
レオンハルトは頷いた。
「だが、戻す先がわからない。適当な場所へ流せば、それこそ何が起きるかわからんぞ」
「ええ。まずは流れの行き先を確かめます」
エリアスは街の北側へ視線を向けた。
魔力を扱う技術がどれほど優れていても、土地そのものの仕組みを知らなければ、正しい処置はできない。
そして、その仕組みを知っている者が、今も残っているとは限らなかった。
◇
セドリックが中央広場へ到着したのは、それから間もなくのことだった。
数人の衛兵と領地付きの魔導技師を伴い、足早にエリアスたちへ近づいてくる。
「エリアス殿。結界に問題が?」
「今のところ、街への影響は抑えられています。ただ、森の内部で負荷が増しているようです」
「こちらでも、北側の監視所から報告を受けました。地面が二度揺れたそうです」
セドリックは地図を広げた。
「幸い、人的被害はありません。ですが、北部街道の通行は全面的に止めました」
「賢明だと思います」
エリアスは地図へ目を落とした。
北の森へ続く旧街道。
七つの境界石。
その先にあるとされる、古い祭殿。
それらを結ぶ線を目で追っていたとき、セドリックが口を開いた。
「それから、もうひとつご報告があります」
「何でしょう?」
「父から、旧書庫の閲覧許可が下りました」
エリアスは顔を上げた。
「アルノルト・ヴェルナーの報告書ですか?」
「ええ。七十年前、境界石の移設を担当した魔導技師の記録です」
セドリックは持参した革の書類筒を机代わりの石台へ置いた。
「原本は傷みが激しいため、内容を写して持ってきました」
取り出された紙には、古い筆跡を丁寧に書き写した文章が並んでいた。
エリアスは最初の一行を読んだ。
『北部結界保全記録。第四十七年、春。』
続いて、境界石の移設に関する記述があった。
『第一標の魔力流路に著しい偏りを認める。周辺耕地への流出を防ぐため、標の位置を西へ移し、補助流路を設置した。』
「……第一標だったのですね」
エリアスが呟くと、セドリックが頷いた。
「以前、薬草畑の近くで発見された石柱と位置が一致します」
エリアスは続きを読んだ。
七十年前にも、森から周辺の土地へ魔力が流れ込む異変が起きていた。
当時の技師は、石柱を移すことで被害を抑えようとしたらしい。
しかし、報告書の後半には別の記述があった。
『流路の変更後、一時的に周辺の魔力は安定した。ただし、祭殿側の負荷は解消せず。第七標への応答を確認できないため、完全な調整は断念する。』
エリアスはそこで読むのを止めた。
「……七十年前から、第七標が応答していない」
「そういうことになります」
セドリックは表情を曇らせた。
「当時も根本的な解決には至らなかったようです」
レオンハルトが報告書を覗き込んだ。
「十年前に私が調べたときも、同じだった」
「ええ」
エリアスは静かに頷いた。
七十年前。
十年前。
そして、現在。
少なくとも三度の調査で、第七標だけが応答していない。
単なる故障ではなく、意図的に観測できない状態へ置かれている可能性があった。
「……まだ続きがあります」
セドリックが次の紙を差し出した。
そこには、当時の技師が書いたらしい短い文章が残されていた。
『七つ目は失われたのではない。
ただ、誰もそこへ至る道を知らぬ。
標は石にあらず。』
エリアスの指が止まった。
「……石ではない?」
カイルが横から覗き込む。
「どういうことだ?」
「わかりません」
エリアスは正直に答えた。
「ただ、これまで私たちは、七番目もほかと同じ石柱だと考えていました」
レオンハルトが眉を寄せた。
「その前提が間違っていたということか」
「可能性はあります」
エリアスは紙を机へ戻した。
七つの境界石。
そのうち、六つは観測器に反応した。
最後のひとつだけが見つからない。
もし最初から石柱ではなかったとしたら。
答えは、これまで考えていた場所とはまったく違うところにあるのかもしれない。
◇
そのとき、エリアスの肩でリュカが身を起こした。
白い獣は書類へ鼻先を近づけ、短く鳴いた。
「リュカ?」
エリアスが手を添えると、リュカは肩から腕へ移り、報告書の上へ前脚を伸ばした。
触れたのは、最後の一行だった。
『標は石にあらず。』
レオンハルトがその様子を見つめる。
「……また、その言葉に反応しているな」
リュカはじっと紙を見ていた。
小さな体から、淡い魔力が漏れ出している。
普段なら穏やかな光を帯びるだけの魔力が、今はわずかに乱れていた。
エリアスはすぐに抱き上げた。
「……無理をしないでください」
リュカは抵抗しなかった。
けれど、何かを伝えたいように、エリアスの胸元を前脚で押した。
その感触に、エリアスは考え込んだ。
森で初めて出会ったとき、リュカは傷つき、衰弱していた。
その後も古い石柱やランプへ反応し続けている。
そして今、七番目の標について書かれた言葉にまで反応した。
「……ひとつ、試してみたいことがあります」
エリアスは銀色のランプを取り出した。
周囲の人々が見守る中、石台の上へ静かに置く。
「前に古書店で調べたとき、このランプは六つの反応を示しました。ですが、リュカが近づくと、観測結果に変化があったんです」
「その子が、七番目と関係しているのか?」
カイルが尋ねる。
「まだわかりません。ただ、確認できることはあります」
エリアスは小さな遮断術式を展開した。
ランプの周囲だけを薄い結界で囲み、外部へ魔力が漏れないようにする。
さらに、内部の記録結晶へ直接干渉せず、観測回路のみを起動させた。
淡い光が浮かび上がる。
ひとつ。
二つ。
三つ。
六つの小さな円が、空中に並んだ。
セドリックが息を潜める。
「……これが、六つの境界石の反応ですか」
「ええ」
エリアスは頷いた。
「ただ、それぞれの明るさが違います。現在の魔力の状態を表しているのでしょう」
六つの光のうち、二つが不規則に揺れていた。
特に第三標に当たる反応は、ほかよりも弱い。
先日、林道で地面が割れた場所と一致している。
「……やはり、第三標の負荷が大きいですね」
エリアスは呟いた。
そのとき、リュカが腕の中で身じろぎした。
小さな鼻先が、ランプへ向けられる。
エリアスは慎重に抱き直した。
「リュカ。何か感じますか?」
返事の代わりに、白い獣は短く鳴いた。
その声に応じるように、六つの円を結ぶ線が揺れた。
そして。
六つの光の中央に、淡い光が現れた。
「……!」
セドリックが息を呑む。
レオンハルトは身を乗り出した。
新しく現れた光は、ほかの六つとは形が違っていた。
円ではない。
小さな花のように、幾重にも重なる線がゆっくりと開いていく。
エリアスはその構造を読み取ろうとした。
しかし、次の瞬間。
リュカの体が小さく震えた。
「……リュカ?」
白い獣が力を失い、エリアスの腕へ倒れ込む。
同時に、空中の光が消えた。
エリアスは即座に術式を停止した。
「リュカ!」
カイルが駆け寄る。
エリアスは白い獣を抱き上げ、慎重に魔力の状態を調べた。
命に別状はない。
しかし、体内の魔力が大きく減っていた。
短い時間の反応で、相当な負担がかかったらしい。
「……すみません」
エリアスは小さく呟いた。
リュカは目を閉じたまま、かすかに尾を動かした。
セドリックが心配そうに尋ねる。
「大丈夫でしょうか」
「ええ。少し休ませれば回復すると思います。ただ、もう試すべきではありません」
エリアスは銀色のランプを鞄へ戻した。
リュカが何らかの役割を持っていることは、ほぼ確かだった。
けれど、その力を利用すれば、本人に負担がかかる。
それなら、ほかの方法を探すべきだ。
「……七番目の標については、別の手がかりを調べましょう」
エリアスは静かに言った。
レオンハルトは頷いた。
「賛成だ。今の反応だけでも、十分な収穫だった」
カイルも腕を組む。
「そうだな。リュカに無理させる必要はない」
セドリックは少し考え、報告書を手に取った。
「では、まずは七十年前の記録をもう少し調べてみましょう」
四人は顔を見合わせた。
まだ答えには届いていない。
しかし、進むべき方向は少しずつ見えてきていた。
◇
その夜。
鈴蘭亭の客室では、リュカが寝台の上で眠っていた。
エリアスは隣の椅子に腰を下ろし、その小さな体を見守っている。
ノアが運んできてくれた温かいお茶は、まだ手をつけていなかった。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、春の風が木々を揺らしている。
リュカの体調は少しずつ回復していた。
魔力の流れも安定し、呼吸も穏やかになっている。
それでも、エリアスの表情は晴れなかった。
自分は、何を見落としていたのだろう。
リュカが何かを伝えようとしていることは、以前から気づいていた。
けれど、その意味を理解することばかり考え、負担について十分に考えていなかったのかもしれない。
「……申し訳ありません」
エリアスは静かに呟いた。
眠っていたリュカの耳が、かすかに動く。
「あなたが無理をする必要はないんです」
エリアスは白い頭を撫でた。
「森のことは、私たちが調べますから」
リュカはゆっくりと目を開けた。
淡い青色の瞳が、エリアスを見上げる。
そして、前脚を伸ばし、彼の手に触れた。
その小さな仕草に、エリアスは微笑んだ。
「……ありがとうございます」
リュカは短く鳴き、再び目を閉じた。
エリアスはしばらくその様子を見つめていた。
それから、机の上に広げた地図へ視線を戻す。
六つの境界石。
失われた第七標。
そして、北の祭殿。
今日、ランプが示した七番目の反応は、ほかの六つとは明らかに違っていた。
円ではなく、花のような形。
その意味を考えていると、ふと、あることに気づいた。
「……花?」
エリアスは地図を引き寄せた。
古い祭殿の周囲には、細い線が幾重にも描かれている。
その線は、六つの境界石を結び、中央へ集まっていた。
まるで、花びらのように。
「……そういうことですか」
エリアスは小さく息を吐いた。
七番目の標は、ほかと同じ石柱ではない。
六つの石柱を結び、魔力を調整するための中心。
それが、失われた第七標の正体なのかもしれない。
そして、リュカはその中心と何らかの関係を持っている。
ただし、リュカ自身が第七標だとは限らない。
むしろ、古い仕組みへ反応できる存在なのだろう。
エリアスは机の上の銀色のランプを見つめた。
まだ、わからないことは多い。
けれど、ひとつだけ考えがまとまり始めていた。
古い結界を、そのまま修復する必要はないのかもしれない。
もし、今の森に合わなくなっているのなら。
新しい仕組みに作り替えることもできるはずだ。
そのためには、まず地下の魔力脈を調べる必要がある。
森の奥で、魔力がどこへ流れ、どこに集まっているのか。
そして、本来はどのように循環していたのか。
エリアスは手帳を開き、いくつかの図を書き始めた。
夜は静かに更けていく。
窓の外には、雲の切れ間から月が見えていた。
◇
一方、辺境伯家の書庫では、セドリックが父から預かった古い文書を読んでいた。
七十年前の報告書。
その末尾には、これまで写しに含まれていなかった一節があった。
紙の端が傷んでいたため、最初の調査では読み取れなかった部分だ。
セドリックは燭台を近づけ、文字を確かめる。
『第七標の所在は、祭殿の守護者のみが知る。
守護者亡き後、標は沈黙した。
ただし、白き導き手が現れるとき、道は再び開かれる。』
セドリックは息を止めた。
白き導き手。
以前、エリアスから聞いた、小さな白い獣の話。
そして、森の古い伝承。
それらが、ひとつにつながり始めていた。
「……まさか」
セドリックは書類を机へ置いた。
窓の外には、静かな夜の街並みが広がっている。
彼はしばらく考え込んだあと、呼び鈴へ手を伸ばした。
明日の朝、エリアスへこの記録を届けるつもりだった。




