第19話 失われた術式
クロイス古書店の扉を開けると、奥から紙をめくる音が聞こえた。
店内には客の姿がなく、夕方の陽光が書棚の間に細長く差し込んでいる。窓辺には昨日の雨で傷んだ鉢植えが置かれ、その下に小さな水受けが敷かれていた。
「レオンハルトさん、いらっしゃいますか」
「奥だ。入ってくれ」
エリアスが書斎へ向かうと、レオンハルトは机の上に広げた紙束と格闘していた。
古びた研究記録が何冊も積み重なり、床には取り出したままの木箱が並んでいる。
「ずいぶん探してくださったのですね」
「探していたというより、片づける羽目になった」
レオンハルトは椅子の背に掛けていた上着をどけ、そこへ座るよう促した。
「昔の資料をまとめて入れた箱があったはずなんだが、ほかの記録に紛れていたらしい」
「お手数をおかけしました」
「構わん。私も気になっていたところだ」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
肩掛け鞄からリュカが顔を出し、部屋の中を見回している。
カイルは鈴蘭亭で別れた。今日の調査をギルドへ報告し、周辺での魔物の目撃情報を確認してくれるという。
危険区域を不用意に広げないよう、ギルドと辺境伯家にも現状を伝えておく必要があった。
「まず、これを見てほしい」
レオンハルトが一枚の紙を差し出した。
紙面には、複雑な円形の魔法陣が描かれていた。
線の一部は薄れ、端には何度も書き直した跡がある。
「私が魔導院にいた頃、古代の観測術式について調べていた。そのときに模写したものだ」
「観測術式……」
エリアスは紙を机へ広げ、銀色のランプを取り出した。
市場の古道具屋で譲り受けた、小さな照明用の魔道具。
表面には繊細な文様が刻まれているが、よく見れば普通の装飾とは異なる。
小さな線が何本も交差し、内部の魔力回路へと続いている。
二つを並べてみると、共通点は明らかだった。
「ここですね」
エリアスは模写の一角を指差した。
「この三重の環。ランプの内側にも、同じ構造があります」
「私もそう思った」
「ただ、模写の方が複雑です。おそらく、ランプに組み込まれているのは一部分なのでしょう」
レオンハルトは頷いた。
「当時の研究では、これを広域魔力観測の基礎術式ではないかと考えていた」
「周囲の魔力を観測するためのものですか」
「そうだ。ただし、現代の観測器とは仕組みが違う」
エリアスは改めて図へ目を落とした。
一般的な魔力観測器は、周囲の魔力の強さや属性を測定する。
しかし、目の前の術式はそうした構造ではなかった。
魔力を集める部分が極端に小さく、その代わり、外部からの微弱な反応を受け取る回路が何重にも組み込まれている。
「……これは、受信に特化していますね」
エリアスが呟く。
レオンハルトは顔を上げた。
「受信?」
「ええ。周囲の魔力を直接測るのではなく、別の魔道具が発する情報を読み取る仕組みに見えます」
エリアスは紙の端に簡単な図を描いた。
「例えば、離れた場所に複数の観測点があり、それぞれが魔力の状態を知らせてくるとします。この術式なら、その情報を一か所で受け取れるはずです」
レオンハルトは図を見つめた。
「……つまり、何かと対になっていた可能性があるわけか」
「はい」
エリアスは銀色のランプへ目を向けた。
「もしこのランプが同じ仕組みなら、本来の用途は照明ではなかったのかもしれません」
室内が静かになった。
レオンハルトはランプを手に取り、底面の刻印を確かめた。
「古い道具だとは思っていたが、まさかここまでつながるとはな」
「私も驚いています」
「それを市場でもらったんだったな」
「ええ。魔道具を修理したお礼に」
「随分と気前のいい店主だ」
「優しい方でした」
「……価値を知っていたら、渡さなかっただろうな」
レオンハルトの言葉に、エリアスは少し考えた。
「そうでしょうか。気に入っていただけた方に使ってほしいと、おっしゃっていましたよ」
レオンハルトは返事をしなかった。
この青年は、物の価値を金銭だけで考えないらしい。
それは悪いことではないが、時として危なっかしくもある。
「ともかく、勝手に作動させるのはやめておけ」
「ええ。そのつもりです」
エリアスはランプを受け取り、机へ置いた。
その瞬間、リュカが鞄から身を乗り出した。
青い瞳は、ランプをじっと見つめている。
◇
「リュカ、こちらへ来ますか?」
エリアスが声をかけると、白い獣は机の端へ軽やかに飛び移った。
そのまま銀色のランプの周りを一周し、鼻先を近づける。
レオンハルトは動きを止め、様子を見守った。
「また反応するかもしれないな」
「そうですね」
リュカはランプの底面を前脚で軽く叩いた。
かすかな金属音が鳴る。
それから、もう一度。
「……底が気になるのですか?」
エリアスはランプを持ち上げた。
底面には小さな円形の刻印がある。
これまでも何度か確認した場所だったが、特に変わったものは見つかっていない。
指先で触れると、表面のごく一部だけに違う感触があった。
「……ここ、材質が違いますね」
レオンハルトが身を寄せた。
「どこだ?」
「この縁の内側です。表面に薄い金属板が重ねられています」
エリアスは小さな道具を取り出した。
無理にこじ開けるのではなく、接合部を調べる。
金属板は、複雑な留め具で固定されていた。
「取り外せそうか?」
「ええ。ただ、古いものですから慎重に扱いたいですね」
エリアスは細い工具を使い、ひとつずつ留め具を外していった。
最後の留め具が外れると、金属板が小さく浮き上がる。
その下には、薄い水晶片が埋め込まれていた。
「……これは」
レオンハルトが低く呟いた。
水晶片は指先ほどの大きさだった。
内部には、ごく細い銀色の線が幾重にも走っている。
エリアスは目を細めた。
「情報を保持するための記録結晶ですね」
「古代式か?」
「おそらく。ただ、かなり特殊な加工がされています」
一般的な記録結晶は、魔力を流すことで内部の情報を読み取れる。
しかし、これは違った。
記録を保持する部分と、それを外部へ伝える部分が分かれている。
しかも、記録そのものを直接取り出せないよう、複雑な制御が施されていた。
「……無理に読み出すと、壊れる可能性があります」
エリアスは慎重に結晶を戻した。
リュカは不満そうに鳴いた。
「すみません。もう少しだけ待ってください」
そう言って背を撫でると、リュカはエリアスの手に鼻先を押しつけた。
レオンハルトはその様子を見ながら、机の上の模写へ視線を戻した。
「……待て」
彼は紙束の中から別の一枚を抜き出した。
「確か、似た構造があったはずだ」
エリアスも覗き込む。
そこには、七つの小さな円を結ぶ術式が描かれていた。
中央には、別の大きな円。
そして、その脇に小さな記号が添えられている。
「これは?」
「研究記録の一部だ。出典は古い地方文書だった」
レオンハルトは記号を指差した。
「当時は意味がわからなかったが、今なら少し違って見える」
エリアスは文字を読んだ。
『標の声を聴くもの』
短い一節だった。
彼はその下に描かれた小さな図へ目を向けた。
手持ちの道具らしき形。
円形の台座。
そして、細長い光の線。
「……観測器を指しているのかもしれませんね」
「私もそう考えている」
エリアスはランプを見た。
森の石柱に近づいたとき、この魔道具は反応した。
リュカが触れると、内部の回路が明滅した。
もし石柱からの情報を受け取る仕組みなら、どちらも不自然ではない。
「……試せることがあります」
エリアスが言うと、レオンハルトは眉を寄せた。
「危険なことじゃないだろうな」
「内部の情報を無理に取り出すわけではありません。受信機能がどこにつながっているのか、外側から確かめるだけです」
エリアスは机の上の本をどけ、ランプの周囲に小さな円を描いた。
魔力を遮断するための、ごく簡単な補助術式だ。
「この範囲で反応を観察します。異常があれば、すぐに止めます」
レオンハルトは図を確かめたあと、短く頷いた。
「わかった。私も見ていよう」
◇
準備を終えたエリアスは、ランプへごく弱い魔力を流した。
照明部分が淡く灯る。
普段と変わらない反応だった。
次に、内部の記録結晶へ直接触れないよう、外側の回路だけを探る。
すると、細い銀色の線が浮かび上がった。
最初は一本。
やがて、二本、三本と増えていく。
レオンハルトは息を潜めて見守っていた。
「……線が伸びているな」
「ええ。外部からの応答を探しているようです」
細い線は空中でゆっくり曲がり、小さな円を描いた。
一つ目の円。
二つ目。
三つ目。
円は次々と現れ、合計六つになった。
それぞれの明るさは異なっていた。
強く光るものもあれば、今にも消えそうなほど弱いものもある。
エリアスは慎重に魔力の流れを確認した。
外から届く微弱な反応が、ランプの内部で形を与えられている。
これは、明らかに観測術式だった。
「……六つ、ですね」
レオンハルトが呟いた。
「地図には七つ描かれていたはずだ」
「ええ」
エリアスは眉を寄せた。
反応が弱いのではない。
六つ目までは確かに応答がある。
しかし、残るひとつだけは、まるで最初から存在しないかのように何も返してこなかった。
「……七番目がありません」
そのとき、机の上のリュカが身を起こした。
白い獣は、何もない空間をじっと見つめている。
そして、小さく鳴いた。
次の瞬間。
六つの円を結ぶ細い線が、一瞬だけ揺れた。
エリアスはすぐに魔力を止めた。
光は静かに消え、ランプも元の姿へ戻った。
室内には、しばらく沈黙が続いた。
「……今のは」
レオンハルトが口を開く。
「七つ目に反応したのか?」
「わかりません。ただ、リュカの魔力が加わったとき、観測結果に変化がありました」
エリアスはリュカを見た。
小さな獣は、まだ何もない空間を見つめている。
「リュカ。何か感じましたか?」
問いかけると、リュカはエリアスの方を向いた。
それから、前脚で机を軽く叩く。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
「……何かを伝えたいようですね」
レオンハルトは腕を組んだ。
「お前は、その子の言葉がわかるのか?」
「いえ。まだ、そこまでは」
「……そうか」
エリアスは少し笑った。
「ですが、意思はあるようですから。いつか理解できるかもしれません」
リュカはエリアスの手元へ近づき、指先に鼻を押しつけた。
その仕草は、まるで何かを急かしているようにも見えた。
◇
「七番目の石柱について、何か記録はありませんか?」
エリアスが尋ねると、レオンハルトは古い紙束を探し始めた。
「……確か、ひとつあった」
しばらくして、一冊の薄い手帳を取り出した。
表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。
「魔導院にいた頃、資料を書き写すために使っていたものだ」
レオンハルトはページをめくった。
古い術式に関する覚え書きや、研究者たちの名前が並んでいる。
その中の一ページで、手が止まった。
「……ここだ」
エリアスは身を乗り出した。
そこには、七つの境界石に関する短い記録があった。
『第一標――西の林道。
第二標――北西の丘陵。
第三標――旧街道沿い。
第四標――湖へ続く谷。
第五標――北の森中腹。
第六標――祭殿外周。
第七標――記録欠損。』
エリアスは最後の一行を見つめた。
「……記録欠損」
「ああ」
レオンハルトは頷いた。
「当時、参考にした資料もそこだけ不自然に途切れていた」
「ほかの石柱には位置が記されているのに」
「そうだ。七番目だけがない」
エリアスは静かに考えた。
記録が失われたのか。
それとも、最初から記されていなかったのか。
あるいは、誰かが意図的に消したのか。
「……元の資料は残っていますか?」
「いや。私が閲覧したあと、保管庫へ戻されたはずだが、その後は確認できなかった」
「そうなのですね」
レオンハルトは少し間を置いた。
「当時、この術式の研究は途中で打ち切られた」
エリアスは顔を上げた。
「以前、おっしゃっていましたね」
「ああ。資料不足という説明だった。だが……」
レオンハルトは言葉を切った。
手帳の最後の行を見つめる。
「……今になって考えると、少し不自然だった」
「どのような点が?」
「研究を続けるための資料が集まり始めたところで、突然打ち切りになったんだ」
エリアスは黙って聞いていた。
「理由を尋ねても、詳しい説明はなかった。担当していた研究者も、別の部署へ移された」
「……そうでしたか」
レオンハルトは手帳を閉じた。
「当時は、予算や研究方針の問題だと思っていた。魔導院では珍しくないことだったからな」
少し間を置く。
「だが、もし七番目の記録が意図的に隠されていたのなら、話は違ってくる」
エリアスは考え込んだ。
王立魔導院には、危険な術式や国家機密に関わる研究を制限する制度がある。
特に古代魔法については、調査そのものが禁じられている分野も少なくない。
しかし、それなら正式な記録が残るはずだった。
研究を途中で打ち切り、資料まで失われたというのは、確かに少し不自然だ。
「……調べてみる必要がありそうですね」
エリアスが言うと、レオンハルトは頷いた。
「そうだな。ただし、慎重に進めたい」
「ええ」
エリアスは古い地図を広げた。
七つの境界石。
六つの反応。
そして、位置の記録が残っていない最後のひとつ。
そこへ、リュカが近づいてきた。
白い前脚が、地図の端に触れる。
「……リュカ?」
エリアスが声をかけると、リュカは地図の北側へ鼻先を向けた。
そこには、古い祭殿を示す小さな印が描かれている。
レオンハルトもその様子を見ていた。
「……その子は、祭殿の場所を知っているのかもしれないな」
「そうかもしれません」
エリアスは静かに頷いた。
けれど、すぐに立ち上がることはしなかった。
森で起きた異変を思えば、無理に奥へ進むのは避けるべきだ。
今は、まだ知らないことが多すぎる。
「……まずは、セドリック様にも相談してみましょう」
エリアスは地図を丁寧に畳んだ。
「辺境伯家には、ほかにも記録が残っているかもしれません」
「そうだな」
レオンハルトは頷いた。
「私も、もう少し資料を調べてみる」
「ありがとうございます」
エリアスは穏やかに微笑んだ。
そのとき、書斎の窓を雨粒が叩いた。
いつの間にか、外では小雨が降り始めていた。
◇
鈴蘭亭へ戻る頃には、雨は本降りになっていた。
エリアスが玄関で傘を畳んでいると、厨房からノアが顔を出した。
「あっ、おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「今日は古書店に行ってたんですか?」
「ええ。少し調べ物をしていました」
「そうだったんですね」
ノアはエリアスの肩掛け鞄を見た。
「リュカも一緒だったんですね」
「はい。今日はずいぶん協力してくれました」
「協力?」
「ええ。探していたものについて、少し教えてくれたんです」
ノアは不思議そうに瞬きをした。
「……リュカが?」
「はい」
エリアスは鞄の中のリュカを見た。
白い獣は、何事もなかったかのように目を閉じている。
「……賢い子ですから」
そう言うと、ノアは笑った。
「エリアスさん、本当にリュカが好きなんですね」
「そうですね」
エリアスは素直に頷いた。
「一緒にいると、毎日新しい発見がありますから」
「いいですね、そういうの」
ノアは嬉しそうに笑った。
「そうだ。今日は母さんが、きのこのクリーム煮を作ってるんですよ」
「きのこのクリーム煮ですか」
「はい。焼きたてのパンもあります!」
「それは楽しみですね」
エリアスの声が少し弾んだ。
ノアは満足そうに頷き、厨房へ戻っていった。
エリアスは食堂の窓際へ腰を下ろした。
外では雨が降り続いている。
通りを行き交う人々は傘を差し、足早に家路を急いでいた。
エリアスは鞄から銀色のランプを取り出した。
今は何の反応もない、小さな魔道具。
けれど、その内部には、三百年前の技術が眠っている。
そして、七つあるはずの境界石のうち、ひとつだけが応答しない。
六つの光が示したのは、石柱の位置なのだろうか。
それとも、まったく別の意味があるのだろうか。
エリアスはしばらくランプを眺めていた。
すると、隣の椅子へ移ったリュカが、静かに顔を上げた。
青い瞳が、ランプの表面を見つめている。
「……リュカ」
名前を呼ぶと、白い耳が動いた。
「七番目の石柱は、どこにあるのでしょうね」
リュカは答えなかった。
ただ、長い尾をゆっくりと動かした。
エリアスはそれ以上尋ねず、ランプを鞄へ戻した。
その直後だった。
リュカが前脚を伸ばし、彼の手を止めた。
「……?」
小さな前脚が、鞄の口を押さえている。
エリアスが手を離すと、リュカはランプではなく、その下に収めていた地図へ鼻先を寄せた。
何かを確かめるように、同じ場所を何度も嗅いでいる。
「地図が気になるのですか?」
エリアスは畳んだ紙を取り出した。
その瞬間、リュカの尾が止まった。
古い祭殿の印。
七つの境界石を示す小さな図柄。
そして、祭殿の北側に描かれた、細い線。
エリアスはその線へ目を留めた。
昨日までは、古い街道の一部だと思っていた。
しかし、よく見ると、ほかの道とは描き方が違う。
線は途中で途切れ、その先には何も記されていない。
「……これは」
エリアスは指先で線を辿った。
その先にあるはずの場所は、地図の余白になっている。
不自然だった。
道であれば、どこかへ続いているはずだ。
地形を示す線なら、途中で消える理由がない。
エリアスは地図を光に透かしてみた。
すると、紙の表面に、ごくわずかな凹凸が見えた。
何かを書いたあと、削り取ったような跡だった。
「……記録が、消されていますね」
小さく呟く。
リュカは何も言わず、じっと彼を見上げていた。
エリアスは地図を丁寧に畳んだ。
今すぐ答えが出るわけではない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
七番目の境界石について、記録が残っていないのではない。
少なくとも、誰かがその場所を隠そうとした可能性がある。
窓の外では、雨が石畳を静かに濡らしていた。
エリアスはリュカの背を撫でながら、明日、セドリックへ手紙を書くことを決めた。




