第20話 友人たちの決意
朝の鈴蘭亭には、焼きたてのパンと珈琲の香りが漂っていた。
食堂の隅にある小さなテーブルで、エリアスは便箋に最後の一文を書き加えた。
『つきましては、昨日の調査で判明したことをご報告するとともに、古い地図について改めてご相談できればと思います。』
宛先は、セドリック・エルフォード。
昨日、銀色のランプを調べたことで明らかになった六つの反応と、古い地図に残されていた削り跡について知らせるためだった。
書き終えた手紙を読み返し、エリアスは封筒に収めた。
「……これでよさそうですね」
足元で丸くなっていたリュカが、声に反応して顔を上げた。
エリアスはその白い頭を撫でる。
「今日は少し忙しくなるかもしれませんよ」
リュカは大きく欠伸をした。
まったく気にしていないらしい。
「……あなたは、いつもどおりですね」
エリアスは笑って立ち上がった。
ちょうどそこへ、ノアが朝食の皿を運んできた。
「お待たせしました!」
「ありがとうございます」
「今日はお手紙ですか?」
「ええ。辺境伯家へ届けていただこうと思いまして」
「またセドリック様ですか?」
「はい。少し確認したいことがあるんです」
ノアは皿を置きながら、エリアスの顔を覗き込んだ。
「……エリアスさん、最近ずっと調べ物してません?」
「そうですね。少し気になることがありまして」
「せっかく休暇で来たのに、大丈夫ですか?」
その問いに、エリアスは少し考えた。
確かに、ここ数日は森の調査や古い術式の解読に時間を使っている。
王都にいた頃と、あまり変わらないのかもしれない。
しかし、ひとつだけ大きな違いがあった。
「……今は、自分でやりたいと思って調べていますから」
エリアスは答えた。
「無理をしているわけではありませんよ」
ノアは少し安心したように笑った。
「それならいいんです。でも、ちゃんと休んでくださいね」
「ええ。ありがとうございます」
「それと、今日は市場に新しい果物が入るらしいですよ」
「そうなのですか?」
「はい。南の地方から来た商人さんが、珍しい果物を持ってくるんですって」
エリアスの表情が明るくなる。
「それは、ぜひ見に行きたいですね」
「ふふっ。やっぱりそう言うと思いました」
ノアは笑いながら厨房へ戻っていった。
エリアスは朝食のパンを手に取り、窓の外を眺めた。
昨日まで降っていた雨は上がり、今日は青空が広がっている。
少し気温も上がりそうだった。
市場へ寄るなら、午前中がよいだろう。
そう考えていると、玄関の扉が開いた。
「おーい、エリアス!」
カイルの声だった。
「おはようございます、カイル」
「おう。ちょうどよかった」
カイルはエリアスの向かいに座り、肩から提げていた革袋を下ろした。
「昨日の報告、ギルドに出してきたぞ」
「ありがとうございます」
「それで、ちょっと気になる話を聞いた」
カイルは声を落とした。
「北の森の近くで、また魔物が移動してるらしい」
エリアスは手を止めた。
「どの辺りでしょう?」
「街道から少し西に入ったところだな。今度は大型の魔物も混じってたって話だ」
「……そうですか」
「幸い、人への被害はまだない。でも、放っておくわけにもいかないだろ」
カイルは真面目な表情で続けた。
「ギルドでも、しばらく北側の依頼を制限することになった」
「それはよい判断ですね」
「エマも同じこと言ってたよ」
エリアスは頷いた。
魔物の移動が増えている。
それも、普段は人里へ近づかない種類まで。
森の環境が変化している可能性は、ますます高くなっていた。
「……実は、こちらも新しいことがわかりました」
エリアスは昨日の調査について説明した。
銀色のランプが古代の観測器である可能性。
七つの境界石のうち、六つしか反応しなかったこと。
そして、七番目の記録が意図的に消されたように見えること。
カイルは黙って聞いていた。
「……なるほどな」
説明が終わると、腕を組む。
「つまり、七つあるはずなのに、ひとつだけ行方不明ってことか」
「今のところは、そう考えています」
「だったら、その七番目を探せばいいんじゃないか?」
「そうなのですが、場所がわからないんです」
「地図にもないのか?」
「ええ。記録が削られているようで」
カイルは少し考えた。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「そういうのって、魔法だけじゃ見つからないもんなのか?」
「位置がわかれば探せると思います。ただ、森全体を調べるには時間がかかりますし、古い術式に無理な魔力を流すのは危険ですから」
「なるほど」
カイルは頷いた。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「……よろしいのですか?」
「当たり前だろ」
カイルは笑った。
「森の道なら俺の方が詳しいし、ギルドの情報も集められる。魔法のことはよくわからないけど、できることはあるからな」
エリアスは少し驚いた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「礼なんていいって」
カイルは肩をすくめた。
「それに、友達が困ってるのを放っておくほど薄情じゃないぞ」
その言葉に、エリアスは一瞬黙った。
友達。
カイルは何気なく口にしたのだろう。
しかし、エリアスにとっては少し特別な響きがあった。
王都にも親しくしてくれる人はいた。
オスカーなどは、その代表だ。
けれど、フィオーレへ来てから出会ったカイルに、そう呼んでもらえることが嬉しかった。
「……そうですね」
エリアスは穏やかに答えた。
「では、頼りにさせてください」
「おう!」
カイルは満足そうに笑った。
◇
その日の昼過ぎ、エリアスは辺境伯家を訪れた。
朝に出した手紙への返事が予想以上に早く届き、午後なら時間を取れるとのことだった。
案内されたのは、以前と同じ西棟の書庫だった。
扉を開けると、セドリックが机の前で待っていた。
「ようこそ、エリアス殿」
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ。こちらもお話を伺いたいと思っていました」
セドリックは椅子を勧めた。
机の上には、古い地図と記録集が並べられている。
「お手紙を拝見しました。七つの境界石のうち、六つしか反応しなかったそうですね」
「はい」
「それは、少し気になりますね」
「ええ。単に壊れている可能性もありますが、記録まで失われているのは不自然です」
セドリックは頷いた。
「こちらでも改めて古い資料を調べてみました」
「何かわかりましたか?」
「ひとつ、興味深い記録がありました」
セドリックは厚い帳簿を開いた。
「これは、約七十年前の屋敷の修繕記録です」
「修繕記録?」
「ええ。建物や庭園だけでなく、領内の古い施設についても記されています」
エリアスはページを覗き込んだ。
古い橋の補修。
街道沿いの道標の交換。
水路の修理。
そうした記録が、細かな文字で並んでいる。
セドリックは一か所を指差した。
『北部林道、旧境界石の移設作業。
現地の魔力異常につき、専門技師の立ち会いのもと実施。』
エリアスはその文章を読んだ。
「……移設作業」
「ええ」
セドリックは頷いた。
「以前、エリアス殿が見つけた石柱は、古い地図の位置から少しずれていたそうですね」
「はい。周囲の土も比較的新しい状態でした」
「この記録と関係があるかもしれません」
エリアスは静かに考えた。
七十年前。
それなら、石柱の根元に比較的新しい土が残っていても不思議ではない。
しかし、なぜ動かしたのだろう。
「……理由は記されていますか?」
「魔力異常のため、とだけ」
セドリックは首を横に振った。
「詳しい経緯は残っていません。ただ、担当者の名前は記されていました」
エリアスは顔を上げた。
「どなたでしょう?」
「当時の領地付き魔導技師、アルノルト・ヴェルナーです」
聞き覚えのない名前だった。
「……その方は、今もご存命でしょうか」
「亡くなっています。ですが、当家には彼が残した報告書がいくつかあります」
セドリックは書棚へ目を向けた。
「すべて確認できたわけではありませんが、探してみる価値はありそうです」
「ぜひ、お願いできますか」
「もちろんです」
セドリックは微笑んだ。
「ただ、少し時間をいただければと思います」
「ええ。急ぎませんので」
エリアスは頷いた。
少なくとも、石柱が人の手で動かされたことは、かなり確かになった。
それも、魔力異常への対応として。
だとすれば、今起きていることは、七十年前にも何らかの形で発生していたのかもしれない。
◇
「……もうひとつ、お話ししておきたいことがあります」
セドリックが口を開いた。
その声は、先ほどまでより少し硬かった。
「北の森に関する件です」
「はい」
「最近の魔物の移動について、ギルドからも報告を受けています」
セドリックは窓の外へ目を向けた。
「まだ大きな被害はありませんが、周辺の村にも注意を呼びかけています」
「そうでしたか」
「ええ。今後、状況が悪化するようなら、街道の一部を閉鎖することも考えなければなりません」
エリアスは頷いた。
森の異変が続けば、人々の暮らしにも影響が出る。
街道が使えなくなれば、商人の往来が減る。
薬草の採取が難しくなれば、薬師たちも困るだろう。
「……できるだけ、早く原因を把握した方がよさそうですね」
「ええ。ただし、無理をしていただくつもりはありません」
セドリックは静かに続けた。
「あなたは休暇中です。本来、こうした問題はこちらで対処すべきことですから」
エリアスは少し考えた。
確かに、宮廷魔導師としての立場は今も残っている。
しかし、今は王命による任務ではない。
ここで暮らす人々に関わる問題だからこそ、自分の意思で向き合いたいと思っていた。
「……セドリック様」
「はい?」
「私は、この街が好きです」
セドリックは顔を上げた。
「まだ滞在して間もありませんが、親切な方々に出会い、毎日楽しく過ごしています」
エリアスは穏やかに続けた。
「ですから、もし私にできることがあるのなら、少しでもお役に立ちたいんです」
セドリックはしばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声には、素直な感謝が込められていた。
「では、私もできる限り協力しましょう」
「ありがとうございます」
「必要な資料や許可があれば、遠慮なくおっしゃってください」
「ええ。頼りにさせていただきます」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
◇
夕方、エリアスはクロイス古書店へ立ち寄った。
レオンハルトは奥の書斎で、古い研究記録を読み込んでいた。
「……来たか」
「こんにちは」
「ちょうど、確認したいことがあった」
レオンハルトは一冊の手帳を机へ置いた。
「七番目の境界石についてだ」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
「何かわかりましたか?」
「位置はまだわからない。ただ、気になる記述を見つけた」
レオンハルトは手帳の一節を指差した。
『第七標の観測、失敗。
外部からの応答なし。
原因不明。』
エリアスは目を細めた。
「……観測に失敗した記録ですか」
「ああ」
「いつ頃のものですか?」
「私が研究をしていた頃だ。もう十年近く前になる」
エリアスは静かに考えた。
十年前にも、七番目の境界石は応答しなかった。
ということは、今回の異変によって壊れたとは限らない。
「……以前から反応しなかったのですね」
「そうだ」
レオンハルトは頷いた。
「ただ、そのときは装置の不調だと思っていた。ほかに比較できるものもなかったからな」
「なるほど」
「だが、今回のランプでも六つしか反応しなかった」
エリアスは机の上の銀色のランプへ目を向けた。
二つの異なる観測で、同じ結果が出ている。
偶然とは考えにくい。
「……七番目だけ、何か特別な仕組みがあるのかもしれませんね」
エリアスが言うと、レオンハルトは頷いた。
「私もそう考えている」
そのとき、机の上にいたリュカが静かに立ち上がった。
白い獣は、開かれた手帳へ近づく。
そして、七番目の記録が書かれた行へ鼻先を寄せた。
「……リュカ?」
エリアスが声をかける。
リュカは答えず、その行をじっと見つめている。
やがて、小さな前脚で紙の端を押さえた。
レオンハルトが眉を寄せた。
「……また、何か感じているのか」
エリアスは静かに頷いた。
「そのようですね」
リュカはしばらく動かなかった。
そして、不意に顔を上げた。
青い瞳が、エリアスを見つめる。
その目には、普段の無邪気さとは違う、どこか切実なものが宿っていた。
エリアスはそっと手を差し出した。
「……大丈夫ですよ」
白い獣が、その手に鼻先を寄せる。
「急がなくても、少しずつ調べていきましょう」
リュカは短く鳴いた。
けれど、その声はいつもより弱々しかった。
◇
古書店を出た頃には、陽が沈みかけていた。
エリアスは夕暮れの通りを歩きながら、今日聞いた話を思い返していた。
七十年前に移設された石柱。
十年前にも応答しなかった第七標。
そして、意図的に消されたような古い記録。
ひとつひとつは別の出来事だ。
しかし、どれも同じ森に関わっている。
エリアスは足を止め、北の空を見た。
遠くの森は夕闇に包まれ、木々の輪郭が少しずつ曖昧になっている。
「……まだ、わからないことばかりですね」
小さく呟く。
腕の中のリュカが顔を上げた。
エリアスはその頭を優しく撫でた。
「ですが、一人で考える必要はありません」
カイルがいる。
レオンハルトがいる。
セドリックも協力してくれる。
そして、鈴蘭亭にはノアとミラがいる。
王都では、難しい問題に直面すると、自分が何とかしなければならないと考えることが多かった。
頼られているのだから、期待に応えたい。
そう思い続けてきた。
けれど、今は少し違う。
自分の知らないことを教えてくれる人がいて、自分にはできないことを引き受けてくれる人がいる。
それは、とても心強いことだった。
「……ありがたいですね」
エリアスは微笑んだ。
リュカが短く鳴いた。
その声を聞きながら、彼は再び歩き始めた。
鈴蘭亭へ戻ると、食堂には温かな明かりが灯っていた。
扉を開けると、ノアが顔を上げる。
「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「今日はずいぶん忙しかったですね」
「ええ。いろいろな方にお世話になりました」
「そうなんですか?」
「はい」
エリアスは笑った。
「おかげで、少しずつ前へ進めそうです」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「それならよかったです!」
厨房からは、ミラが鍋をかき混ぜる音が聞こえてくる。
エリアスは窓際の席へ腰を下ろした。
リュカはいつもの椅子に飛び乗り、丸くなった。
少し遅れて、ノアが夕食を運んできた。
温かなスープ。
香草を使った魚料理。
そして、焼きたてのパン。
エリアスは礼を述べ、食事を始めた。
今日も、いつもと変わらないおいしさだった。
森の謎は、まだ解けていない。
けれど、こうして帰ってこられる場所がある。
そのことが、今は何より大切に思えた。
◇
同じ頃。
辺境伯家の書庫では、セドリックが古い帳簿を読み返していた。
昼間、エリアスに見せた修繕記録。
その中には、まだ確認していない資料番号がいくつか残っていた。
「……アルノルト・ヴェルナー」
セドリックは、七十年前の魔導技師の名前を小さく読み上げた。
当時の報告書を探すため、書庫の管理台帳を確認する。
ページをめくっていくと、ひとつの記録に目が止まった。
『北部境界石移設に関する報告書。
保管先――辺境伯家旧書庫。
閲覧制限――当主承認を要する。』
セドリックは眉を寄せた。
「……閲覧制限?」
通常の修繕記録に、そこまで厳しい制限がかけられることはない。
何か理由があったのだろうか。
さらに下へ目を移す。
そこには、小さな文字で追記があった。
『本件、王立魔導院の指示により記録の一部を封印。』
セドリックは手を止めた。
王立魔導院。
エリアスが長年所属していた、王国最高峰の魔法研究機関。
そして、レオンハルトがかつて研究を打ち切られた場所。
「……なるほど」
セドリックは静かに帳簿を閉じた。
どうやら、森の古い結界には、辺境伯家だけでは説明できない事情があるらしい。
彼はしばらく考え込んだあと、机の上の呼び鈴へ手を伸ばした。
翌朝、父である辺境伯に面会を申し込むことに決めた。




