第18話 静かな森の奥で
夜明けから間もないフィオーレの街は、まだ静かだった。
通りを行き交うのは、荷車を引く商人や朝の仕込みを始める職人たちくらいで、中央広場の噴水も水音ばかりがよく響いている。
エリアスは鈴蘭亭の食堂で、いつもより少し早い朝食を取っていた。
今日は北の森へ向かう日だ。
昨夜のうちに必要なものは揃えてある。水筒に携帯食、簡単な治療道具。それから、辺境伯家で借りた古い地図の写し。
書き留めておきたいことも多そうなので、手帳と筆記具も忘れずに入れた。
「エリアスさん、お弁当できましたよ」
ノアが厨房から出てきた。
両手には布で包んだ小さな籠を抱えている。
「ありがとうございます。朝早くからすみません」
「いいんですよ。どうせ母さんも僕も、この時間には起きてますから」
ノアは籠を卓上へ置いた。
「中身はサンドイッチと焼き菓子です。三人分って聞いたので、少し多めに作っておきました」
「助かります。カイルたちも喜ぶと思います」
「それと、こっちはリュカの分です」
別の小さな包みを差し出す。
途端に、椅子の上で丸くなっていたリュカが顔を上げた。
「……本当に食べ物には敏感ですね」
エリアスが言うと、ノアは笑った。
「朝からずっと、厨房の前をうろうろしてましたよ」
「そうだったのですか」
「母さんなんて、もうすっかり甘やかしちゃって」
ノアは声を潜めた。
「昨日も、リュカのために鶏肉を取り分けてました」
「それは……あとでお礼を言わなければ」
「喜んでやってるんで、気にしなくていいと思いますけどね」
ノアは窓の外を見た。
「それより、今日は本当に気をつけてくださいね。昨日も北の街道で魔物が出たって聞きましたから」
「ええ。危険な場所には近づかないようにします」
「カイルさんが一緒なら、少し安心ですけど」
エリアスが頷いたところで、玄関の扉が開いた。
「おはよう! 準備できてるか?」
朝からよく通る声が食堂に響く。
「カイルさん、もう少し静かに入ってきてください!」
ノアの注意に、カイルは肩をすくめた。
「悪い悪い。つい、いつもの調子で」
その後ろから、黒い上着を着たレオンハルトが入ってきた。
「……朝から騒がしいな」
「おい、レオン。来る途中は何も言わなかったじゃないか」
「ここは宿だ。まだ寝ている客もいる」
「わかったって」
カイルが声を落とす。
エリアスは二人を迎えた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「ああ、任せとけ」
「地図は持ってきたか?」
レオンハルトの問いに、エリアスは鞄を軽く持ち上げた。
「もちろんです」
「ならいい」
短いやり取りを終えると、三人は朝食の残りを片づけ、出発することになった。
ノアが玄関まで見送りに出てくる。
「皆さん、気をつけて!」
カイルが振り返り、片手を上げた。
「夕飯までには帰るよ!」
「絶対ですよ!」
「わかってるって!」
エリアスも笑って手を振った。
その腕の中では、リュカが北の方角をじっと見つめていた。
◇
街の北門を抜けると、朝の空気が少し冷たく感じられた。
畑の間を通る道には昨夜の露が残り、草の葉が陽光を受けて輝いている。
先頭を歩くカイルは、時折立ち止まって周囲を確かめていた。
「今日は昨日より静かだな」
そう言って、森の方へ目を向ける。
「何か違うのですか?」
エリアスが尋ねると、カイルは少し考えた。
「いつもなら、もっと鳥の声がするんだよ」
「鳥ですか」
「ああ。春は特に賑やかなのに、今日はほとんど聞こえない」
エリアスは耳を澄ませた。
確かに、風が草を揺らす音ばかりが聞こえる。
遠くから虫の羽音はするものの、鳥の鳴き声は少なかった。
「……動物たちも、何かを感じ取っているのでしょうか」
「そうかもしれないな」
カイルは表情を引き締めた。
レオンハルトは二人の後ろで、持参した地図を確認している。
「この先で、古い道が分かれるはずだ」
「石柱のある方ですね」
「そうだ。ただ、地図の年代が古い。地形も変わっているだろう」
エリアスは頷いた。
「魔力の流れも確認しながら進みましょう」
リュカはエリアスの肩掛け鞄から顔を出し、森の方を見ていた。
普段なら周囲の草花や虫に興味を示すのに、今日は落ち着いている。
その様子が、かえって気になった。
しばらく進むと、道の先に見覚えのある畑が現れた。
ルドが管理している薬草畑だった。
「あれ、エリアスさんじゃないか!」
畑の端から声がする。
見ると、ルドが小さな鍬を片手に立っていた。
「おはようございます、ルドさん」
「おはよう。今日はまた森の方へ行くのかい?」
「ええ。少し調べたいことがありまして」
ルドは頷いた。
「そうか。ああ、そうだ。ちょっと見ていってくれないか」
案内されたのは、以前生育不良が起きていた北側の畑だった。
エリアスは薬草の状態を確認した。
黄色く変色していた葉の一部に、薄い緑色が戻っている。
新芽も、わずかながら伸び始めていた。
「……回復してきていますね」
「ああ。お前さんが来てくれた翌日から、少しずつ元気になってきたんだ」
ルドは嬉しそうに笑った。
「まだ全部じゃないが、これなら持ち直しそうだよ」
「よかったです」
エリアスは土に触れ、魔力の流れを確かめた。
応急処置の効果は続いている。
ただ、以前にはなかった、ごく細い乱れが北側から流れ込んでいた。
「……」
エリアスは手を止めた。
「どうした?」
カイルが尋ねる。
「いえ。魔力の流れが、少し変わっています」
「悪くなってるのか?」
「畑そのものは安定しています。ただ、森の奥から新しい流れが入り込んでいるようです」
レオンハルトもしゃがみ込み、土へ手を当てた。
しばらく目を閉じていたが、やがて顔を上げる。
「……確かに、妙だな」
「わかりますか?」
「ああ。私には詳しい構造までは読めないが、魔力の質が変わっているのは感じる」
エリアスは頷いた。
やはり、気のせいではないらしい。
ルドは心配そうに二人を見ていた。
「……また、悪くなるのかね」
「今のところ、その兆候はありません」
エリアスは答えた。
「ただ、原因を調べておいた方が安心できると思います」
「そうか……」
ルドは少し息を吐いた。
「頼んだよ。ここは私だけじゃなく、街の薬師たちも使ってる大事な畑なんだ」
「ええ。できる範囲で確認してきます」
三人はルドに別れを告げ、森へ向かった。
◇
最初の境界石は、以前エリアスが見つけた場所にあった。
苔に覆われた石柱は、林の中でひっそりと立っている。
周囲の草は湿っており、地面には落ち葉が厚く積もっていた。
「これか」
レオンハルトが石柱へ近づいた。
「思っていたより、保存状態がいいな」
「上部は少し欠けていますが、術式の大部分は残っています」
エリアスは鞄から手帳を取り出した。
石柱の表面に刻まれた文字を、ひとつずつ写し取っていく。
カイルはその間、周囲を警戒していた。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「これって、触っても大丈夫なのか?」
「表面に触れる程度なら問題ありません。ただ、魔力を流すのは避けた方がいいですね」
「了解」
カイルは石柱から一歩離れた。
レオンハルトは古い地図を広げ、石柱の位置を確認している。
「……少しずれているな」
「位置が、ですか?」
「ああ。地図では、もっと東側にあるはずだ」
エリアスも地図を覗いた。
確かに、現在の位置と古い記録にはわずかな差がある。
「三百年の間に、道が変わったのでしょうか」
「それも考えられるが……」
レオンハルトは石柱の根元へ目を向けた。
「土が新しい」
エリアスも確認した。
周囲の地面には、古い木の根が伸びている。
しかし、石柱の根元だけは、比較的新しい土が混じっていた。
「……誰かが動かしたのでしょうか」
「可能性はある」
レオンハルトは頷いた。
カイルが腕を組む。
「こんな重そうな石、わざわざ動かす奴がいるのか?」
「理由があれば、動かすでしょうね」
エリアスは石柱を見つめた。
移動させたことで術式が損傷したのか。
それとも、損傷したあとに移されたのか。
どちらにしても、気になる事実だった。
「……ほかの石柱も確認してみましょう」
レオンハルトが頷く。
「そうだな。比較すれば、何かわかるかもしれない」
三人は記録を終え、次の石柱を目指した。
◇
二つ目の境界石は、最初のものから歩いて三十分ほどの場所にあった。
古い道は途中からほとんど消えており、木々の間を縫うように進まなければならなかった。
カイルが先頭で枝を払い、足場を確かめる。
「足元、気をつけろよ。ここ、結構滑るぞ」
「ありがとうございます」
エリアスは慎重に歩いた。
途中、ぬかるみに足を取られかけたが、カイルがすぐに腕を掴んで支えてくれた。
「ほら、言ったそばから」
「すみません」
「謝ることじゃないって。森の道は慣れないと難しいんだよ」
カイルは笑った。
「魔法で飛んでいった方が早いんじゃないか?」
「可能ですが、今日は歩いて確認したいこともありますので」
「へえ。何か見てるのか?」
「地面の魔力です。場所によって、流れ方が少し違うんです」
カイルは足元を見た。
落ち葉と土しか見えない。
「……相変わらず、俺にはわからないな」
「今度、感知の練習を続けましょうか」
「おう。ぜひ頼む」
二人の会話を聞いていたレオンハルトが、後ろから口を開いた。
「……カイル、お前も魔法を習っているのか」
「そうなんだよ。こいつに教えてもらってさ」
「……そうか」
「この前なんて、指先に光が出たんだぜ!」
カイルは少し得意げに言った。
レオンハルトは一度だけ頷いた。
「それはよかったな」
「……反応薄くないか?」
「初歩的な魔法だろう」
「いや、俺にとっては大事件だったんだぞ!」
レオンハルトは肩をすくめた。
「なら、次は長く維持できるようにするといい」
「……お前も魔法を教える側かよ」
カイルがぼやく。
エリアスは小さく笑った。
三人で歩くのは今日が初めてだったが、思っていたよりも賑やかだった。
やがて、木々の間に二つ目の石柱が見えてきた。
こちらは最初のものより背が高く、表面の文字も比較的よく残っている。
「……これは」
エリアスは足を止めた。
石柱の周囲には、淡い青色の魔力が薄く漂っていた。
しかも、一定の間隔で明滅している。
「どうした?」
カイルが尋ねる。
「……こちらは、まだ術式が動いています」
エリアスは慎重に近づいた。
石柱の表面には、古い魔法文字が刻まれている。
その中の一部が、微かに光っていた。
レオンハルトも近づき、文字を確認する。
「……古代の循環術式か」
「ええ。ただ、少し変わった構造です」
エリアスは目を細めた。
通常の結界術式なら、外側からの侵入を防ぐために魔力を循環させる。
しかし、これは違った。
外側へ向かう流れと、内側へ戻る流れが、複雑に絡み合っている。
しかも、その一部には見覚えのある構造が含まれていた。
「……まさか」
エリアスは鞄の中から、銀色のランプを取り出した。
市場でもらった古い魔道具だ。
レオンハルトが眉を寄せる。
「それは?」
「以前、古道具屋でいただいたものです」
エリアスはランプの表面を示した。
「この模様を見てください」
レオンハルトは覗き込んだ。
ランプの側面に刻まれた細い線。
そして、石柱の表面に残る古い文字。
完全に同じではないが、確かに似た構造があった。
「……同じ系統の術式か」
「おそらく」
エリアスは頷いた。
「このランプは、単なる照明用の魔道具ではないようです」
そのときだった。
鞄の中にいたリュカが、突然身を起こした。
白い獣はエリアスの腕を伝って肩へ登り、石柱を見つめる。
「リュカ?」
名前を呼んでも、反応しない。
青い瞳が、石柱の中央へ向けられていた。
そして、小さな口から、細い鳴き声が漏れた。
その瞬間。
石柱の表面に刻まれた文字が、淡く光り始めた。
「……おい」
カイルが一歩下がった。
「何か、起きてないか?」
「ええ」
エリアスはランプを持ったまま、石柱を見つめた。
光は次第に強くなり、地面へ細い線を描き始める。
古い魔法陣が、ゆっくりと浮かび上がっていた。
「……これは」
エリアスは息を呑んだ。
術式の構造が、少しずつ明らかになっていく。
それは、かつて王立魔導院の資料で見たことのある、古代の結界術式に似ていた。
しかし、完全には一致しない。
むしろ、もっと古い。
現代の魔法体系が確立する以前のものだった。
「……離れろ!」
レオンハルトが鋭く声を上げた。
カイルはすぐにエリアスの腕を掴み、石柱から引き離した。
次の瞬間、地面に浮かび上がった魔法陣が大きく明滅した。
そして、森の奥から低い音が響いた。
遠くの地面が震えたような、重い音だった。
三人は動きを止めた。
周囲の木々が、わずかに揺れる。
リュカはエリアスの肩の上で、じっと森の奥を見つめていた。
「……何だ、今の」
カイルが呟く。
エリアスは静かに答えた。
「……おそらく、古い結界が反応したのだと思います」
「結界が?」
「ええ。ただ、なぜ今反応したのかは……」
エリアスは言葉を止めた。
手の中の銀色のランプが、微かに温かくなっている。
そして、内部に隠されていた術式の一部が、淡い光を放っていた。
まるで、遠くの何かから呼びかけられているようだった。
エリアスはランプを見つめ、静かに息を吐いた。
「……どうやら、思っていたよりも複雑な仕組みのようですね」
レオンハルトは石柱から目を離さずに言った。
「今日は、ここまでにしておこう」
「……そうですね」
エリアスは頷いた。
カイルも同意する。
「賛成だ。今の音、どう考えても普通じゃない」
三人は石柱から離れ、来た道を引き返すことにした。
けれど、その直前。
リュカが、もう一度だけ小さく鳴いた。
その声に応じるように、石柱の文字が一瞬だけ光る。
エリアスは振り返った。
青白い光が消えたあとも、石柱の周囲には微かな魔力が残っていた。
そして、森の奥へ続く細い流れが、先ほどよりもはっきりと感じられた。
「……リュカ」
エリアスは白い獣へ目を向けた。
リュカは何も答えなかった。
ただ、遠くの森を見つめている。
その瞳には、いつもの無邪気さとは違う、静かな光が宿っていた。
◇
森を抜けた頃には、昼を少し過ぎていた。
三人は街道脇の木陰で休憩することにした。
ノアが用意してくれた昼食を広げると、カイルが大きく息を吐いた。
「……いやあ、思ったより大変だったな」
「お疲れさまでした」
エリアスはサンドイッチを差し出した。
「ほら、カイル。こちらをどうぞ」
「お、ありがとう」
カイルは受け取り、勢いよくかじった。
「……うまい!」
その声に、エリアスは笑った。
「ノアが朝から作ってくれたんです」
「帰ったら礼を言わないとな」
レオンハルトも黙ってパンを受け取った。
しばらく食事をしていたが、やがて口を開いた。
「……エリアス」
「はい?」
「あのランプ、少し調べさせてもらえないか」
「もちろんです」
エリアスは鞄からランプを取り出した。
今はすっかり元の状態へ戻っている。
レオンハルトは表面の模様を観察し、指先で軽くなぞった。
「……やはり、同じだな」
「何がですか?」
「私が昔、魔導院で調べていた術式だ」
エリアスは顔を上げた。
「……そうなのですか?」
「ああ。古い結界に関する研究だった」
レオンハルトはランプを見つめたまま続けた。
「ただ、当時は資料が少なくてな。結局、途中で調査を打ち切ることになった」
「……なるほど」
「そのときに見た術式と、よく似ている」
エリアスは静かに頷いた。
レオンハルトが以前、古代術式の研究をしていたという話は聞いていた。
しかし、それが今回の結界と関係しているとは思わなかった。
「……詳しく聞かせていただけますか?」
「もちろんだ。ただ、ここでは資料がない」
レオンハルトはランプを返した。
「店へ戻ったら、昔の研究記録を探してみよう」
「ありがとうございます」
エリアスは大切にランプを鞄へしまった。
カイルは二人の会話を聞きながら、残りのサンドイッチを食べている。
「……なあ」
「はい?」
「俺、魔法のことはまだよくわからないけどさ」
カイルは少し真面目な顔になった。
「今日のあれ、放っておいたらまずいんじゃないか?」
エリアスは考えた。
七つの石柱。
魔力の乱れ。
そして、森の奥から響いた音。
今の段階では、何が起きるのかはわからない。
けれど、少なくとも通常の状態ではないのだろう。
「……そうですね」
エリアスは頷いた。
「できるだけ早く、状況を把握した方がよさそうです」
「だよな」
カイルは立ち上がった。
「だったら、俺にもできることを言ってくれ。森のことなら、多少は役に立てる」
「ありがとうございます」
エリアスは微笑んだ。
レオンハルトも静かに頷いた。
三人はしばらく、午後の風を感じながら休んでいた。
街の方から、遠く鐘楼の音が聞こえてくる。
いつもと変わらない、フィオーレの昼下がり。
けれど、北の森では確かに何かが動き始めていた。
その正体は、まだわからない。
エリアスは鞄の中の銀色のランプへ手を添えた。
今は静かなその魔道具が、森の奥にある何かとつながっている。
それだけは、ほぼ間違いなかった。
彼は隣で眠り始めたリュカを見つめ、小さく呟いた。
「……もう少し、調べてみましょうか」
白い獣の耳が、ぴくりと動いた。
その青い瞳は閉じたままだったが、長い尾が一度だけ揺れた。
春の風が、三人の間を静かに吹き抜けていった。




