第17話 小さな異変
翌朝、エリアスは窓辺の鉢植えに水をやりながら、葉の先に小さな変化が起きていることに気づいた。
ルドから譲り受けた薬草の苗である。
植え替えてから数日が経ち、新しい葉が一枚増えていた。昨日までは固く閉じていた若葉が、今朝になってようやく開いたらしい。
「順調ですね」
エリアスは水差しを置き、葉の裏側まで観察した。
魔力の流れにも異常はない。根が新しい土に馴染み始めたのだろう。
教わったとおり、余計な魔法は使わずに育てている。
最初は手間がかかるように思えたが、毎朝少しずつ様子が変わるのを見るのは、思いのほか楽しかった。
そのとき、窓辺で日向ぼっこをしていたリュカが、突然顔を上げた。
「どうしました?」
リュカは答えず、北側の窓を見つめている。
耳をぴんと立て、長い尾を床へ下ろしたまま、動かない。
エリアスも外へ目を向けた。
晴れた朝だった。
通りには買い物へ向かう人々が歩き、向かいの屋根では小鳥が羽を休めている。
特に変わった様子は見当たらない。
ただ、遠くに広がる北の森の方角から、ごく弱い魔力の揺らぎが伝わってきた。
「……昨日より、少し強いですね」
エリアスは窓枠に手を置いた。
意識を広げれば、街の外を流れる魔力の一部を感じ取ることができる。
しかし、距離があるため、詳しい状態まではわからなかった。
森の奥で何かが起きているのかもしれない。
エリアスはしばらく外を眺めたあと、窓を閉めた。
「明日、カイルと確認に行きますから」
リュカへそう告げる。
ところが、白い獣は落ち着かなかった。
窓辺から飛び降り、部屋の中を歩き回る。
やがて、机の上に置かれていた銀色のランプの前で足を止めた。
「……そちらも気になりますか?」
リュカは前脚を伸ばし、ランプに触れた。
淡い青色の光が、一瞬だけ表面を走る。
エリアスはその反応を見逃さなかった。
以前にも、同じことがあった。
だが、今日は少し違う。
ランプの内部から、微かな振動が伝わってくる。
まるで、遠くにある何かと呼び合っているようだった。
「……これは、偶然ではなさそうですね」
エリアスはランプを手に取り、内部の術式を調べた。
古い魔法文字で構成された照明用の魔道具。
そう思っていたが、どうやら別の機能も組み込まれているらしい。
通常の照明術式とは異なる、細い魔力回路が隠されていた。
ただし、その部分は長い年月の間に摩耗しており、全体の構造が読み取れない。
修復することは可能だろう。
しかし、何のために作られたものかわからないまま魔力を流すのは、避けた方がよさそうだった。
エリアスはランプを元の場所へ戻した。
「……もう少し調べてからにしましょう」
リュカはじっと彼を見上げた。
その青い瞳には、どこか不満そうな色が浮かんでいる。
「急いだ方がいいのですか?」
問いかけると、リュカは小さく鳴いた。
エリアスは少し考えた。
あの森で何が起きているのか。
リュカが何を伝えようとしているのか。
まだわからないことが多い。
それでも、ただの偶然として片づけるには、少し気になる出来事だった。
◇
朝食の時間になると、鈴蘭亭の食堂はいつもどおり賑やかだった。
旅人たちが食事を取り、ミラが厨房から料理を運んでいる。
ノアは空いた食器を片づけながら、常連客と楽しそうに話していた。
エリアスが席に着くと、ノアが近づいてきた。
「おはようございます!」
「おはようございます、ノア」
「今日は卵料理と焼きたてのパンですよ」
「ありがとうございます」
エリアスは料理を受け取り、リュカのために用意された小皿を足元へ置いた。
ところが、いつもなら真っ先に食べ始めるリュカが、今日はなかなか口をつけない。
「……珍しいですね」
エリアスが呟くと、ノアも気づいた。
「あれ? リュカ、食べないんですか?」
「どうも、今朝から落ち着かないようで」
「具合が悪いんでしょうか」
「怪我は治っていますし、魔力にも大きな異常はありません。ただ、何か気になることがあるようです」
ノアはしゃがみ込み、リュカの顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ? いつものご飯だぞ」
リュカは小皿へ鼻を近づけたものの、すぐに顔を背けた。
「……本当に珍しいですね」
ノアが困ったように言った。
エリアスはリュカを抱き上げ、膝の上へ載せた。
「無理に食べさせる必要はありません。少し様子を見ましょう」
そう言って背を撫でると、リュカはおとなしく体を丸めた。
そのとき、隣の席から低い声が聞こえた。
「……そういや、北の森で変なことがあったらしいぞ」
話していたのは、商人風の男性二人だった。
「変なこと?」
「ああ。昨日、荷を運んでた連中が、森の近くで魔物の群れを見たんだと」
「魔物の群れなんて、珍しくもないだろ」
「それが、普段は人を避ける種類だったらしいんだ。しかも、森から逃げるみたいに走ってたってさ」
エリアスは手を止めた。
男性たちは、そのまま話を続けている。
「何か大きな魔物でも出たのかねえ」
「さあな。ギルドにも報告が入ってるらしいけど」
「最近、北の方は妙な話が多いな」
エリアスは静かに耳を傾けた。
森から逃げる魔物。
魔力の乱れ。
そして、今朝のリュカの様子。
それぞれが無関係とは思えなかった。
食事を終えると、エリアスは立ち上がった。
「ノア、少し出かけてきます」
「あ、はい。どちらへ?」
「冒険者ギルドです。少し確認したいことがありまして」
「わかりました。気をつけて行ってきてくださいね」
「ありがとうございます」
エリアスはリュカを抱き直し、食堂をあとにした。
◇
冒険者ギルドへ着くと、入口の掲示板の前に人だかりができていた。
数人の冒険者が、新しく貼られた紙を見ながら話している。
「北の街道、通行注意だってよ」
「また魔物か?」
「いや、詳しいことはわからないらしい」
「護衛依頼が増えそうだな」
エリアスは人々の後ろから掲示板を覗いた。
そこには、北の森周辺で確認された異変について、簡単な注意書きが貼られていた。
『北部街道および周辺林道において、小型魔物の集団移動を確認。
現時点で人的被害は報告されていないが、単独での立ち入りを控えること。
付近を通行する場合は、周囲の状況に十分注意すること。』
エリアスは文章を読み終え、受付へ向かった。
「こんにちは」
「あら、レインフォードさん」
エマが顔を上げた。
「今日はお一人ですか?」
「はい。カイルは護衛の仕事だと聞いています」
「そうですね。今朝早くに出発されました」
エマは頷いた。
「何かご用でしょうか?」
「北の森について、少しお聞きしたいことがあります」
エマの表情が真面目になった。
「……掲示板をご覧になったのですね」
「はい。魔物の集団移動が確認されたとか」
「ええ。昨日の夕方から、いくつか報告が入っています」
「どの辺りで見られたのでしょうか?」
エマは机の下から地図を取り出した。
「こちらです」
指差されたのは、北部街道から少し外れた林道だった。
エリアスはその位置を見て、眉を寄せた。
辺境伯家で見せてもらった古い地図。
そこに記されていた境界石の位置と、ほぼ重なっている。
「……なるほど」
「何か心当たりが?」
「少しだけ」
エリアスは地図を見つめた。
「この辺りで、ほかに変わったことはありませんでしたか?」
エマは考え込んだ。
「そうですね……。そういえば、森の近くに住んでいる方から、夜中に低い音が聞こえたという話もありました」
「音、ですか?」
「はい。地面の下から響いてくるような音だったそうです」
エリアスは静かに頷いた。
魔力を集める石柱。
古い結界。
その一部が何らかの理由で不安定になっているとすれば、音が発生しても不思議ではない。
「……ありがとうございます。参考になりました」
「いえ。ただ、レインフォードさん」
「はい?」
「北の森へ行かれるつもりでしたら、今は控えていただいた方がいいと思います」
エマは真剣な表情で続けた。
「原因がわかっていませんし、魔物の動きも普段とは違いますから」
「ええ。承知しています」
エリアスは頷いた。
「明日、カイルと状況を確認する約束をしていますが、危険なようなら無理はしないつもりです」
「それなら安心です」
エマは少し表情を和らげた。
「何かわかったことがあれば、ギルドにも教えてくださいね」
「もちろんです」
エリアスは礼を述べ、受付をあとにした。
◇
ギルドを出たあと、エリアスは少し考え、北通りへ向かった。
行き先はクロイス古書店だ。
古い結界について、レオンハルトにも確認しておきたいことがあった。
店の扉を開けると、いつもの鈴が鳴った。
「こんにちは」
「……エリアスか」
書棚の奥から、レオンハルトが顔を出した。
「今日はどうした」
「少しお聞きしたいことがありまして」
「……また古い本か?」
「今回は、森についてです」
その言葉に、レオンハルトの表情が変わった。
「……奥へ来い」
短く告げると、彼は書斎へ向かった。
エリアスも後に続く。
机の上には、前回訪れたときにも見かけた古い地図が広げられていた。
「ちょうど、こちらも調べていたところだ」
レオンハルトは椅子を勧めた。
「何かわかったのですか?」
「少しな」
そう言って、一冊の記録集を取り出す。
「昔、北の森には大規模な結界があったらしい」
「ええ。辺境伯家でも、その記録を見せていただきました」
レオンハルトの手が止まった。
「……辺境伯家?」
「はい。セドリック様に招かれまして」
「……そうか」
レオンハルトは少し考え込んだ。
「なら、境界石のことも知っているな?」
「ええ。全部で七つあるようですね」
「そのとおりだ」
レオンハルトは地図を指差した。
「問題は、その石柱が何を守っていたのかだ」
エリアスは顔を上げた。
「……森そのものではないのですか?」
「そう考えられていた。だが、古い記録を調べると、少し違う」
レオンハルトはページをめくった。
そこには、見慣れない古代魔法文字が並んでいた。
「この部分だ」
エリアスは文字を読み取った。
『七つの標をもって、境界を保つ。
内なる力を鎮め、外なる命を守る。』
短い文章だった。
しかし、エリアスはその意味を考え込んだ。
「……内なる力を鎮める」
「ああ」
レオンハルトは頷いた。
「つまり、外から何かを防ぐための結界ではなく、内側にある力を抑えるためのものだった可能性がある」
「なるほど……」
エリアスは地図を見つめた。
七つの石柱は、森の奥にある祭殿を囲むように配置されている。
もし、その中央に何かを封じていたとすれば。
石柱の不調によって、森の魔力が乱れることも説明できる。
「……その可能性はありますね」
「だろう?」
レオンハルトは静かに頷いた。
「だが、問題はまだある」
「何でしょう?」
「記録に、封じたものの名前が一切残っていない」
エリアスは眉を寄せた。
「……記録が失われたのでしょうか」
「それも考えられる。ただ、意図的に消された可能性もある」
レオンハルトは別のページを開いた。
そこには、文字の一部が削り取られた跡があった。
「……これは」
「見てのとおりだ」
エリアスは慎重に紙面を調べた。
確かに、自然な劣化ではない。
何者かが意図的に文字を消した痕跡が残っている。
「……なぜでしょう」
「わからん」
レオンハルトは短く答えた。
「ただ、理由があったのは確かだろうな」
二人はしばらく黙っていた。
書斎の窓から、午後の日差しが差し込んでいる。
外では、通りを歩く人々の声が聞こえていた。
平穏な街の空気と、古い記録に残された不穏な言葉。
その対比が、どこか奇妙だった。
◇
「……レオンハルトさん」
しばらくして、エリアスが口を開いた。
「ひとつ、気になることがあります」
「何だ?」
「この記録にある『内なる力』という言葉です」
エリアスは古い文字を指差した。
「通常、封印術式の記録では、対象を明確に示すことが多いんです」
「……ああ」
「ですが、ここでは曖昧な表現が使われています」
レオンハルトは頷いた。
「つまり?」
「もしかすると、封じられていたのは特定の魔物や存在ではなく、魔力そのものだったのかもしれません」
レオンハルトの目が細くなった。
「……魔力そのもの?」
「ええ。例えば、土地の地下に集まる膨大な魔力を制御するための結界だったとしたら」
エリアスは地図へ視線を落とした。
「石柱の損傷によって、周囲の魔力が不安定になる理由も説明できます」
「……なるほど」
レオンハルトはしばらく考えた。
「確かに、その可能性はあるな」
「ただ、まだ断定はできません」
「そうだな」
レオンハルトは記録集を閉じた。
「……お前は、どうするつもりだ?」
「明日、カイルと森の外側を調べる予定です」
「二人で?」
「はい」
レオンハルトは少し考えた。
「……私も同行しよう」
エリアスは驚いた。
「よろしいのですか?」
「ああ。古い術式なら、私にも調べられることがある」
「それは心強いですね」
「ただし、無理な調査はしない。危険を感じたら引き返す」
「もちろんです」
レオンハルトは頷いた。
「なら、明日の朝、鈴蘭亭へ行く」
「ありがとうございます」
エリアスは嬉しそうに微笑んだ。
その膝の上で、リュカが静かに顔を上げた。
青い瞳が、机の上の古い地図を見つめている。
レオンハルトも、その視線に気づいた。
「……その子も連れていくのか?」
「どうでしょう」
エリアスはリュカを見た。
「危険があるかもしれませんから、宿で待っていてもらった方がよいとは思うのですが」
すると、リュカはすぐに身を起こした。
エリアスの腕へ前脚をかけ、短く鳴く。
「……一緒に行きたいのですか?」
もう一度、鳴いた。
レオンハルトはその様子を見つめた。
「……森に関係のある存在なら、何か感じ取っているのかもしれないな」
「そうですね」
エリアスはリュカの頭を撫でた。
「ですが、無理はしないでくださいね」
白い獣は満足したように目を閉じた。
◇
鈴蘭亭へ戻る頃には、夕方が近づいていた。
食堂には夕食を待つ客が集まり始め、厨房からは煮込み料理の香りが漂ってくる。
エリアスが扉を開けると、ノアがすぐに気づいた。
「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「今日はずいぶん遅かったですね」
「ギルドと古書店へ寄っていましたので」
「そうだったんですね」
ノアは頷いた。
「そういえば、エリアスさん」
「はい?」
「さっき、カイルさんが来てましたよ」
「カイルが?」
「はい。明日のことを確認したかったみたいです」
「そうでしたか」
「朝、迎えに来るって言ってました」
「ありがとうございます」
エリアスは頷いた。
明日は、カイルとレオンハルトの三人で森へ向かうことになる。
リュカも同行するつもりらしい。
少し賑やかな調査になりそうだった。
「……エリアスさん?」
ノアが顔を覗き込む。
「どうしました?」
「いえ、少し考え事をしていました」
「明日、何かあるんですか?」
「ええ。北の森へ行く予定です」
ノアの表情が変わった。
「……北の森?」
「はい。古い石柱について、少し調べたいことがありまして」
「……そうなんですね」
ノアは少し黙った。
それから、心配そうに言った。
「最近、あの辺りは変な噂が多いですから、気をつけてくださいね」
「もちろんです」
エリアスは穏やかに答えた。
「カイルも一緒ですし、レオンハルトさんも同行してくださるそうです」
「……レオンさんも?」
「はい」
ノアは少し驚いた。
「あの人、あんまり店から出ないのに」
「そうなのですか?」
「はい。僕が知ってる限り、街の外へ出かけることなんてほとんどないですよ」
エリアスは少し考えた。
確かに、レオンハルトは古書店で静かに過ごすことを好んでいるようだった。
そんな彼が同行を申し出たのだから、よほど気になることがあるのかもしれない。
「……そうでしたか」
エリアスは頷いた。
そのとき、厨房からミラの声が響いた。
「ノア! そろそろ料理を運んでおくれ!」
「あっ、はーい!」
ノアは慌てて振り返った。
「エリアスさん、夕食はいつもの時間でいいですか?」
「ええ。お願いします」
「わかりました!」
ノアは厨房へ駆けていった。
エリアスは食堂の窓際へ腰を下ろした。
膝の上では、リュカが静かに丸くなっている。
窓の外には、夕暮れの街並みが広がっていた。
いつもと変わらない、穏やかな景色。
けれど、北の森では確かに何かが起きている。
その変化は、まだ小さなものかもしれない。
薬草の生育不良。
魔物の移動。
地面の下から響く音。
そして、古い魔道具の反応。
それぞれは些細な出来事でも、ひとつにつながれば、大きな意味を持つ可能性がある。
エリアスはリュカの背を撫でた。
「……明日、少しだけ確かめに行きましょう」
白い獣は目を閉じたまま、小さく尾を動かした。
食堂には、温かな料理の香りが広がっている。
外では、鐘楼が夕方の時を告げていた。
エリアスはその音を聞きながら、静かに窓の外を眺めていた。




