第15話 辺境伯家からの招待状
朝食の席に着いたエリアスは、いつもと違う紅茶の香りに気づいた。
「茶葉を変えましたか?」
給仕をしていたノアが振り向く。
「あ、わかります?」
「ええ。いつものものより、少し香ばしいですね」
「昨日、母さんが買ってきたんです。北の方から来た商人が売ってたらしくて」
「そうでしたか。おいしいですね」
「よかった。母さんにも伝えておきます」
ノアは空いた皿を盆へ載せ、厨房へ戻っていった。
窓から差し込む朝日が、食卓を明るく照らしている。
雨は昨夜のうちに上がり、今日は朝からよく晴れていた。
エリアスはカップを持ち上げ、もうひと口紅茶を飲んだ。
向かいの椅子には、小さな白い獣が丸くなっている。
リュカだ。
本来、食堂で動物を椅子に座らせるのは褒められたことではない。
しかし、ミラが専用の布を敷いた椅子を用意してくれたため、今ではすっかり定位置になっていた。
もっとも、料理の皿へ近づかないことが条件である。
「リュカ」
名前を呼ぶと、白い耳が動いた。
「今日は市場へ行ってみようと思うのですが、一緒に行きますか?」
リュカは顔を上げた。
そして、短く鳴いた。
「そうですか。では、朝食が終わったら準備しましょう」
その返答を聞いたかのように、リュカは椅子から飛び降り、エリアスの足元へやってきた。
「……まだ食べ終わっていませんよ」
エリアスは苦笑した。
リュカは気にした様子もなく、彼の靴に前脚を載せている。
どうやら、早く出かけたいらしい。
そんなやり取りをしていたときだった。
「エリアスさん!」
厨房から戻ってきたノアが、少し慌てた様子で声をかけてきた。
「お手紙が届いてますよ」
「手紙、ですか?」
「はい。さっき、立派な馬車が来て」
ノアは一通の封筒を差し出した。
厚手の白い紙で作られた封筒には、濃い緑色の封蝋が押されている。
そこに刻まれていたのは、月桂樹と剣を組み合わせた紋章だった。
エリアスはその紋章を見て、少し驚いた。
「……エルフォード家ですね」
「知ってるんですか?」
「ええ。リュネリア地方を治める辺境伯家です」
「そうなんです!」
ノアは声を潜めた。
「そのお家から、エリアスさん宛てに手紙が来たんですよ!」
「そうでしたか」
エリアスは封筒を受け取った。
王宮にいた頃なら、貴族からの手紙は珍しくなかった。
しかし、フィオーレへ来てからは初めてだ。
それも、辺境伯家から直接届くとは思っていなかった。
「……何かご用でしょうか」
封を切り、中の便箋を取り出す。
整った文字が並んでいた。
『エリアス・レインフォード卿
突然のお便りをお許しください。
私はリュネリア辺境伯家の次男、セドリック・エルフォードと申します。
このたび、卿がフィオーレに滞在されていると知り、ぜひ一度ご挨拶の機会をいただきたく、ご連絡差し上げました。
ご休暇中のところ恐縮ではございますが、ご都合がよろしければ、明日の午後、当家でお茶をご一緒できれば幸いです。
もちろん、ご予定を優先していただいて構いません。
ご返答をお待ちしております。
セドリック・エルフォード』
読み終えたエリアスは、便箋を丁寧に折り畳んだ。
「……なるほど」
ノアが落ち着かない様子で尋ねる。
「何て書いてあったんですか?」
「お茶へのお誘いでした」
「お茶?」
「はい。明日の午後に、辺境伯家へ伺えないかと」
ノアは目を丸くした。
「……えっ?」
「どうかしましたか?」
「いやいや、どうかしたも何も!」
思わず声が大きくなる。
「辺境伯家ですよ!? この地方で一番偉い貴族のお家じゃないですか!」
「そうですね」
「そんなところからお茶に誘われるなんて……!」
エリアスは少し考えた。
確かに、突然の招待ではある。
しかし、辺境伯家は王国でも古い歴史を持つ名門だ。
王宮での式典などで、何度か顔を合わせたこともある。
それほど不思議なことではないように思えた。
「ご挨拶をしたいとのことですから、お受けしようと思います」
「……普通に行くんですか?」
「はい。ほかに予定もありませんので」
ノアはしばらく口を開けたまま、エリアスを見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……エリアスさんって、やっぱりすごい人なんですね」
「そうでしょうか?」
「そうですよ!」
ノアは力強く頷いた。
エリアスは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
招待状への返事を書き終えた頃、鈴蘭亭にカイルが顔を出した。
「おーい、ノア! 昼飯まだいけるか?」
「まだ朝ですよ!」
「朝から動いてたら腹が減るんだよ」
「じゃあ、朝ご飯にしてください!」
「細かいなあ」
いつものやり取りを聞きながら、エリアスは手紙を封筒へしまった。
カイルは彼の姿を見つけると、片手を上げた。
「よう、エリアス」
「おはようございます、カイル」
「今日は何してるんだ?」
「手紙の返事を書いていました」
「手紙?」
「ええ。明日、お茶に招かれまして」
「へえ。誰に?」
「セドリック・エルフォード様です」
カイルの動きが止まった。
「……誰?」
「セドリック・エルフォード様です」
「いや、聞こえたけど!」
カイルは声を上げた。
「辺境伯家のセドリック様か!?」
「はい」
「……お前、知り合いだったのか?」
「いえ。直接お話ししたことは、ほとんどありませんね」
「ほとんどって……」
カイルは額を押さえた。
エリアスが王都で魔法関係の仕事をしていたことは知っている。
研究職だったという話も聞いた。
しかし、辺境伯家から直接招待状が届くような人物だとは思っていなかった。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「お前、王都では本当にただの研究職だったのか?」
「ただの、というのは少し難しいですね」
エリアスは真面目に考えた。
「研究以外にも、結界の管理や魔道具の調整などを担当していましたから」
「そういう意味じゃなくてさ!」
カイルは椅子に座り込んだ。
「……まあ、いいや」
「よろしいのですか?」
「よくわからんけど、お前が普通にしてるなら大丈夫なんだろ」
エリアスは小さく笑った。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃないけどな」
カイルは肩をすくめた。
そのとき、ノアがパンの入った皿を運んできた。
「はい、朝ご飯です!」
「お、助かる!」
カイルは嬉しそうに皿を受け取った。
エリアスは二人の様子を眺めながら、穏やかな気持ちになっていた。
辺境伯家からの招待は、確かに予想外だった。
けれど、今はこうして気軽に話せる人たちがいる。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
翌日の午後。
エリアスは、フィオーレの北側にある辺境伯家の屋敷を訪れていた。
街の中心部から少し離れた高台に建つ屋敷は、白い石造りの三階建てだった。
広い庭園には季節の花々が咲き、手入れされた木々が美しい影を落としている。
門の前に立つと、衛兵が丁寧に頭を下げた。
「レインフォード卿でいらっしゃいますね」
「はい」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
案内された庭園を歩きながら、エリアスは周囲の景色を眺めた。
花壇には淡い紫色の花が咲き、噴水の水音が心地よく響いている。
王城の庭園ほど広大ではないが、落ち着いた美しさがあった。
「……素敵なお庭ですね」
思わず呟くと、案内役の使用人が微笑んだ。
「ありがとうございます。若様も、この庭を大変気に入っておいでです」
「そうなのですね」
「本日は庭園の東屋でお茶をご用意しております」
「それは楽しみです」
エリアスは穏やかに頷いた。
やがて、花々に囲まれた小さな東屋が見えてきた。
その中には、すでに一人の青年が座っていた。
銀色を帯びた淡い金髪。
深い緑色の瞳。
上品な仕立ての濃緑の上着を身につけ、手元には一冊の本を開いている。
青年はエリアスに気づくと、静かに立ち上がった。
「ようこそ、レインフォード卿」
柔らかな声だった。
「お会いできて光栄です」
エリアスは丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。セドリック様」
青年は微笑んだ。
「どうぞ、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。せっかくの休暇なのですから」
その言葉に、エリアスは少し驚いた。
「……ご存じでしたか」
「ええ。王都の知人から聞きまして」
セドリックは椅子を勧めた。
「王国最高峰の宮廷魔導師が、辺境で普通の暮らしを楽しんでいるそうですね」
「……そうですね」
エリアスは少し考えた。
「まだ始まったばかりですが、とても楽しく過ごしています」
「それは何よりです」
セドリックは嬉しそうに笑った。
その表情には、どこか面白がっているような色もあった。
「実は、以前から一度ゆっくりお話ししてみたいと思っていたのです」
「私と、ですか?」
「ええ」
セドリックは紅茶のカップを手に取った。
「王都では、あなたの噂を何度も耳にしましたから」
「……噂?」
「はい。王城の結界を一人で修復したとか、古代術式を数日で解明したとか」
エリアスは少し首を傾げた。
「それは……多少、話が大きくなっているような気がしますね」
「そうでしょうか?」
「ええ。結界の修復には、ほかの魔導師たちも関わっていますし」
「なるほど」
セドリックは穏やかに頷いた。
「では、古代術式を数日で解明したという話は?」
「それも、偶然です。以前から似た術式を調べていましたので」
セドリックはカップを置いた。
そして、少し楽しそうに笑った。
「……なるほど。噂どおりの方ですね」
エリアスは瞬きをした。
「……そうでしょうか?」
「ええ。非常に興味深い方です」
その言葉に、エリアスは少し困ったように微笑んだ。
◇
茶会は、思っていたよりもずっと穏やかなものだった。
セドリックは王都の貴族たちのように、政治や地位の話ばかりをする人物ではなかった。
むしろ、フィオーレの街や周辺の自然について、楽しそうに語ってくれた。
「この地方は、季節ごとに景色が大きく変わるのです」
「そうなのですね」
「春は花が咲き、夏は湖が美しく、秋には森が赤く染まります。冬は雪が少ないものの、山の頂には白い雪が残ることもあります」
「それは、ぜひ見てみたいですね」
「長く滞在されるのでしたら、すべて楽しめるでしょう」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
セドリックはそんな彼を見て、少し目を細めた。
「……本当に、休暇を楽しんでいらっしゃるのですね」
「はい。毎日、新しい発見がありますから」
「新しい発見?」
「ええ。市場で珍しい果物を買ったり、薬草の育て方を教わったり」
エリアスは少し考え、続けた。
「それから、宿の料理がとてもおいしいんです」
セドリックは一瞬黙った。
そして、声を立てて笑った。
「……なるほど!」
「何かおかしかったでしょうか?」
「いえ、失礼。少し意外だったものですから」
セドリックは笑いを収め、紅茶を飲んだ。
「王都で語られる『静謐の魔導師』は、もっと近寄りがたい人物だと思っていました」
「そうなのですか?」
「ええ。何事にも動じず、魔法の研究以外には興味を示さない天才だと」
エリアスは少し考えた。
「……確かに、研究は好きですが」
「ですが?」
「おいしい料理も、好きですよ」
セドリックはまた笑った。
「それは素晴らしい」
その声には、心からの楽しさが滲んでいた。
エリアスも微笑んだ。
どうやら、この青年とは気が合いそうだった。
◇
茶会が終わりに近づいた頃、セドリックはふと真面目な表情になった。
「レインフォード卿」
「はい?」
「ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「この街へ来てから、北の森へ行かれましたか?」
エリアスは少し驚いた。
「ええ。冒険者の友人に案内していただきました」
「そうでしたか」
セドリックは静かに頷いた。
「実は、最近あの森の周辺で、少し気になる報告が増えているのです」
「気になる報告?」
「ええ。薬草の生育が悪くなったり、魔物の行動が変わったり」
エリアスは思い当たることがあった。
ルドの薬草畑。
古い石柱。
そして、森で見つけたリュカ。
「……そうですね。少し魔力の流れが不安定な場所がありました」
セドリックの目が細くなる。
「……お気づきでしたか」
「ええ。先日、薬草畑の近くで古い術式を見つけました」
「古い術式?」
「はい。石柱に刻まれていたものです」
エリアスは簡単に説明した。
魔力を集めるための術式。
損傷によって周囲の魔力が偏っていたこと。
そして、応急的に流れを整えたこと。
セドリックは真剣に聞いていた。
「……なるほど」
しばらく考えたあと、静かに口を開く。
「実は、その石柱について、古い記録が残っているのです」
「そうなのですか?」
「ええ。辺境伯家の書庫に、数百年前の地図がありまして」
セドリックは椅子の背にもたれた。
「そこには、現在の地図にはない道や、建造物が記されています」
エリアスは興味深そうに身を乗り出した。
「ぜひ、拝見してみたいですね」
「そうおっしゃると思いました」
セドリックは微笑んだ。
「ただ、今日は休暇中の方をお招きした茶会です。難しい話ばかりでは、申し訳ありませんから」
「いえ、私は楽しいですよ」
エリアスは素直に答えた。
「知らないことを知るのは、好きですので」
その言葉に、セドリックは少し驚いた。
それから、静かに笑った。
「……なるほど。あなたらしいですね」
「そうでしょうか?」
「ええ」
セドリックは立ち上がった。
「では、次にいらしたときに、書庫をご案内しましょう」
「ありがとうございます」
エリアスは丁寧に頭を下げた。
その表情には、隠しきれない期待が浮かんでいた。
◇
辺境伯家の屋敷を出た頃には、午後の陽が少し傾き始めていた。
エリアスは門の前で立ち止まり、庭園を振り返った。
美しく整えられた花壇。
静かに流れる噴水。
そして、穏やかな笑顔で話してくれたセドリック。
思っていた以上に、楽しい時間だった。
「……いい方でしたね」
小さく呟く。
王都では、貴族との交流は仕事の一部であることが多かった。
式典や会議、研究への支援を求める場。
そうした場所では、どうしても立場や役職が先に立つ。
けれど、今日の茶会は違った。
ただ紅茶を飲み、好きな話をする。
それだけの時間だった。
エリアスは微笑んだ。
フィオーレに来てから、少しずつ知り合いが増えている。
ノア。
カイル。
レオンハルト。
そして、セドリック。
それぞれ立場も性格も違うが、誰もが自分に新しいことを教えてくれる。
そのことが、今はとても嬉しかった。
「……さて」
エリアスは歩き出した。
「帰ったら、リュカにも話してあげましょうか」
今日、リュカは鈴蘭亭で留守番をしている。
ノアが面倒を見てくれると言っていたが、今頃どうしているだろう。
きっと、何かおいしいものをもらっているに違いない。
エリアスは小さく笑った。
石畳の道に、午後の日差しが落ちている。
遠くの鐘楼からは、柔らかな鐘の音が響いてきた。
平穏を望んで訪れた辺境の街。
けれど、ここには思っていた以上に多くの出会いが待っていた。
そのひとつひとつが、エリアスの日々を少しずつ豊かにしていく。
彼はそんなことを考えながら、鈴蘭亭へ続く道を歩いていった。




