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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第1章 春風の街、フィオーレ

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第14話 雨の日の古書店


 朝から、雨が降っていた。


 鈴蘭亭の窓を細かな雨粒が伝い、通りの石畳を濃い灰色に染めている。向かいの花屋はいつもより遅く店を開けたらしく、軒下では店主が濡れないように鉢植えを並べ直していた。


 エリアスは窓辺の椅子に座り、手元の本から顔を上げた。


 王都にいた頃、雨の日は嫌いではなかった。


 研究室に籠もっていると、窓を叩く雨音がよく聞こえたものだ。外出する者が少なくなるせいか、廊下も普段より静かだった。


 ただ、今は少し事情が違う。


 せっかく自由に出歩けるようになったのだから、雨の日の街も見てみたかった。


「……傘は、どこへしまったでしょう」


 エリアスは旅行鞄を開けた。


 王都を出る前に購入した雨具は、確かに入れてある。オスカーと一緒に買い物をした際、雨の日には必ず必要になると念を押された品だ。


 収納空間の中から折り畳み式の傘を取り出し、留め具を確かめる。


 すると、寝台の上にいたリュカが顔を上げた。


「出かけるつもりですよ」


 エリアスが声をかけると、リュカは軽やかに飛び降り、彼の足元までやってきた。


「あなたも一緒に行きますか?」


 白い尾が揺れる。


「ですが、今日は雨です。濡れてしまいますよ」


 リュカは気にした様子もなく、前脚でエリアスの靴を叩いた。


「……わかりました」


 どうやら留守番をするつもりはないらしい。


 エリアスは少し考え、鞄から柔らかな布を取り出した。


 それを小さく畳み、肩掛け鞄の底へ敷いてやる。


「ここなら雨に濡れずに済みますね」


 リュカは中を覗き込むと、ためらいなく潜り込んだ。


 白い顔だけが、鞄の口から覗いている。


「窮屈ではありませんか?」


 短い鳴き声が返ってきた。


「それなら、よかった」


 エリアスは鞄を肩に掛けた。


 どうやら今日も、退屈することはなさそうだった。


     ◇


 一階へ下りると、ノアが食堂の床を拭いていた。


 入口の近くには濡れた足跡が残り、その脇には水滴を落とす傘が何本か立てかけられている。


「あ、おはようございます!」


「おはようございます、ノア」


「今日は早いですね。朝ご飯、もう少し待ってください」


「急ぎませんから、大丈夫ですよ」


 エリアスは濡れた床を見た。


「雨の日は大変そうですね」


「そうなんですよ。お客さんが出入りするたびに床が濡れちゃって」


 ノアは布巾を絞りながら笑った。


「でも、今日はまだましな方です。風が強い日は、もっと大変なので」


「なるほど」


 エリアスはしばらく床を眺めた。


 入口から入り込む雨水。


 濡れた靴の底。


 それらが床へ落ち、少しずつ広がっている。


「……吸水性のある結界を入口に張れば、改善するかもしれませんね」


 何気なく呟くと、ノアが手を止めた。


「結界で、ですか?」


「ええ。靴や傘についた余分な水分だけを取り除くんです」


「そんなことできるんですか?」


「原理としては、浄化魔法に近いですよ」


 エリアスは入口を見た。


 実際に試してみようかとも思ったが、すぐに思い直す。


 鈴蘭亭の玄関は狭い。客が出入りする場所へ勝手に魔法を施すのは、あまりよくないだろう。


「もしご迷惑でなければ、今度簡単な魔道具を作ってみましょうか」


「魔道具?」


「はい。入口に置いておくだけで使えるものです」


 ノアは目を輝かせた。


「そんなのがあったら便利ですね!」


「では、少し考えてみます」


「でも、エリアスさん」


「はい?」


「また母さんに怒られますよ」


「……なぜでしょう?」


「休暇なのに、仕事ばっかりしてるって」


 エリアスは一度瞬きをした。


 確かに、昨日も魔法を使い、今日も魔道具のことを考えている。


 これでは王都にいた頃と変わらないのではないか。


「……そうですね。少し控えた方がよいでしょうか」


 真面目に考え始めたエリアスを見て、ノアは慌てて首を振った。


「あっ、違います! 無理してほしくないって意味ですよ!」


「そうでしたか」


「エリアスさんが楽しんでるなら、それでいいと思います」


 エリアスは少し考えてから頷いた。


「ありがとうございます。では、気が向いたときに作ることにします」


「はい。それなら大歓迎です!」


 ノアは嬉しそうに笑い、布巾を持って厨房へ戻っていった。


     ◇


 朝食を終える頃には、雨脚が少し弱まっていた。


 エリアスは傘を差し、鈴蘭亭をあとにした。


 普段は人通りの多い中央広場も、今日は閑散としている。


 噴水の周りには誰も座っておらず、濡れた石畳に灰色の空が映っていた。


 軒先から落ちる雨粒が、規則正しい音を立てている。


 肩掛け鞄の中では、リュカがおとなしくしていた。


 時折、顔を出して周囲を眺めている。


「雨の日の街も、悪くありませんね」


 エリアスが話しかけると、リュカは鼻先を動かした。


「ただ、あなたは濡れない方がよさそうです」


 雨粒が白い鼻に落ちると、リュカは素早く鞄の中へ引っ込んだ。


「……そうでしょうね」


 エリアスは小さく笑った。


 しばらく歩くと、クロイス古書店の看板が見えてきた。


 店の前には雨除けの小さな屋根があり、窓からは温かな明かりが漏れている。


 エリアスは軒下で傘を畳み、水滴を落としてから扉を開けた。


 からん、と鈴が鳴る。


「こんにちは」


 返事はなかった。


 店内は相変わらず静かで、古い紙と革の匂いが漂っている。


 奥の書棚の間から、ページをめくる音が聞こえた。


「レオンハルトさん?」


「……奥だ」


 聞き覚えのある低い声が返ってきた。


 エリアスは傘を入口の傘立てへ置き、声のした方へ向かった。


     ◇


 レオンハルトは、奥の机で古い書物を修繕していた。


 細い筆を手に、破れたページの端へ慎重に糊を塗っている。


「いらっしゃい」


「お邪魔します」


「今日は雨だぞ」


「ええ。よく降っていますね」


「……そういう意味じゃない」


 レオンハルトは筆を置いた。


「わざわざ雨の日に来なくてもよかっただろう」


「ですが、雨の日に本屋へ来るのも素敵だと思いまして」


 エリアスが答えると、レオンハルトは少し黙った。


 それから、また手元の本へ目を戻す。


「……好きにしろ」


「ありがとうございます」


 エリアスは店内を見回した。


 先日訪れたときには気づかなかったが、棚の上には修繕を待つ本がいくつも積まれている。


「本の修理をされているのですか?」


「ああ。古い本は傷みやすいからな」


「なるほど」


 エリアスは机の上に置かれた一冊へ目を向けた。


 表紙の革が剥がれ、背の部分には大きな亀裂が入っている。


「ずいぶん古い本ですね」


「百年以上前のものだ」


「そうなのですか」


「紙が弱っているから、普通に開くだけでも破れることがある」


 レオンハルトは小さな刷毛で埃を払いながら続けた。


「だから、こうして少しずつ直す」


 エリアスは興味深そうに作業を眺めた。


 魔法を使えば、紙の繊維を補強することもできる。


 しかし、目の前の男性はあえて手作業で修繕しているようだった。


「魔法は使われないのですか?」


 尋ねると、レオンハルトの手が止まった。


「使わないわけじゃない。ただ、古い本には向かない場合もある」


「向かない?」


「魔法で形だけ戻しても、紙の性質が変わってしまうことがある。元の状態を残すなら、手で直した方がいいことも多い」


 エリアスは少し考えた。


 確かに、魔法による修復は必ずしも完全な復元ではない。


 損傷した部分を補う際、元の素材に変化が生じることもある。


 古い書物の価値を考えれば、慎重になるのも当然だった。


「……勉強になります」


 エリアスが言うと、レオンハルトが顔を上げた。


「お前ほど魔法に詳しそうな奴でも、知らないことがあるんだな」


「もちろんです。知らないことの方が多いですよ」


「……そうか」


 レオンハルトは少しだけ口元を緩めた。


「なら、そこに座っていろ。ちょうど区切りがつくところだ」


「よろしいのですか?」


「ああ。茶くらい出す」


「ありがとうございます」


 エリアスは嬉しそうに頷いた。


     ◇


 しばらくして、書斎には紅茶の香りが広がった。


 レオンハルトが用意したのは、深い琥珀色のお茶だった。


 エリアスはカップを手に取り、香りを確かめる。


「……珍しい茶葉ですね」


「北方のものだ」


「少し燻したような香りがあります」


「よくわかったな」


「王都でも飲んだことがあります。ただ、こちらの方が柔らかい味ですね」


 レオンハルトは向かいの椅子へ腰を下ろした。


「近くの店で買っている。気に入ったなら教えてやる」


「ぜひお願いします」


 エリアスは嬉しそうに答えた。


 その膝の上では、リュカが静かに丸くなっている。


 レオンハルトは白い獣へ視線を向けた。


「……元気になったようだな」


「ええ。食欲もありますし、今朝も部屋の中を走り回っていました」


「そうか」


「ただ、相変わらず正体はわからないままです」


 エリアスはカップを置いた。


「先日お借りした記録集も読ませていただきましたが、興味深い内容でした」


「何かわかったか?」


「いくつか気になる記述がありました」


 エリアスは鞄から薄い手帳を取り出した。


 そこには、伝承の中で使われていた古い言葉や、挿絵の特徴が書き留められている。


「『白き導き手』についての記述です」


 レオンハルトの目が、わずかに細くなった。


「……続けろ」


「古い記録では、森の守り手として描かれていることが多いのですが、時代によって役割が少し違うようです」


 エリアスは手帳をめくった。


「ある地域では迷った旅人を導く存在。別の地域では、魔力の乱れを知らせる存在として語られています」


「そうだな」


「ですが、どちらにも共通していることがあります」


「何だ?」


「森に大きな変化が起こる前に現れる、という点です」


 レオンハルトは黙った。


 エリアスは窓の外へ目を向けた。


 雨はまだ降り続いている。


「……先日、薬草畑の近くで古い石柱を見つけました」


 レオンハルトが顔を上げた。


「石柱?」


「ええ。魔力を集める術式が刻まれていたのですが、一部が損傷していました」


「……どこで見つけた?」


「街の北にある薬草畑から、林へ入ったところです」


 レオンハルトはしばらく考え込んだ。


「……その石柱、どんな形だった?」


「高さは人の腰ほどでした。表面には古い魔法文字が刻まれていて、上部が少し欠けていましたね」


「……そうか」


 レオンハルトは腕を組んだ。


「昔、その辺りには境界石があったと聞いたことがある」


「境界石?」


「ああ。森と人の住む土地を分けるためのものだ」


 エリアスは興味深そうに身を乗り出した。


「魔法的な意味での境界でしょうか?」


「そういう説もある。ただ、詳しい記録は残っていない」


「なるほど……」


 エリアスは静かに頷いた。


 境界石。


 魔力を集める古い術式。


 そして、森で見つけた白い獣。


 それらの間に、何か関係があるのだろうか。


「……面白いですね」


 思わず呟くと、レオンハルトが小さく息を吐いた。


「お前、危険な話を聞いている自覚はあるのか?」


「もちろんです」


「……本当か?」


「はい。古い術式は、状態がわからないまま触れるべきではありませんから」


 レオンハルトは少し驚いたように彼を見た。


 どうやら、危険性そのものはきちんと理解しているらしい。


 ただ、それを恐れるより先に、興味を持ってしまうのだろう。


「……ならいい」


 短く答え、紅茶を飲んだ。


     ◇


 雨音を聞きながら、二人はしばらく本の話を続けた。


 古い魔法理論。


 地方に伝わる伝承。


 王都の図書館にしか残っていない研究書。


 話題は尽きなかった。


 レオンハルトは必要以上に多くを語る人物ではなかったが、エリアスが何かを尋ねると、必ず自分の知る範囲で答えてくれた。


 エリアスも、相手が興味を持ったことには丁寧に説明した。


 やがて、レオンハルトがふと尋ねた。


「……お前、王都では何をしていた?」


 エリアスはカップを置いた。


「魔法の研究をしていました」


「それは聞いた」


 レオンハルトは静かに続けた。


「どこで、だ」


 少しの間があった。


 エリアスは相手の顔を見た。


 先日から、レオンハルトは自分の名前に何か心当たりがあるようだった。


 それを無理に隠す必要はない。


「王立魔導院です」


 そう答えると、レオンハルトの表情が変わった。


「……やはりな」


「ご存じでしたか?」


「名前に聞き覚えがあった」


 レオンハルトは椅子の背にもたれた。


「エリアス・レインフォード。王国でも指折りの宮廷魔導師だと聞いている」


「……そうなのですか?」


「本人が知らないのか」


「いえ、宮廷魔導師であることは知っていますが……」


 エリアスは少し困ったように笑った。


「自分の名前が、どの程度知られているのかまでは」


 レオンハルトはしばらく彼を見つめた。


 それから、小さく笑った。


「……なるほど。噂どおりの人物らしい」


「噂、ですか?」


「ああ。魔法のことになると常識が通じない、と」


「……それは少し心外ですね」


 エリアスは真面目に答えた。


「私は、できるだけ常識的に行動しているつもりなのですが」


 レオンハルトは声を立てずに笑った。


 エリアスは不思議そうにその様子を見た。


 何かおかしなことを言っただろうか。


「……まあ、いい」


 レオンハルトは笑いを収め、カップを置いた。


「それで、なぜ宮廷魔導師がこんな辺境にいる?」


「休暇です」


「休暇?」


「ええ。少し、普通の暮らしをしてみたくなりまして」


 レオンハルトは動きを止めた。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「……普通の暮らし?」


「はい」


「王国最高峰の宮廷魔導師が?」


「ええ」


 エリアスは穏やかに頷いた。


「こうして本を読んだり、街を散歩したり。そういう時間を過ごしてみたかったんです」


 レオンハルトは黙った。


 しばらくして、窓の外へ視線を向けた。


「……そうか」


 その声は、先ほどまでより少し柔らかかった。


     ◇


「実は、私も昔は王立魔導院にいた」


 レオンハルトがそう言ったのは、二杯目の紅茶を飲み終えた頃だった。


 エリアスは顔を上げた。


「そうだったのですか?」


「ああ。研究者として、数年ほどな」


「では、どこかですれ違っていたかもしれませんね」


「どうだろうな。お前が宮廷魔導師になる前に辞めたから」


「なるほど」


 エリアスは頷いた。


 レオンハルトの年齢なら、確かに時期が重なっていてもおかしくない。


「なぜ辞められたのですか?」


 問いかけてから、エリアスは少し考えた。


 個人的な事情かもしれない。


「……失礼しました。答えにくいことでしたら、無理にお話しいただかなくても」


 レオンハルトは首を横に振った。


「構わない」


 少し間を置く。


「研究が嫌になったわけじゃない。ただ、あそこにいると、どうしても成果ばかり求められる」


 エリアスは黙って耳を傾けた。


「何を調べるにも、どれだけ役に立つか、どれだけ価値があるか。そればかりだった」


 レオンハルトは机の上の古い本へ目を向けた。


「私は、ただ古いものを調べるのが好きだったんだ」


「……そうなのですね」


「役に立たないとわかっていても、残しておきたい記録がある。誰も読まない本でも、失われれば二度と戻らない」


 エリアスは静かに頷いた。


 その気持ちは、よくわかった。


 魔法の研究も、必ずしも実用性だけで価値が決まるわけではない。


 誰にも知られていない術式。


 使い道のない古い理論。


 そうしたものの中にこそ、新しい発見が隠れていることもある。


「……素敵なお仕事ですね」


 エリアスが言うと、レオンハルトは顔を上げた。


「何?」


「古いものを残すというのは、とても大切なことだと思います」


 エリアスは書棚を見回した。


「ここには、たくさんの人が残してきた知識があります。それを守っているのですから」


 レオンハルトは何も言わなかった。


 しばらくして、静かにカップを持ち上げる。


「……大げさだな」


「そうでしょうか?」


「ああ」


 そう答えながらも、その声はどこか穏やかだった。


     ◇


 気づけば、昼を過ぎていた。


 雨はまだ降っていたが、朝よりもずいぶん弱くなっている。


 エリアスは時計を確認し、立ち上がった。


「長居してしまいましたね」


「構わない」


 レオンハルトは書棚から一冊の薄い本を取り出した。


「これを持っていけ」


「……こちらは?」


「昔のリュネリア地方の地図だ。写しだが、今の地図にはない道も載っている」


 エリアスは目を輝かせた。


「よろしいのですか?」


「貸すだけだ。なくすなよ」


「もちろんです。大切に扱います」


 レオンハルトは頷いた。


 エリアスは本を受け取り、丁寧に鞄へしまった。


「今日はありがとうございました。紅茶も、とてもおいしかったです」


「茶葉の店なら、南通りにある」


「南通りですね。今度行ってみます」


「ああ」


 エリアスはリュカを抱き直し、出口へ向かった。


 その背中へ、レオンハルトが声をかける。


「……エリアス」


「はい?」


「また来い」


 エリアスは振り返った。


 レオンハルトはすでに机へ目を戻していた。


「……本の話ができる相手は、そう多くない」


 エリアスは少し驚いた。


 それから、嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。ぜひ、また伺います」


     ◇


 古書店を出ると、雨はほとんど上がっていた。


 空にはまだ薄い雲が広がっているが、ところどころから柔らかな光が差し込んでいる。


 濡れた石畳が、その光を静かに反射していた。


 エリアスは傘を畳み、ゆっくりと歩き始めた。


 腕の中では、リュカが気持ちよさそうに目を細めている。


「……いい一日でしたね」


 エリアスが話しかけると、リュカは短く鳴いた。


「新しい本も借りられましたし、おいしい紅茶もいただきました」


 白い獣は、じっと彼を見上げた。


「それに、レオンハルトさんとも少し仲良くなれた気がします」


 リュカの尾が揺れた。


 エリアスは微笑んだ。


 王都では、仕事を通じて多くの人と関わってきた。


 けれど、こうして何の目的もなく誰かを訪ね、好きな話をして過ごす時間は、ほとんどなかった。


 それが、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。


 通りの向こうから、焼き菓子の香りが漂ってきた。


 エリアスは足を止めた。


「……そういえば、昼食がまだでしたね」


 リュカが顔を上げる。


「何か食べて帰りましょうか」


 白い尾が勢いよく揺れた。


「……あなたは、本当にわかりやすいですね」


 エリアスは笑いながら、香りのする方へ歩き出した。


 雨上がりのフィオーレには、柔らかな午後の日差しが戻り始めていた。


 その頃、クロイス古書店では、レオンハルトが一冊の古い記録集を開いていた。


 そこに記されていたのは、王立魔導院にいた頃、途中で調査を断念した古代術式の記録だった。


 彼は黄ばんだページに目を落とし、先ほどの青年の言葉を思い返す。


『知らないことの方が多いですよ』


 王国屈指の魔導師が、何のためらいもなく口にした言葉。


「……妙な奴だ」


 レオンハルトは小さく呟いた。


 けれど、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。


 机の上には、古い地図の原本が置かれている。


 地図の北側には、今では使われていない道が細く描かれていた。


 その先にあるのは、深い森。


 そして、ほとんどの記録から名前が消えてしまった、古い遺跡。


 レオンハルトはしばらく地図を眺めていたが、やがて静かに本を閉じた。


 まだ、確かめなければならないことがある。


 窓の外では、雨雲の切れ間から午後の光が差し込んでいた。

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