第13話 魔導師の常識、冒険者の非常識
鈴蘭亭の二階にある客室で、エリアスは小さな鉢植えと向き合っていた。
窓辺の机には、昨日ルドから分けてもらった薬草の苗が置かれている。細長い葉を四枚つけた、まだ手のひらほどの高さしかない植物だ。
昨夜、宿へ戻る途中で園芸店に立ち寄り、土と鉢を購入しておいた。
あとは植え替えるだけなのだが、ひとつ気になることがあった。
「……少し、土が乾いていますね」
エリアスは指先で土に触れた。
魔力の循環は悪くない。ただ、水分が不足している。
水属性の魔法を使えば簡単に補えるが、ルドからは最初の数日は普通の水で育てるよう教えられていた。
理由は、植物が新しい土に馴染むまで、余計な刺激を与えない方がいいからだという。
「なるほど。まずは環境に慣れることが大切なのですね」
エリアスは小さな水差しを手に取った。
そのとき、寝台の方から軽い物音がした。
振り返ると、リュカが掛布の上に立っていた。
白い毛並みは朝日を受けて柔らかく輝き、長い尾がゆっくりと揺れている。
「おはようございます、リュカ」
名前を呼ぶと、リュカは寝台から飛び降りた。
そして、机の上の鉢植えへ興味深そうに顔を近づける。
「これは食べ物ではありませんよ」
エリアスが先に注意すると、リュカは耳を伏せた。
「昨日いただいた苗です。大切に育てようと思っているので、齧らないでくださいね」
白い獣はしばらく鉢を眺めていたが、やがて前脚で土の入った袋を軽く叩いた。
「……土が気になりますか?」
返事の代わりに、もう一度叩く。
エリアスは袋を持ち上げた。
普通の園芸用の土だ。特に珍しい成分は含まれていない。
しかし、袋の底に指を当てると、ごく微かな魔力を感じた。
「……おや」
昨夜は気づかなかった。
土の中に、小さな魔力石の欠片が混じっている。
害のあるものではないが、この苗には少し刺激が強いかもしれない。
「よく気づきましたね」
エリアスが欠片を取り除くと、リュカは満足そうに尾を動かした。
「ありがとうございます。助かりました」
白い獣は得意げに胸を張ったように見えた。
エリアスは思わず笑ってしまった。
やはり、ただの獣ではないのだろう。
けれど、今はそれ以上を確かめるつもりはなかった。
リュカが自分から何かを伝えたくなったときに、少しずつ理解できればいい。
そう考えながら、エリアスは苗を新しい鉢に植え替えた。
◇
朝食を終えたあと、エリアスはカイルとの約束を思い出し、冒険者ギルドへ向かった。
昨日受けた薬草畑の調査依頼について、経過を報告することになっている。
完全に解決したわけではないため、依頼を完了扱いにしてよいのかも確認したかった。
リュカは鈴蘭亭に残してきた。
朝からノアが果物を用意してくれたため、本人も特に不満はなさそうだった。
中央広場を抜け、大通りを西へ進む。
ギルドの建物が見えてくると、入口の前に見覚えのある赤褐色の髪があった。
「お、エリアス!」
「おはようございます、カイル」
「ちょうどいいところに来たな。今から入るところだったんだ」
カイルは片手を上げた。
今日は剣に加え、肩から大きな革袋を提げている。
「ずいぶん荷物が多いですね」
「ああ。昨日の採取品を持ってきたんだ」
「薬草ですか?」
「そうそう。ルドさんにもらった分とは別にな」
カイルは袋を軽く叩いた。
「ギルドで買い取ってもらえるんだよ」
「なるほど」
エリアスは興味深そうに頷いた。
「では、私も持ってくればよかったですね」
「お前も採ったのか?」
「はい。少しだけ」
「何を?」
「月露草と春鈴草、それから銀葉草を少々」
カイルは足を止めた。
「……銀葉草?」
「ええ」
「どこで採ったんだ?」
「昨日、ルドさんの畑の近くに生えていましたよ」
「……あそこに?」
カイルの表情が変わった。
「エリアス、それ何株あった?」
「五株ほどでしょうか。一株だけ採取して、残りはそのままにしてあります」
「……そうか」
カイルは少し安心したように息を吐いた。
「どうかしましたか?」
「いや、銀葉草って結構珍しいんだよ。俺もこの辺じゃ、ほとんど見たことない」
「そうなのですね」
「お前、よく見つけたな」
エリアスは少し考えた。
「葉の表面に魔力が集まっていたので、見つけやすかったんです」
「……見つけやすい?」
「ええ。周囲の植物より、少し明るく見えますから」
カイルはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……なあ、エリアス」
「はい?」
「お前の目って、普通の人と同じものが見えてるのか?」
エリアスは瞬きをした。
「……どうでしょう」
「いや、そこで悩むなよ」
「比較したことがありませんので」
あまりにも真面目な返答に、カイルは思わず笑った。
「ははっ! そりゃそうだ!」
エリアスもつられて笑う。
二人は並んでギルドの扉をくぐった。
◇
ギルドの受付では、エマが書類を整理していた。
「おはようございます、カイルさん。レインフォードさんも」
「おはようございます」
「昨日の報告に来たぜ」
カイルが書類を差し出すと、エマは内容を確認し始めた。
「北の薬草畑ですね。ルドさんからも連絡がありましたよ」
「早いな」
「今朝、使いの方が来られたんです」
エマは書類をめくった。
「魔力の流れに異常があったとのことですが、詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい」
エリアスは昨日の出来事を説明した。
畑の北側にある古い石柱。
そこに刻まれた魔法術式。
損傷によって、周囲の魔力が一か所へ集まっていたこと。
そして、応急処置として魔力の流れを分散させたこと。
エマは真剣に聞いていた。
「……なるほど。では、原因は特定できたのですね」
「はい。ただ、植物の状態が回復するまでは、もう少し様子を見る必要があります」
「そうですね」
エマは頷いた。
「依頼主のルドさんも、数日後に再確認してほしいと希望されています」
「もちろんです」
「では、今回は中間報告として処理しておきますね」
「ありがとうございます」
エリアスは丁寧に頭を下げた。
その横で、カイルが思い出したように口を開く。
「そういや、エマ。銀葉草って、今いくらで買い取ってる?」
「銀葉草ですか?」
エマが顔を上げた。
「品質にもよりますが、一株あたり銀貨五枚前後ですね」
「お、やっぱり結構するな」
「最近は採取量が減っているので、少し値上がりしています」
エリアスは驚いた。
「銀貨五枚もするのですか?」
「はい。希少な薬草ですから」
「……そうなのですね」
エリアスは少し考えた。
銀葉草は、魔力の安定化に使われる植物だ。
古代魔法の研究では、補助材料として使われることもある。
ただし、王立魔導院では研究用に栽培されていたため、特別珍しいものだと思ったことはなかった。
「……なるほど」
エリアスは納得した。
王都と地方では、物の価値も大きく違うらしい。
それも、実際に暮らしてみなければわからないことだった。
◇
ギルドでの用事を終えたあと、カイルはエリアスを建物の裏手へ連れていった。
「今日は少し時間あるか?」
「はい。特に予定はありません」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれよ」
「どちらへ?」
「訓練場だ」
カイルは笑った。
「前に魔法を教えてくれるって言っただろ?」
「ああ、そうでしたね」
「俺、あれから結構楽しみにしてたんだよ」
「それは嬉しいですね」
二人が訓練場に入ると、数人の冒険者が剣や槍の練習をしていた。
木剣のぶつかる音が響き、地面には細かな砂埃が舞っている。
カイルは空いている一角を見つけ、荷物を置いた。
「さて、何から始めればいい?」
「そうですね……」
エリアスは少し考えた。
「まずは、魔力を感じ取るところからでしょうか」
「魔力を感じる?」
「はい。体内を流れる魔力に意識を向けるんです」
カイルは腕を組んだ。
「……どうやって?」
「目を閉じて、体の中心に意識を集中してください」
「中心?」
「ええ。胸の奥に、小さな光があるような感覚です」
カイルは目を閉じた。
しばらく黙って立っている。
エリアスも静かに待った。
一分ほど経った頃。
「……なあ」
「はい?」
「何も感じないんだけど」
「そうですか」
エリアスは少し考えた。
「では、もう少し具体的に説明しますね」
「頼む」
「まず、周囲に漂う魔素を感知し、それを体内の魔力循環と区別してください」
「……うん?」
「それから、魔力核の周辺に意識を集め、流れの起点を探します」
「……ちょっと待て」
「はい?」
「魔素って何だ?」
エリアスは口を閉じた。
しばらくして、ゆっくりと瞬きをする。
「……そこからでしたか」
「そこからだよ!」
カイルは思わず声を上げた。
近くで訓練していた冒険者たちが、ちらりとこちらを見た。
エリアスは少し申し訳なさそうに笑った。
「すみません。魔導院では、最初に習う内容でしたので」
「俺は魔導院なんて行ってないからな!」
「そうですね」
エリアスは素直に頷いた。
どうやら、教える側にも準備が必要らしい。
◇
「よし、じゃあ最初から頼む」
カイルは地面に腰を下ろした。
エリアスも向かいに座る。
「魔素というのは、空気や水、土など、自然の中に存在する魔力の源となるものです」
「ふむふむ」
「人間の体内にも魔力がありますが、それとは少し性質が違います」
「なるほど」
「魔法を使うときには、体内の魔力を使うことが一般的ですが、周囲の魔素を取り込んで補うこともできます」
「へえ……」
カイルは真剣に聞いていた。
エリアスは手のひらを上に向けた。
「例えば、こうして」
指先に小さな光が生まれる。
淡い青色の光が、ゆっくりと丸い形になった。
「これが、魔力を使って作った光です」
「おお!」
カイルが身を乗り出す。
「すげえな!」
「簡単な生活魔法ですよ」
「いや、俺にはできないからな」
「そうでしたね」
エリアスは微笑んだ。
「では、少し手伝いましょう」
彼はカイルの手を取った。
「目を閉じてください」
「おう」
「今から、ごく少量の魔力を流します。何か感じたら教えてください」
「わかった」
エリアスは慎重に魔力を流した。
カイルの体内を巡る魔力は、決して多くない。
だが、長年の剣術訓練で身体能力が高く、魔力の通り道も安定していた。
力任せに魔力を流すのではなく、自然な循環を意識させた方がよさそうだ。
「……どうですか?」
「……ん?」
カイルが眉を寄せる。
「なんか、手が温かいな」
「それです」
「これ?」
「はい。魔力が流れる感覚です」
「へえ……!」
カイルは目を開けた。
「本当だ。こんな感じなのか」
「ええ。慣れれば、自分でもわかるようになりますよ」
「面白いな!」
カイルは嬉しそうに笑った。
その反応を見て、エリアスも少し安心した。
どうやら、今度は説明が伝わったらしい。
「じゃあ、次は何をすればいい?」
「そうですね。今の感覚を忘れないうちに、自分の魔力を動かしてみましょう」
「よし!」
カイルは再び目を閉じた。
エリアスは静かに見守る。
数分後。
「……おっ?」
カイルの指先に、ごく小さな光が灯った。
ほんの一瞬だったが、確かに光った。
「……できた!」
カイルが目を見開く。
「エリアス! 今の見たか!?」
「ええ。お見事です」
「やった!」
カイルは子供のように喜んだ。
その姿を見て、エリアスは自然と笑みを浮かべた。
誰かに魔法を教えることは、これまでにもあった。
けれど、こんなふうに喜んでもらえたのは、初めてかもしれない。
「……よかったですね」
「ああ!」
カイルは嬉しそうに頷いた。
「なんか、剣を初めてまともに振れたときみたいだ!」
「そうなのですか?」
「おう。できなかったことができるようになるって、嬉しいもんだな」
エリアスは静かに頷いた。
その気持ちは、よくわかる。
魔法の研究も、同じだった。
理解できなかった術式が解けたとき。
失敗を重ねた実験が成功したとき。
その瞬間の喜びは、何度経験しても変わらない。
「……そうですね」
エリアスは微笑んだ。
「私も、そう思います」
◇
訓練を終えた頃には、昼を過ぎていた。
カイルは地面に座り込み、大きく息を吐いた。
「いやあ、疲れた!」
「お疲れさまでした」
「魔法って、思ったより集中力がいるんだな」
「最初はそうですね。慣れると自然に扱えるようになりますよ」
「そうか。じゃあ、また教えてくれよ」
「もちろんです」
エリアスは頷いた。
カイルは水筒を取り出し、勢いよく水を飲んだ。
「……それにしても、エリアス」
「はい?」
「お前、魔法のことになると本当に詳しいな」
「長く勉強していますから」
「それだけじゃないと思うけどなあ」
カイルは笑った。
「俺、魔導師の知り合いもいるけど、こんなに細かく説明できる奴はあんまりいないぞ」
「そうなのですか?」
「ああ。少なくとも、俺が知ってる中じゃ一番だ」
エリアスは少し驚いた。
王立魔導院には、優秀な研究者が数多くいた。
自分より特定の分野に詳しい者も、決して少なくなかった。
「……それは、光栄ですね」
エリアスは穏やかに微笑んだ。
カイルは満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、今度は俺が剣を教えてやるよ」
「剣術ですか?」
「ああ。魔法ばっかりじゃなくて、体も動かした方がいいだろ?」
「そうですね」
エリアスは少し考えた。
宮廷では護身術の訓練を受けていたが、本格的に剣を扱った経験はあまりない。
「ぜひお願いします」
「おう! 任せろ!」
カイルは嬉しそうに立ち上がった。
「ただし、手加減はするけどな」
「ありがとうございます」
エリアスは素直に礼を述べた。
その表情を見て、カイルは少し首を傾げた。
「……なんか、お前って本当に偉そうにしないよな」
「そうでしょうか?」
「ああ。王都の魔導師って、もっと気難しい奴ばっかりだと思ってた」
「いろいろな方がいますからね」
エリアスは笑った。
「私も、知らないことを教えていただくのは好きですし」
「そっか」
カイルは頷いた。
「じゃあ、遠慮なく教えてやるよ」
「楽しみにしています」
二人は並んで訓練場をあとにした。
◇
ギルドを出ると、午後の街は穏やかな陽気に包まれていた。
大通りには買い物客が行き交い、店先には色とりどりの花が飾られている。
カイルは大きく伸びをした。
「さて、腹も減ったし、何か食いに行くか?」
「いいですね」
「鈴蘭亭でもいいけど、たまには別の店も行ってみるか?」
「ぜひ」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
「この街には、まだ知らないお店がたくさんありますから」
「よし。じゃあ、いいところに連れてってやる」
カイルは先に歩き出した。
「南通りに小さな食堂があるんだ。そこの肉料理がうまくてさ」
「それは楽しみです」
二人は人混みの中を歩いていく。
途中、カイルが露店で果物を買い、エリアスにもひとつ渡した。
薄い黄色の、小さな果実だった。
「食ってみろよ。甘いぞ」
「ありがとうございます」
エリアスはひと口かじった。
爽やかな甘みが広がる。
「……おいしいですね」
「だろ?」
カイルは得意げに笑った。
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は南通りへ向かった。
エリアスはふと思った。
王都にいた頃、自分は誰かとこんなふうに街を歩いたことがあっただろうか。
仕事の話ではなく、次に何を食べようかと相談しながら。
知らないものを教え合い、くだらないことで笑い合う。
そんな時間を、どれほど過ごしてきただろう。
「……カイル」
「ん?」
「今日はありがとうございました」
カイルは振り返った。
「なんだよ、急に」
「いえ。魔法を教えるのも、こうして街を歩くのも、楽しいものですね」
カイルは一瞬きょとんとした。
それから、にっと笑った。
「そりゃよかった」
エリアスも微笑んだ。
「また、いろいろ教えてください」
「おう。こっちこそな」
二人は再び歩き始めた。
石畳の道に、午後の日差しが落ちている。
遠くの鐘楼からは、時を告げる音が聞こえてきた。
まだ出会って間もない二人。
けれど、少しずつ互いのことを知り、自然に言葉を交わせるようになっていた。
エリアスにとって、それは魔法の研究とはまた違う、新しい楽しみだった。
そしてカイルにとっても、この穏やかで少し不思議な魔導師との出会いは、いつもの日常を少しずつ変え始めていた。




