第17話 悪戯な風
歌い疲れてしまった。会計を済ませてから、人生初のカラオケショップから出る。空を見上げると、夕日がたった今沈み切ろうとするところだった。
辺りに夜の帳が訪れる。
「そんで~、マサちんは今何をしてるって言ってたのさ?」
頭の後ろで手を組んでいる新園さんが、少しだけ枯れた声で照明君に尋ねていた。
「ふっ、乳を10回揉ませてくれんなら教えてやらんでもないぜユミリン! 情報料はタダじゃねえぜ!」
ワンチャン支払ってもらえるのではないかとそんな事を真顔で言う馬鹿野郎だから、照明君はいつまで経っても女の子にモテないのだろう。正直、友人として接していなかったら照明君はただのヤンキーにしか見えないので仕方が無い。彼はこれでも1年前よりだいぶマシになった方だ。
「ひさ何とか最低…」
「女の子の敵ですね!」
美少女後輩2人からの手厳しいお言葉がテルの心臓を突き刺した。今日稼いだ好感度を惜しみも無く吐き出すこの豪快さが彼最大のチャームポイントと言えるだろう。
「グフッ! ば、馬鹿な…今なら行けると思ったのに…見誤ったか? この俺様の完璧な交渉術は人類にはまだ早過ぎたってのかよ?」
照明君はいったい何類なんだろう?
「でも唯香ちゃんに名前頭2文字覚えられたぜ!」
それ程感動するようなことだろうか? つまりは、フルネームを覚えられていないということなんだけども。
「女の子の扱いを勉強しないとね?」
「お前に言われたくはねえけどな!?」
僕のフォローを無碍にするとはなんて奴だ。
流石に照明君よりはマシだろう。
団栗の背比べだって? そこまで酷くは無いだろうと思いたい。メイドさんに襲われて押し倒されることはあれど、女の子の胸を揉もうなんて思ったことは1度も無い。
何故、不意に我が家の巨乳メイドさんの栄養満点そうな胸を思い出してしまったのかはわからないが、僕はそこまで変態じゃない。その気になれば性欲の制御なんて造作もないことさ。将隆君のようにクールに行きたいね。
そもそも僕は誰かと男女の関係になろうとは思っていない。望んでいるのは好かれず、嫌われない立ち位置だ。信念を持って生涯独身を貫こうとしているからね!
夜遊びは源治郎さんが心配するので、基本的にはしないタイプの真面目が取り柄な僕が、完全に日が落ちてしまうまで遊び尽くすなんて思いもしなかった。
あまりに楽しそうにカラオケではしゃぐ唯香の姿に、そろそろ帰ろうかと言い出すタイミングを何度も逃してしまったのは完全に僕の怠慢である。反省せねば。
流石にこれ以上の夜遊びを唯香にさせるわけにはいかないので帰宅を提案するのだが、僕の癒しと言っても過言ではなくなって来ている後輩少女の和奏ちゃんが服の袖を可愛らしく、ちょこんと掴み甘えるようにお強請りして来るからさあ大変だ。
「…お兄さん…ユイに、見せたいものがあるんです!…この街の桜をっ……」
「………………………」
ダメだ。この愛らしいつぶらな瞳の魔力に逆らえない。唯香とは別の意味で逆らうことができない。可愛いで男をぶん殴るとはまさにこのことだろう。
「へいへい! 良い子ちゃんの幸守君よ~! 夜遊びしちゃっていいのかなぁ~?」
正直ダメだ。門限が決まっているわけではないけれど、流石にこれ以上は子供が休日にほっつき歩いて良い時間ではないし、お巡りさんに職質でもされたら鳥羽園学園にも源治郎さんにも迷惑がかかる。そろそろ本当に帰路に着くべきなのだろうけれど…。ちらっ…。
「…お兄さん……」
そのうるうるした瞳は反則なのでは?
「そ、そうだね。もう帰らないといけない時間ではあるけれど、僕とテルが責任を持って彼女たち家まで送って行くのなら、もう少しくらい寄り道しても良い…のかな?…」
僕がしっかりすべきなのに逆らえなかった。男とは無力だ。
「流石は幸守! 話がわかるじゃねえか!」
将隆君もそこに居るのだろうし、今日は巻き添えにできなかったけれど、もしもまたカラオケに連れて来られそうになったら、次は将隆君を生贄に捧げることにしようと思う。
カラオケなんて、僕には人生1度で充分だ。
それに、和奏ちゃんと照明君の提案を突っぱねることも僕にはできそうにない。僕も唯香にこの街の桜を見せてあげたいと思っていたところだ。昨年、皆で見たこの街のライトアップされた夜桜は、とても美しいものだったからね。すみません源治郎さん。もう少しだけ、唯香と夜遊びをしてから帰ります。
「行こうか…」
「行きましょう! 行きますよユイ!」
「ちょっ…どこに行くのよ?…」
それは、着いてからのお楽しみだね。
鳥羽園学園の裏道の先にある土手にやって来た僕たちは目的地である堤防を訪れて、堤に上り、その向こうの景色を一望した。
初めてそれを目にした彼女の瞳が揺らぐ。
川に沿うように吹きつける風が桜の花びらを辺り一面に舞い散らせ、ヒラリと緩やかなピンク色の雨を降らせていた。
桜をより美しく見せるため、桜並木に向けて外灯が白い光を放っている。
夜闇に浮かび上がるライトアップされたソメイヨシノ。春風に撫でられザワッと木々が揺れる度に桜吹雪が巻き起こる。何度でも、何度でも、その光の雨は風に乗る。
一抹の不安を吹き消すような景色。桜の色。
今になって思えば、ここからもう1度何かを始めてみようと思えたきっかけの1つが、この街の夜桜だったのかもしれない。
「今年も満開だな! ふははははは!」
「だね! 良きかな夜に紛れた千本桜ぁ~!」
ピンク色の雨が舞い散る中へ満面の笑みで突撃して行く照明君と新園さん。はしゃぎ倒した1日だったというのに、まだ余力があるとは恐れ入る。僕は慣れないことをしたせいで少しだけお疲れ気味だ。
「千本は無くね? サバ読んでね?」
「気持ちの問題じゃん!」
光に照らされた桜吹雪を見詰める唯香に視線を向ける。見開いた義妹の瞳はキラキラと美しく輝いていた。相手は警護対象者。義理とはいえ妹だと言うのに、そのことを忘れて見惚れてしまいそうになる。
夜桜と黒髪美少女が絵になるな…。
やがて唯香は表情を変えぬまま呟く。
「…綺麗……」
全く同じことを思っていた。見ていた景色は少しだけ違っていたかもしれないけれど…。
唯香の後ろからひょこっと顔を出した和奏ちゃんが、自慢げにエヘヘと可愛らしく微笑むので僕も笑顔を作り肯定した。
「そうだね。綺麗だね…この堤防の桜の雨は年に数日だけ僅かな期間しか見られないんだ。今年の風も…やっぱり強いね……」
一斉に花を咲かせ、強風に乗り流れ星のような速度であっと言う間に散ってしまう。一陣の風に吹かれ、僕もこんな風に格好良く散りたいものだ…。
……なんてね…。
不安ばかりを抱えていた。
何のためにこの街へ来たのだろうか?
来たくて来たわけじゃない。お祖父様には会ってみたいと思っていたけれど、大切な両親の元を離れてまで来るつもりは無かった。
父とお祖父様が縁を切っていると知ったのもこの街に来ると決めた後だったし、できることならば、父とお祖父様も私たちのように仲直りしてほしいと思うけれど、父には父の事情があり、祖父には祖父の事情があると思うから、私にわがままを言う権利は無い。
憂鬱だったはずなのに…。
自分の右隣に居る義兄の水城院 幸守を見て、自分の左隣に居る友達の和奏を見て、私は内なる気持ちを抑えきれなかった。
悪くないと思えたのだ。
自身の居るこの場所は…。
ここは、思った程悪くない街だ。
「この街に来たからには1度は見ておかないとね。ちなみにこの場所はマサに教えてもらったんだ…」
「マサさんですか?」
「うん。騒がしくない方の僕の友人だよ」
いつの間にか、幸兄と和奏が、私以上に仲良くなっているような気がするのは気になるところだけれど、和奏のこれは恋愛感情ではなくお兄さんという存在への憧れなので別にやきもちを焼く程のことではない。
…………って、何で私が幸兄なんかにやきもちを焼かなきゃならないのよ!?
今日は少しだけ気分が高揚しているだけで、これも吊り橋効果の一種に違い無い。
「あっ…でもね。ここに来る時は気を付けなきゃいけないことが1つあって…」
「そうですね!」
「………?……」
「強風が来たら必ずスカートをおさ…」
「来ましたよユイ!」
「え? きゃああ〜っ!?」
幸守の忠告は少しだけ遅く、今日も今日とて決して望んでいたわけではないラッキースケベが発動する。望んでいたのなら警告すらしなかったはずなので、ちゃんと注意している時点で幸守にそのつもりは無かったはずだが詰めが甘いのか、視線だけはバッチリ強風で捲れたスカートの中に向けられていた。
「…ふう…セーフです!……」
和奏は1人だけしっかりとスカートを押さえていたようで、幸兄に下着を見られたりはしなかったのに、私だけは今日もきっちりと見られてしまっている。
「…ゆ〜き〜にぃ〜……」
水城院 唯香は拳を握りしめた。
冷ややかな笑顔の義妹。
理不尽の波動をひしひしと感じる。
今回の僕に悪いところがあっただろうか?
「ゆ、唯香…大丈夫だよ……暗くて、よく見えなかったし、白だか水色だか、よくわからなかったから実質見えていなかったよ?」
「色を当ててんじゃないわよ!!」
当たったの? 当たってしまったのは、それは本当に偶然なんだけども!?
そもそも和奏ちゃんと違って唯香はスカートの丈が短過ぎるのが良くないと思うんだ。もう少しだけ丈を上げるとか、スカートの中にスパッツを履くとかしてもらわないと、一概に僕のせいとは言い切れなくないですか?
「お、落ち着いて唯香…ここに来たいと言い出したのは和奏ちゃんとテルだったよね? 唯香のスカートを捲りたいがために、唯香をここに連れて来たわけじゃないよ?」
「…お兄さんのえっち……」
「和奏ちゃん!?…」
君にそう言われると、何だか本当に僕が悪いことをした気がして来るのだけれども。もしかして、今回もやっぱり僕が悪かったのかな?
「…ゆ~き~にぃ~……」
頬を赤く染めて、じりじりと間合いを詰める唯香から逃げるように後退りする。飛んで来るのは流石に拳だろう。握り締めていることだし、脳天かかと落としは飛んでこないと信じたい。いや、スカートの中を見られることを気にしているのだから、その脚を頭上より高く振り上げることはしないはずだ。唯香が冷静ならね。
というか、ビンタじゃなくてグーなのか!?
「み、見てないってば! ほら、僕もその、桜に夢中だったからさ…ははははは……」
あっ、たぶんダメだなこれは…。
「忘れろバカ兄貴ぃいい!!」
「ひぃい~!?」
鬼の形相で僕を追って来る唯香。今日は本当に僕は悪くないと信じているので理不尽にダメージを負いたくはないところだ。最近の僕はケガをし過ぎで源治郎さんにも心配させてしまっているからして、不要なケガはしない方針で学園生活を送りたいの気持ちだ。
「理不尽だよコレはぁ~!?」
「待ちなさいよバカ兄貴っ!!」
吹き抜ける風。完全に向かい風だが、先を走る僕の方が風の抵抗が大きそうだ。その差がじりじりと距離を縮める要因となってしまったのだろうか。逃げる方向を間違えた。
しばらく堤を駆けて来た僕が足を止めて乱れた呼吸を整えながら振り返ると、鬼さんである唯香の姿がどこにも無い。振り切ったか。やはり逃げ足には定評があるということか。
咄嗟のことで和奏ちゃんを置いて来てしまったけれど、近くには照明君と新園さんも居たはずだし大丈夫だろう。
先ずは、乱れた息を整えなければ。そう思い足を止めて深呼吸しようとした瞬間。何者かが声をかけて来る。
「幸守? 来たのか…」
「ひっ!? な、何だ…マサか……」
鬼さんかと思ったじゃないか。驚き損だ。
傾斜のある芝生に寝っ転がっていたのは僕の友人の将隆君だった。確かに彼はこの場所が好きでよく昼寝をしに来ているが、こんなところで会うとは偶然だ。いや、照明君が先程携帯電話で居場所を聞いていた気もする。
口数の少ない友人はのっそり立ち上がると、僕の後ろに視線を送る。そこにオバケでも出たのなら、もう少しだけ驚いたリアクションを取ってほしいものだが、将隆君のポーカーフェイスが崩れることは無かった。
「ぜぇ、ぜぇ、追いついた! 覚悟しなさいこのバカ兄貴っ!!」
「げっ!? いつの間に!?」
鬼さんは諦めが悪かった。
唯香に追いつかれた。後ろには迫っていなかったはずなのに何故?
そうか。風の強い堤の上からでは無く、一旦下の道路側に下りてから僕に近付いて来たのか。風の抵抗を減らして近付いて来ると同時に、自分の姿を見失わせる一石二鳥の策である。我が義妹ながら賢くて困る。
鬼ごっこというものは足が速ければ良いだけじゃないんだぞという奥深さを感じながら、僕は唯香に獲物を捉えた女豹の如く飛び掛かられ、その拍子に堤から脚を踏み外す。
友人との会話で気が抜けていたせいで、足の踏ん張りが効かなかった。将隆君がカバーに入ろうとしてくれるも、僅かに間に合わず伸ばした手が空を掴む。
「幸守!?…」
叫ぶ将隆君なんて、レアだな。なんて思いながらも、反射で僕は唯香の肩を押して土手の上に彼女だけ押し返そうとするが、体勢が悪くて押し返し切れそうにない。
アドレナリン全開で飛び掛かって来た唯香の勢いを殺し切れなかった。背後は土手だ。一瞬の判断を迫られる。ならばと、庇うように唯香の頭を抱え、彼女を抱き締めたまま僕たち2人は土手の斜面を転がり落ちた。
「くっ!!? 痛っ!…」
「きゃああぁー!??…」
ドサッと背中を芝生に強打した僕は情けなく悲痛な呻き声を上げ、咳込んでしまう。
「ぐっ!…ぅう〜…げほっ……」
傾斜のある芝生を一番下まで転がってから僕は彼女を抱き締める腕を放した。
背中と頭を打った。芝生のおかげで大した擦り傷は無いようだが身体中が痛みでピクリとも動けない状況だ。上手く呼吸ができない。落ち着いて、深呼吸だ。
「…ワイルドだな…キャラじゃないだろ?…死んでないだろうな?……」
将隆君は僕を心配して傾斜を駆け下りてくれた。死んではいないようだが死ぬ程痛い。
「だ、大丈夫みたい…ちょっと動け…な…ゲホッ! ゴホッ! …痛っ……うっ!……」
「ゆ、幸兄??…私…ご、ごめんなさい…」
「…唯香は……大丈夫?………」
「…私は、大丈夫……」
自分のケガを確認する唯香。痛がってもいないようなので本当に大丈夫そうだ。引き受けなければならない衝撃は全て回収に成功したらしい。運が良いのやら悪いのやら。
芝生と桜の花弁の絨毯が、申し訳程度にクッションになってくれたのだろうか。本当に申し訳程度だったけれど…。
「ご、ごめんなさい! 幸兄、私…こんな事になるなんて…私がふざけたせいで!!…」
「いいよ。唯香が無事なら良かった。僕は、大丈夫だから…お気に、なさらず……」
視界が僅かにボヤける。打ちどころはそう悪くなかったと思うけれど、何だろう? こめかみのあたりが凄く温かい。
「幸守…頭から血が出ているぞ…」
頭から血が出ている?
そちらはおそらく擦りむいてしまっただけなので、見た目程大した怪我ではないと思う。確かに額の端から微量の血が滲んでいるようだが、この程度は問題無い。
「きゅ、救急車を呼ばないと!?」
涙目になりながら慌てて隣の将隆君に言い放つ唯香。将隆君は頷いてポケットからシルバーの携帯電話を取り出すと救急車の手配をして再びそれをポケットへと押し込んだ。
気絶したわけでもないのに、流石に大袈裟なのではないかと思うけれど、唯香が泣きながら僕の身体を揺するので、むしろ追加ダメージはそこに発生していた気がする。
「安静にさせた方が良いんじゃないか?」
「あっ、ご…ごめんなさい!…」
僕たちの様子がおかしい事に気付いたのか。照明君や新園さん。和奏ちゃんも駆けつけてくれた。僕はというと、唯香に身体を揺すられた追加ダメージで気が遠くなってしまったのか背中を打ちつけたダメージと相まって目を回してしまった。本当に、不覚である。
「…わたし…なんでっ…………」




