第10話 自己防衛機能
クラスメートの新園さんにパフェの無料チケットを挟んでおいた自分の財布を雑に渡し、少し遅れて店を飛び出した僕は、遠くに走り去ろうとする唯香お嬢様の姿を見付けた。
軟弱そうに見えるかもしれないけれど、これでも結構鍛えている方だ。中でも足にはかなり自信がある。いざという時に、水城院家に迷惑をかけないため、間違っても誘拐されないように逃げ足だけは鍛え抜いた。
万が一にでも僕が身代金目当てで誘拐でもされた暁には、僕の身を案じた源治郎さんが躊躇無く身代金を支払ってしまうからね! 使い捨ての消耗品である僕にそんな価値など無い。
今は語っている場合ではないな。
追わないと!
みるみるうちに唯香との距離を縮めるが、息を切らして止まっていた彼女は背後から迫り来る僕の姿に気付くと、更に頬を赤らめて前も確認せずに走り出してしまった。
気が動転して前を見ていない。
「なっ!? 赤だよ唯香っ!!」
そこは横断歩道だった。車通りの多い十字路で歩行者用の信号が青になっている時間がとても短い横断歩道だ。細い道路で歩道が見えづらく、つい先日も、対極線上にある反対側の横断歩道で不幸な事故があったばかりだ。
そこは…死神の潜む横断歩道だった。
ツインテールの少女が気付いた時には既にそこは、赤信号の横断歩道だった。飛び出して来た少女を見てから急ブレーキをかけようとするトラックの運転手だが、この距離では間に合わない。
刹那。
僕の脳裏に閉ざされていた記憶が奔る。
赤の他人なんかを救おうとして、呆気なく生命を落としてしまった馬鹿な男の最期。似ている。
いいや、僕はあの男とは違う。問題無い。遺される者など居ないのだから、僕ならば誰にも迷惑なんてかけずに済むだろう。ここで消費される生命があるとするならば、彼女ではなく僕の方であるべきだ。これが僕の最期でも…。
あの時とは違う結末だ。
それなら、別に構わないな。
普通、足が竦むものじゃないのか。
脚は更に加速する。状況判断。唯香お嬢様はクラクションに驚いて横断歩道の中央で立ち止まってしまった。スローモーションに変化する状況。彼女を突き飛ばしてもその向こうは車道だ。確実に助け出すならば、手前側の歩道へ引き寄せるしかないな。何でこんなにも容易く、僕は生命を投げ捨てる選択肢ができたのだろう?
心のどこかでこんな生命の使い方を。
最期の時を…。
望んでいたのかもしれない。
死んでもいい生命だから。
「唯香ぁあああっ!!?」
「…っ!?………………」
こんな最期なら、そう悪くはない…。
僕にしては…上出来だろう…。
「ぜぇ…はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
何人かの通行者が力いっぱい少女を抱き締めて、呼吸困難になっている少年の側まで駆け寄った。思い思いに心配の声をかけていたが、耳鳴りが続き、正常な精神を保てない少年の耳には届かなかった。
少年の身体に生命に関わるような外傷は無かった。辛うじてトラックとの接触を回避したが、その行動の果てに負ったダメージは肉体ではなく精神を蝕む。
自分はトラックにはね飛ばされて終わるはずだったのに、少女の手首を掴んで自分の位置と入れ替えるように歩道に放る方が、確実に間に合う計算だったのに。
確実に間に合う方ではなく、自分自身も助かるように、彼女を抱き締めたまま歩道に引き返すように飛び退いてしまった。
僕は……何て臆病なんだ…。
間に合ったからいいものを…。
トラックの運転手が急ブレーキをかけてハンドルを横に切ったおかげで、自分も助かる僅かな猶予が生まれたんだ。他人の行動によって生かされるだなんて、恥の上塗りだ。こんな形を僕は望んじゃいない。
これは水城院 幸守なんかじゃない。
この情けない男は、紛い物だ…。
「………くそっ…僕は…………」
トラックから慌てて降りて来た運転手は若い男性だった。飛び出した少年が佇む少女を抱き締めて無我夢中で後方に跳んでくれたおかげで、人を轢かずに済んだ男性。
彼ははね飛ばしかけた2人が無事な様子を確認してから胸をなで下ろした。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫かい?」
「轢かれたの!?」
「何やってんだ姉ちゃん!?」
側に居た何人かの通行人が僕と唯香に心配の声をかけているが、ただただ荒々しく呼吸を繰り返す僕はそんな声などお構い無しに助けた少女を抱き締め続けた。
何故、僕は、自分の死を躊躇った。
「…痛っ!?……」
唯香お嬢様を抱えて強引に跳び退いたため、着地の事など考えていなかった。源治郎さんの大切な孫娘さんに負う必要の無いケガを負わせてしまった。
歩道で足を擦りむいたようだ。
自分も足から出血している。熱い。
「ちょっ!? 痛い! 離してよ!?」
その言葉と同時に僕は更に力強く唯香お嬢様を抱き締めた。震える唇で呟く。
「何やってるんだよ。もう死なせない。僕の目の前で、僕のせいで…もう、絶対に…」
脳裏に朧気な映像が浮かび上がった。
ノイズが酷く、自分に向かい必死に駆け寄る男性の声が聞き取れない。深い霧がかかっているように、視界がぼやけて行く。誰かが僕に何か叫んでいた。僕はそこから動けずに、乱れた呼吸も整えられず、視界が歪み、やがて意識が遠退いて…。
「僕は…どうして………」
どうしてまだ生きているんだっけ?
今、都合良く、終われたはずなのに。
贖罪の時だったじゃないか。
おかしいな?…おかしいなぁ……。
世界がボヤけて暗闇と混ざり、微睡みの中へ溶けて行く。僕の意識は、そこで完全に途切れてしまっていた。
偽りの兄となった少年。
水城院 幸守として生きている少年。
水城院 唯香は水城院 幸守の過去になど一切興味が無かった。当たり前のことだ。よく知りもしない赤の他人の過去に興味がある人間など珍しいだろう。当然、その過去を何も知らない。幸守は彼女にとって父の在るべき居場所を奪った人間。敵対者でしかなかった。
そんな敵に生命を救われてしまった。
水城院 幸守と1年間連んできた、尚川 照明と新園 弓莉も友人である彼から何ひとつとして詳しい事情は聞かされていなかった。
しかし、新園 弓莉は他人の情報を集める趣味を持ち、探偵まがいな事を得意としていたため、彼の過去。その一部を知ってしまっていた。
語るべきか、語らざるべきか…。
興味の無い話など、聞かせるだけ無意味だ。
だから、頼まれでもしない限りいたずらに話したりはしない。そのつもりだった。それなのに、少女のとって少年の抱える問題は、関係の無い話でも、興味の無い話でも、聞きたくもない話でもなく、知る必要のある話となってしまったのである。
新園 弓莉は思う。パフェの代金分くらいは、情報を吐き出すべきだろう。仲直りの手助けになるかもしれない。
水城院 唯香も事実を受け止める。
生命を懸けられてしまったのだ。
それをもう、他人と呼べはしないだろう。
そこまで薄情にはなりたくない。
少年は身寄りのない孤児だったという。
祖父も祖母も父も母も失ってしまい、生きる術を無くしてしまった少年だった。
彼がとある山奥の孤児院へ来たその日の事が新園 弓莉のメモ帳に記されていた。
どうやらその幼い少年は、どうでもいいはずの他人のために、自分にとってかけがえの存在であるはずの、たった1人の肉親だった父を差し出し、彼を死に追いやってしまったらしい。それが正義の行いだとしても、正義を賭して大切な何かを失うのだとしたら、その正しさに何の意味があると言うのだろう?
とある交通事故。1人の少女を助けようと道路に飛び出したのは、後に水城院 幸守として水城院財閥の総帥、水城院 源治郎に養子として迎えられることになる少年。その父だった。
事故の一部始終を目撃したサラリーマンが居た。彼の口から語られた真実は、少年にとってはあまりにも酷な出来事であった。
トラックの飲酒運転。赤信号にも関わらずスピードを落とさないその異変に最初に気付いたのは父親ではなく、少年の方だった。
トラックに轢かれそうになった見ず知らずの子供を指さした少年は、父親にその異変を知らせてしまったのだ。正義感の強かった少年の父親は、見ず知らずの子供を救うためにトラックの前に飛び出て間一髪で見知らぬ子供を救うも、自らは間に合わず、はね飛ばされて頭蓋が割れ、即死してしまう。
さて、生命を投げ出して、助けに飛び出せという指示を出してしまったのは誰だろう?
実の父と自らを地獄の淵に叩き落としたのは誰だろう。
少年の父親が本当に守らなければならなかったのは誰だったのだろう。少年が本当に守りたかったのは誰だったのだろう。誰が死ぬべきだったのだろう?
少年は、先を見据えずにそれが正しい行動だと信じて叫んだ。『危ない!』の一言で自ら独りになってしまったのである。
何をすべきかわからなくなってしまった。
何もわからなくなってしまった。
まだ幼い少年が絶望するには…。
充分過ぎる悲劇だった…。
不幸な人生を歩んで来た少年が今この場所で何気なく笑い、それなりの学生生活を送れているのには理由があったのだ。
血塗られた過去を断ち切り、生まれ変わらなければならない理由があった。
耐え難い過去を消去して生きて来たはずだった少年は、思い出してはならないその不幸な過去を思い出してしまった。
そしてまた、繰り返す。
自己防衛機能。
心を壊さないための処理なのである。
そんな記憶は、存在してはならないのだ。




