聖徳寺の会見について
お読みいただき、ありがとうございます。
歴史音痴のひのが、この作品を書くにあたり、必死で勉強した内容について発表・考察させていただいております。
間違っている部分もあるかと思いますので、「これ、違うよ?」「ここは、こうだよ」というのがあれば、教えていただけると嬉しいです。
聖徳寺の会見
信長公記によると織田信長と斎藤道三の会見は
「道三が信長に会いたいと言って」
「富田(愛知県一宮市)の聖徳寺で」行われた。
信長は「木曽川(飛騨川)という大河を船で渡って」道三に会いに行った。
と記載されています。
道三が信長に会いたかった理由は、「信長はうつけだという噂を聞き、真偽のほどを確かめるため」とされています。
本当かなぁ、と思います。
信長公記は、信長の家来だった太田牛一さんが書いていて、随所に忖度の香りがするのですが、この話も忖度が混じっているかもしれません。
そもそもこの会見のタイミングが1553年だとすると(1552年説もあり)
尾張では織田信秀が亡くなり、織田家は鳴海を奪われ、清州の坂井大膳が織田氏(信長チーム※)と対立の意志を表明した後ということになります。
信長チームは、喉から手が出るほど味方が欲しかったはず。
面会は、信長から平身低頭して申し込んだのではないかと想像します。
ちなみに道三側は、1552年に土岐頼芸を追放(二度目)。
美濃を完全に手中に収め、国主となっています。
道三側には、わざわざ弱小の信長チームと協力するメリットはなさそうです。
信長と濃姫の結婚のタイミングでは、信秀が生きていて、織田家の勢力も(傾きかけていたとはいえ)それなりだったはずですが、この面会のタイミングでの織田家の勢力は「レベル・存亡の危機」的な感じだと思います。
さらに信長と濃姫が結婚して5年ほどたちますが、二人の間には子供ができていません。
(というか、この段階では信長には、ひとりも子供がいない→不妊の原因が信長にある可能性もあり、とみなされていたはず)
このとき濃姫は18歳。まだまだ新しい嫁ぎ先もありそうなので、道三としては離縁して濃姫を回収しようとした可能性もあるのではないかと思います。
面会の場所は記述通りなら「富田(愛知県一宮市)の聖徳寺」。
信長の那古野城からは20㎞強、道三の稲葉山城からも20㎞弱、のようです。
ただし、現在の地図通りなら、那古野から聖徳寺の間に木曽川(飛騨川は木曽川の支川)はありません。
川の位置は結構変わるので、昔は川がもっと那古野側にあったのかもしれません。
(古地図とか、読める方がいたら教えてください!)
あるいは、聖徳寺は昔は岐阜県羽島市正木町にあったそうなので、そちらで面会した可能性もあるのかもしれません。その場合は、面会場所はもっと美濃側に寄ることになります。
いずれにせよ、木曽川(境界線だったかもしれません)を渡って行ったのは信長のようなので、(中立地域での面会とはいえ)リスクを冒してでも相手に会いたかったのは信長、とも考えられるのかな、と思います。
※※※
ちなみに江戸時代、旅人(男)が一日に歩く距離は40㎞程だったそうです。
(1時間に4㎞・10時間歩くとして計算)
那古野城から聖徳寺までは20㎞あるので、往復40Kmです。
途中で川を渡ったり、寺で会見をしたりしているので、時間もかかったはず。
日帰りだったのでしょうか。どこかで一泊したのでしょうか。
信長公記には、信長が着替える場所は「宿舎の寺」と記載されています。
宿舎には宿泊の意味もありますが、ここで一泊したのでしょうか。
700人の宿泊ってすごいですよね。「宿舎の寺」に全員入れたのでしょうか。それとも野営だったのでしょうか。
気になります。
※ この時期、尾張には「織田家」がたくさんあります。
坂井大膳の上司も織田さんで、信長(というか、信秀)チームの織田さんとは対立していました。
他にもいっぱい織田さんがいて、名前も「間違い探しですか!?」と言いたくなるほど激似です(「織田信」まで一緒で、あとは一文字違い、とか)。死ぬほどややこしいので、本編では登場させないことにしました。
実は、個人的には、坂井大膳の上司の織田さん、嫌いじゃないです。
本編では坂井大膳にも上司の織田さん役をやってもらうことにしましたが、名前が織田じゃなかったら、ちゃんと登場させたかったです――。




