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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第9話】無主の器

 鑑定室は、大時計塔の四階にあった。


 書物と水晶と、乾いた薬草みたいな匂いの部屋。窓際に鳥籠が吊るしてあって、中で青い小鳥が寝ていた。昼なのに。鑑定士は山羊の角を生やした小柄な老婆で、俺を椅子に座らせると、飴玉くらいの水晶を五つ、机に並べた。


「ギフト鑑定は初めてかい」


「ギフト自体、あると思ってなかったんですけど」


「そういう子ほど面白いのが出るのさ。ギフトってのはね、生まれつきの才能。あるいは、生き方が骨の髄まで染みて、形になったもの。持ってる奴は百人に数人。ほら、手を」


 言われるままに、水晶をひとつずつ握った。ひとつ目は白く光った。ふたつ目は光らなかった。「ふん、属性なし」と老婆が呟く。三つ目を握ったとき、水晶は光る代わりに、音もなく罅割れた。


 老婆の手が、止まった。


「……ばあさん、今の、弁償ですか」


「お黙り」


 老婆は割れた水晶をつまみ上げ、目を細めて罅の形を検めた。それから俺の手を取って、皺だらけの両手で挟んで、しばらく目を閉じた。長かった。窓際の小鳥が起きて、また寝た。フィムが肩の上でそわそわし始めた頃、老婆はゆっくり目を開けて、言った。


「六十年、鑑定士をやってる。初めて見るよ、こんなもの」


「……それって」


「『無主の器』。水晶が読み上げた名は、間違いじゃない。だがね、あたしにも分からないんだ。これが何をするギフトなのか、さっぱり読めない」


 老婆は立ち上がり、壁一面の棚から古い台帳を三冊引き抜いて、机に積んだ。ギルドが数百年かけて集めた、ギフトの記録らしい。革表紙の埃を払って、老婆は片っ端からページをめくった。


「竜鱗、剛腕、千里声、解析眼……ギフトってのはね、大抵は系統がある。体の系統、目の系統、声の系統。名前を見りゃ、どの系統か見当がつく。だが『器』なんて系統は——」


 ページをめくる音だけが続いて、やがて老婆は三冊目を閉じた。


「載ってない。三冊とも、影も形もない」


「前例なし、ってことですか」


「そういうことだね。名前だけが分かって、中身は不明。……ひとつだけ言えるのは」


 老婆は、俺の目をまっすぐ見た。


「漂流者のギフトは、失った世界を映すことが多い。火の世界の生き残りは火を宿す。歌の世界の生き残りは声を宿す。あんたのそれも、たぶん、あんたの世界と無関係じゃないよ」


 失った世界を、映す。


 無主の器。主のない、うつわ。地球を失った俺に生えた、誰のものでもない何か。名前の響きだけで、腹の底がすうすうした。空っぽの器を覗き込んだときの、あの心許なさに似ていた。


「効果が分からないってことは、使い方も分からないんですよね」


「分からないね。ただ、ギフトってのは、必要なときに勝手に目を覚ますもんだ。……妙な言い方だがね、坊や」


 老婆は、割れた水晶を窓の光にかざした。


「これが割れたのは、器が『計り切れなかった』からだ。あたしの道具じゃ、底が見えなかった。深いのか、空っぽなのか、それすらね。……ただ、器ってのは容れるための名だ。中身が読めないんじゃなく、まだ空なのかもしれないよ。何を容れるかで、あんたのそれは決まる。せいぜい、変なものを入れられないように気をつけな」


 変なものとは何か。聞いたが、老婆は「知ってたら苦労しないよ」と笑っただけだった。





 「実はもうひとつ、出てる」と老婆が言ったのは、帰り際だった。


「ギフトじゃない。スキルのほうさ。《観察》。……こっちは台帳に載ってる、ちゃんとした地味なスキルだ」


「観察」


「対象の癖、状態、変化を読み取る精度が上がる。戦闘力は、まあ、ないね。斥候や商人が持ってると重宝するくらいの」


「それ、いつの間に」


「スキルってのは修練の結晶だよ。何年も同じことを磨き続けた人間に、ある日ぽんと形になる。あんた、何か『見る』ことを長くやってなかったかい」


 思い当たるのは、ひとつしかなかった。


 スマホのカメラロール。構図を探して、被写体の癖を待って、シャッターの一瞬を狙う。誰に頼まれたわけでもなく、二十年の半分くらい、俺はずっと何かを見て、残そうとしてきた。


(そうか。おまえ、結晶になったのか)


 戦闘力なし。地味。だが、ヴェルタ爺さんの型を拾ったのは、間違いなくこいつだ。試験のあの日、俺の目は確かにいつもより「見えて」いた。俺は「観察」と刻まれた複写板を、勲章みたいに受け取った。地味な勲章ほど、たぶん錆びない。


 鑑定室を出ると、廊下の奥に人が立っていた。


 でかい。ガロよりでかい。初老の、岩みたいな体格の男が、片方だけの目でこっちを見ていた。左目は古い傷ごと閉じている。着ているものは普通の外套なのに、廊下の空気だけが張り詰めていた。男は何も言わず、俺が会釈すると、顎を数ミリ引いて、廊下の奥へ消えた。


「い、今の、ギルドマスターだよ……オルドア様……」


 フィムの声が上擦っていた。ギルドの頂点が、なぜ鑑定室の前に。


「どういう人なんだ、あの人」


「元特級。現役の頃は『不倒のオルドア』。第三界圏で遭難したパーティを、片目と引き換えに全員連れて帰ってきた人。……で、引退して、ギルドマスター。この街でいちばん、敵に回しちゃいけない人」


「その人が、なんで俺なんかを」


「だから怖いんだって!」


「新人のギフトなんて、いちいち見に来るもんなのか?」


「来ない。来るわけない。ギルドマスターが四階に降りてくるの、ボク、初めて見た。……メグル、キミ、何者?」


「こっちが聞きたい」


 無主の器。前例のない名前。ギルドマスターの片目。厄介ごとの気配だけが、着々と積み上がっていた。





 考えごとをしながら歩いていたせいだと思う。気づいたら、足が保護院の前まで来ていた。


 世話になった礼をまだちゃんと言っていない。メロウの爺さんに昇級の報告もしたい。ついでに顔を出していくか、と門をくぐって、俺は中庭で足を止めた。


 夕暮れの中庭に、少女がひとり、立っていた。


 銀色の髪。灰色がかった瞳。歳は、たぶん中学生くらい。名前も知らない色の花の前で、身じろぎもせずに立っている。


 最初は、彫像かと思った。


 次に、夕陽の加減かと思った。


 どちらも違った。少女の輪郭が、薄いのだ。肩の線が、髪の先が、背景の花壇にわずかに透けている。狭間で消えかけた、あのときの俺の手と同じだった。忘れようがない。自分の体で覚えた薄さだ。


 少女が、ゆっくりとこちらを向いた。


 灰色の瞳が俺を捉えて、二、三度まばたきをした。驚いている、と分かるまでに時間がかかった。それくらい、静かな驚き方だった。それから、彼女は少しだけ首を傾げて、掠れた小さな声で言った。


「……あなた、わたしが、見える?」


 見えるも何も、そこにいるだろ。


 そう返そうとして、俺は言葉を呑んだ。中庭の向こうを、保護院の職員が二人、談笑しながら通り過ぎていく。二人の視線は、一度も少女に向かなかった。夕暮れの中庭に立つ、銀色の髪の女の子に、一度もだ。すぐ横を通ったのに、だ。


 見えていないのか。それとも——見えているのに、覚えていられないのか。


「見える」


 俺は言った。少女の灰色の目が、かすかに揺れた。


「見えるし、聞こえる。……あんた、名前は」


 少女は、長い間のあとで、確かめるみたいに答えた。自分の名前を、久しぶりに声に出す人の言い方だった。


「ノア」


 その名前を、俺はその場で、心の手帳に書き込んだ。二度と消えない場所にだ。


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