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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第10話】消えかけの少女

 ノアは、俺が保護院にいた頃には見なかった顔だった。


 と思ったら、そうではなかった。院長室で話を聞いて、背筋が冷えた。


「ノアは三年前からここにいますよ。あなたが滞在していた大部屋の、廊下を挟んだ向かいの部屋に」


 三年前から、いた。俺が飯を食っていた食堂に、俺が歩いた廊下に、あの子はずっといた。すれ違ったことも、たぶんある。俺が覚えていないんじゃない。


 誰も、覚えていられないのだ。


「存在の風化、と呼んでいます」


 院長は、白髪の穏やかな女性だった。穏やかな声のまま、穏やかでないことを言った。


「漂流者は、失った世界の記憶を核にして、自分を保っています。核が薄れると、存在そのものが薄れていく。周りの記憶から零れ落ちて、記録から霞んで、最後は……消えます。狭間で消えるのと、同じように」


「防ぐ方法は」


「ありません。進みを遅らせる薬湯と、あとは、話しかけてあげることくらい。認識される時間が長いほど、風化は遅れるので」


 だから保護院の職員は、当番を組んでノアに話しかけているという。当番を組んで、だ。そうしないと、話しかけることそのものを忘れるから。壁の当番表には「ノア」の名前の横に、注意書きの札が三枚も貼ってあった。それでも忘れるらしい。当番表を見た職員が「あら、こんな当番あったかしら」と首を傾げるのを、俺は現にさっき見た。


 悪意がないのが、いちばん堪えた。誰もノアを嫌っていない。嫌うためには、覚えていなきゃいけないからだ。


「正直に言うと、わたしたちも限界なんです。ノアの風化は、この半年で急に進んで……」


 院長はそこで言葉を切って、俺をじっと見た。


「それが今朝、検査したら、止まっていた」


「……止まった?」


「三年間、一度も止まらなかったものが、です。変わったことといえば、ひとつだけ。昨日の夕方、あなたが中庭で、あの子と話した」


 院長の目は、真剣そのものだった。


「メグルさん。もう一度、ノアに会ってもらえませんか」





 ノアの部屋は、物が少なかった。


 寝台と、机と、椅子。机の上に、青とも紫ともつかない色の花が一輪、水差しに挿してある。中庭のあの花だ。壁に絵の一枚もない。三年住んだ部屋が、昨日入居した部屋みたいだった。物を増やすことを、この子はどこかで諦めている。


 ノアは寝台の縁に腰掛けて、俺を見上げた。


「……来た」


「来た。約束したからな」


「やくそく」


 ノアは、その言葉を口の中で転がした。舌の上の飴玉の味を確かめるみたいに。


「昨日、また来るって言った。覚えてる。……あなたが覚えてるほうが、めずらしいけど」


 抑揚の薄い、静かな声だった。感情がないんじゃない。感情の出し方を、長いこと使っていないだけだ。三年間、自分を覚えていない人間に話しかけられ続けたら、そうもなるだろう。毎日が初対面の三年間。想像して、やめた。想像で済ませていい重さじゃなかった。


 俺は椅子に座って、聞いた。


「ノアの世界のこと、聞いていいか」


「……エルメア」


 ノアはぽつりと言った。


「星がきれいな世界。星を読んで、明日の風を知る人たちの世界。……だった」


「刈られたのか」


「三年前に。わたしだけ、こぼれた」


 わたしだけ、こぼれた。その言い方に、聞き覚えがあった。まれに、外に弾かれて生き残る。俺と同じだ。最後のひとり同士だ。


「星、か。どんな空だった」


「夜がぜんぶ、星。手をのばすと、指のあいだに三つずつ入る」


 指のあいだに三つずつ。すごい表現だ、と思った。その空を撮れたら、と考えて、もうどこにもない空だと思い出した。この子の頭の中にしか、その空は残っていない。


「そっか。……俺の世界は、地球っていうんだ」


 俺はスマホを出して、写真を見せた。青い空。海。駅前の猫。ノアは画面を覗き込んで、長いこと黙って、猫の写真のところで指を止めた。


「これ、なに」


「猫。知らない?」


「エルメアにはいない。……ふわふわ?」


「ふわふわだな、主に」


「そう」


 ノアは頷いた。表情はほとんど動かなかったが、画面に落ちる視線が、さっきより半歩ぶん近かった。


「なあ。一枚、撮っていいか」


「……とる?」


「写真。この板に、ノアの姿を残す。嫌なら撮らない」


 ノアは少し考えて、こくりと頷いた。俺はスマホを構えて、シャッターを切った。地球の外で撮る、最初の一枚だった。


 画面を見せると、ノアは長いこと、自分の写真を見つめていた。水差しの花と、寝台の縁と、銀色の髪の女の子。ちゃんと写っている。輪郭の薄さも、そのままに。


「……消えてない」


「ああ。写真は覚えてる。こいつは忘れないんだ」


 ノアの指が、画面の縁にそっと触れた。触れて、離れて、もう一度触れた。その仕草の意味を聞くのは、やめておいた。





 それから、保護院に通うのが日課になった。


 九級の仕事は選べる幅が増えたが、遠征はまだ先の話で、夕方には時間が作れた。ノアと話す内容は、たわいもないことばかりだ。市場で見た変な商品。ガロの声のでかさ。フィムの経費の説教。ヴェルタ爺さんの「性格悪い」の一件。ノアは聞き役で、たまにひとことふたこと返す。「そう」「へんなの」「ガロ、うるさそう」。


 フィムも一緒に来る日があった。フィムが経費の話を始めると、ノアは俺のほうをちらりと見る。「ほら始まった」の目だった。感情表現が薄いだけで、この子は全部ちゃんと聞いて、全部ちゃんと思っている。それが分かってから、沈黙が苦じゃなくなった。


 三日目に、院長が検査の結果を持ってきた。


「やっぱり、あなたといる時間だけ、風化が完全に止まっています。それどころか、ほんの少しですが、輪郭が戻っている」


「なんで俺なんですか」


「分かりません。ただ……」


 院長は、記録の板を一枚めくった。


「ノアの風化は、他の漂流者と進み方が違うんです。普通は記憶からゆっくり薄れていく。ノアの場合は、時々、がくんと段差みたいに進む。まるで、彼女の中の何かが、少しずつ欠けていくみたいに」


 欠けていく。その言い回しが、妙に耳に残った。記憶は「薄れる」ものだ。「欠ける」のは、形のあるものだ。


「原因は、その、彼女の核が特殊とか?」


「調べようがないんです。核は、本人にも見えないものですから」


 なんで俺か、には、思い当たりがひとつだけあった。無主の器。空っぽの、主のない器。零れかけたものが、空の器のそばなら、こぼれずに留まる——素人の連想だ。それでも、変わり種といえば俺のギフトくらいしか思いつかない。院長には言わず、心の手帳の隅に、連想のまま書いておいた。


 帰り際、部屋を出る俺の袖を、ノアが小さくつまんだ。


 振り向くと、灰色の目が俺を見上げていた。いつもの静かな顔で、いつもより、ほんの少しだけ長い間があった。


「……あなたは、わたしを、忘れない?」


 三年ぶんの重さがある質問だった。この子はたぶん、何十回も同じ期待をして、何十回も初対面に戻られてきた。軽々しく答えるべきじゃない。分かっていたが、迷いはなかった。


「忘れない」


 俺は言った。


「俺、覚えてるのだけは得意なんだ。消えた世界の写真だって、まだ全部持ってる」


 ノアはしばらく俺を見て、それから、袖をつまんだ指を離した。


「……うそだったら、おこる」


「怒っていい」


「おこったら、こわいから」


「それは、ちょっと見てみたいな」


 ノアは答えなかったが、口の端が、ほんの一ミリだけ動いた気がした。目の錯覚かもしれない。錯覚でも、俺はそれを心の手帳に書いた。


 その日、部屋を出る俺の背中に、小さな声が届いた。おやすみ、と言ったのだと気づいたのは、寮に着いてからだった。


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