【第8話】新人試験
零の間は、床の先が世界の果てだった。
狭間に張り出した円形の足場。縁に手すりはなく、その向こうは灰銀色の虚無が広がっている。足場の材質は黒い石で、踏むと硬いのに、どこか船の甲板みたいに遠くで揺れている感覚がした。落ちたら死ぬのかとフィムに聞いたら、「安全網はあるよ。たぶん」と返ってきた。たぶん、じゃないんだよ。
あの灰色を、俺は一度、素で落ちている。二度目は御免だった。
試験の内容は、集合してから明かされた。
「各組、この足場の中央の灯りを守ってもらう。攻め手は私だ。制限は百数え。灯りを消されたら失格。私に一撃入れるか、守り切れば合格だ」
攻め手役の試験官は、痩せた初老の男だった。ヴェルタと名乗った。元三級、今はギルドの教官職。細い木剣を杖みたいに突いて、眠そうな顔で立っている。新人の間に、ちょっとした安堵の空気が流れた。爺さんが相手なら、と。
その眠そうな爺さんが、最初の組を二十数えで沈めた。
二人がかりの新人を、木剣一本で、踊るみたいに捌いて、最後は灯りをこつんと突いて消した。沈められた二人は、何が起きたか分かっていない顔で座り込んでいた。会場が静まり返った。手加減はしている。していて、あれだ。
「次、七組」
組がひとつずつ呼ばれて、ひとつずつ砕けていった。猟師上がりの組は罠を張って、罠ごと踏み潰された。傭兵崩れの二人組は正面から粘って、三十数えもった。それが最長記録だった。守り切った組はゼロ。一撃入れた組もゼロ。合格は「善戦」を拾われた三組だけ。基準は分からないが、ヴェルタ爺さんの眠そうな目が、時々ほんの少しだけ開くのは分かった。あれが「拾われた」瞬間らしい。
順番を待ちながら、俺はずっと爺さんを見ていた。やることがそれしかない、というのもある。だがそれ以上に、見れば見るほど、妙だったのだ。
(……この爺さん、疲れてない)
朝から十組以上を相手にして、息ひとつ乱れていない。おかしい。いや、強いのはいい。強さの種類が引っかかる。動きに、無駄がなさすぎる。
「十二組。ガロ・ヴァンデール、メグル」
呼ばれた。ガロが首を鳴らして、俺の背中をどやした。
「打ち合わせ通りな!」
「ああ。……頼んだ」
打ち合わせはシンプルだ。ガロが前で受ける。俺は灯りの脇で、見て、叫ぶ。それしかできないんだから、それをやる。
■
百数えが、始まった。
ヴェルタ爺さんは、歩いて来た。走りもしない。その一歩目から、ガロの受けが後手に回った。木剣の先が、ガロの視界の外から生えてくる。二合、三合。ガロの体格と膂力で、辛うじて弾き返す。弾いた音だけが景気よく響いて、実際は一方的だった。
「左肩!」
叫ぶ。ガロが左を固める。木剣がそこに来る。防いだ。
(……今、防げた)
まぐれじゃない。俺は爺さんの足を見ていた。踏み込みの前、後ろ足のつま先がわずかに開く。開いた向きの逆側に、剣が来る。三十数えの間に、それが四回。
四回とも、同じだった。
いや、足だけじゃない。俺は気づいてしまった。爺さんの攻めは、回っているのだ。右上、左胴、突き、払い、フェイントからの右上。五手でひと組の型が、順番を守ったまま繰り返されている。
待機中に見た他の組への攻めが、頭の中で重なった。同じだ。あのときも、この順番だった。
思い出したのは、コンビニのレジ打ちだった。夜勤明けの体は、考えなくても手が動く。袋、温め、レシート、袋、温め、レシート。慣れた作業は、ループになる。この爺さんは今日、何十組も相手をしている。全力を出す必要のない相手に、いちいち新しい手を考えるはずがない。省エネだ。同じ型を回して、受け手の質だけ見ている。
「ガロ! 次、突きが来る! その次は下、払いだ!」
「はあ!?」
「信じろ! 来る!」
突きが来た。ガロが半身でかわす。会場がどよめいた。続けて足元への払い。ガロが跳んで避ける。二連続。ガロの尻尾がぶわっと膨らんだ。興奮すると膨らむのだ、あれ。
爺さんの眠そうな目が、初めて薄く開いた。
「……ほう」
型が変わった。五手の組がばらけて、速度が一段上がる。読み切れない。ガロが押されて、じり、と下がる。だが、変えさせた。変えさせたということは、こっちの見えている場所が、一枚めくれたということだ。
「六十!」
数え役の声。残り四十。ガロの息が上がってきた。防戦一方では保たない。灯りまでの距離が、少しずつ削られている。
(一撃。どうやって。正面からは万年無理。なら——)
俺は灯りの脇から、一歩前に出た。攻め手の意識の外から、声だけを刺す。
「爺さん! あんた、朝から同じ型で何十組も捌いてるだろ! 楽な仕事だな!」
挑発に、爺さんの目がこっちを向いた。ほんの一瞬。木剣の圧が、俺という新入りの雑音を測り直す、その一瞬。
その一瞬に、ガロが吠えた。
打ち合わせにない、俺の独断。でもガロは乗った。考えるより先に体が出る男で、本当によかった。渾身の一歩、渾身の一振り。
ガロの木剣が、初めて爺さんの外套の裾をかすめた。
「……そこまで」
ヴェルタ爺さんは三歩下がって、木剣を杖に戻した。眠そうな目が、今度ははっきりと開いていた。
「一撃、とは言えんな。かすっただけだ」
会場が静まる。ガロの耳が、しゅんと伏せかけた。
「だが、私に型を変えさせたのは今日で一組だけだ。それと、囮の使い方が性格悪い。……合格」
性格悪いは余計だ。
零の間が、わっと沸いた。ガロが雄叫びを上げて、俺は膝から座り込んだ。戦ってもいないのに、心臓が馬鹿みたいに走っていた。ガロに引っ張り起こされて、肩を組まれて、そのまま危うく縁から落ちかけた。安全網の実在を確かめる羽目にならなくて、本当によかった。
■
合格者は、その場で九級の登録更新をする。白い縁の木札が、青い縁に変わる。
列に並んで、順番に水晶柱へ手を当てていく。ガロの計測は、数値が伸びていたらしく、係の職員に褒められていた。尻尾がまた膨らんでいた。分かりやすい奴め。
俺の番が来て、手を当てると、ひやりとした感触のあと、光の文字が浮かんだ。
係の職員が、手元の複写板と水晶を見比べて、手を止めた。
「……ん?」
「何か問題でも」
「いや、昇級は問題ない。おめでとう。ただ……」
職員は水晶の表示の、いちばん下を指で辿った。登録のとき点滅していた、あの項目だ。点滅は、今日は止まっていた。代わりにそこには、短い文字列が表示されていた。
職員が眉を寄せて、隣の先輩職員を呼んだ。先輩職員も眉を寄せて、奥から分厚い辞典みたいな本を持ってきた。二人でページをめくり、水晶を見て、またページをめくった。ページの音だけが続く。列の後ろの連中が伸び上がってこっちを見始めて、居心地の悪さが限界に近づいた頃、職員は本を閉じて、俺を見た。
「ギフト欄に、表示が出てる。だが……こんな名前のギフト、台帳に載ってないんだ」
「ギフトって、生まれつきの才能ってやつですよね。俺、そんなの持ってるはずが」
「水晶は嘘をつかない。……明日、鑑定室に来てくれ。ちゃんとした鑑定士が調べる」
職員は複写板に何かを書き付けて、俺にひらりと見せた。読めない文字が三つ、並んでいた。フィムが肩の上で、その文字を読み上げた。
「えっと……『無主の器』?」
むしゅのうつわ。
聞いたことのない言葉なのに、なぜか、背中の産毛が立った。
台帳にない界名。台帳にないギフト。俺のまわりだけ、台帳に穴が空いていく。




