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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第7話】理酔い

 界門街は、朝から検問待ちの列で賑わっていた。


 商人の荷馬車が並び、旅装の渡り手が札を見せて門に吸い込まれていく。門から出てくる連中もいる。埃と、知らない土地の匂いをまとって、みんなどこか、まだ目の焦点がこの街に戻っていない顔をしていた。


 初めて間近で見る界門は、思っていたより「門」だった。石の枠に、光の膜が張っている。膜の向こうは見えない。水面を縦にしたような膜が、静かに波打っている。門ごとに枠の意匠が違って、隣り合う門でも、まとう空気がまるで違った。片方は乾いた風の匂いがして、もう片方は、かすかに潮の匂いがした。門の前に立つだけで、向こうの世界の端っこに触れている。


 俺に割り当てられたのは、第一界圏行きの中でも一番賑やかな門の検問所だった。仕事は荷物運びと、通行記録の板を係に渡す係。つまり雑用の雑用である。


「気楽にね。十級の実習は、門の空気に慣れるのが目的だから」


 フィムはそう言ったが、その「空気に慣れる」が、俺には一番の難関だった。


 門から、圧が来るのだ。


 うまく言えない。光の膜がこちらに膨らんでくるような、耳の奥を親指で押されるような、目に見えない濃さ。プールの底に沈んだときの、あの水圧の親戚みたいな感じが、水もないのに肌に来る。門に近づくほどそれは強くなって、荷物を抱えて膜の三歩手前まで行ったとき、世界がぐらりと傾いた。


 気づいたら、石畳に膝をついていた。抱えていた荷物は、隣の検問係が抱き止めてくれていた。


「おーっと。兄ちゃん、初日か」


「……すみません。なんか、酔ったみたいに」


「そりゃ酔うさ。理酔いだ」


 検問係の中年は、慣れた様子で俺を日陰に座らせた。腰の水筒から薄い茶をくれた。生姜みたいな味がして、胃のあたりが少し落ち着いた。


「門の向こうは別の世界だろ。世界ってのはな、それぞれ自分の理——決まりごとで満ちてるんだ。門の膜はそれを堰き止めてるが、多少は漏れる。慣れねえ体にはキツいのさ」


「みんな、平気そうですけど」


「場数だよ。あとは体のつくりだな。俺も新人の頃は、この門の前で三日連続で吐いた」


「吐いたんですか」


「吐いた吐いた。今じゃ門に寄りかかって昼寝できる」


 自慢にならない自慢だった。だが、その軽口に救われた。三歩手前で膝をつく新人は、俺が初めてじゃないらしい。


「それにここは第一界圏、理の薄い世界の門だ。これが上位の界圏になるとな」


 中年は、界門街の奥を顎で指した。


 外周の奥まった一角に、ひときわ厳重な門が並んでいた。人通りが少なく、検問所というより関所で、門の枠は分厚く、光の膜は暗いくらいに濃い。あの一角だけ、空気の色が違って見えた。遠目にも分かる。あそこの圧は、こんなものじゃない。


「第二界圏行きだ。六級からしかくぐれねえ。理が濃くて、住んでる連中も桁違いに強い。さらにその奥が第三界圏行き、三級からだ。……界圏ってのは、聞いてるか?」


「世界の、階層ですよね。フィム……案内精霊から、少しだけ」


「そうだ。世界樹の枝ぶりの話だな。幹に近い枝ほど、樹液が濃い。俺たちからすりゃ、上を見てもキリがねえ。第一界圏だけで、渡り手の一生ぶんの世界があるんだからよ」


 上を見てもキリがない。


 その言葉に、俺は逆のことを考えていた。キリがないほど上があるなら、消えた世界の答えは、たぶん上にある。下で見つかる程度の答えなら、この街の誰かがとっくに見つけている。台帳から消えた界名の謎ごと、な。


(つまり俺は、いつか、あの濃い門をくぐらなきゃならない)


 三歩手前で膝をついた男の考えることじゃなかった。分かってる。分かった上で、俺はもう一度立ち上がって、荷物を抱え直した。


 夕方近く、門の膜が一度だけ、誰もくぐらないのに波打った。


 膜の中から、小さな木箱がひとつ、押し出されるように出てきた。誰の手も添えられていない、箱だけの帰還。検問係の中年が、それを見て黙って帽子を取った。列に並んでいた渡り手たちも、順々に目を伏せた。


「……あれは?」


「遺品返りだ。向こうで渡り手が死ぬとな、身につけてた登録札が、遺品を門まで運んでくる。体は、帰ってこられないことのほうが多い」


 箱は検問係が両手で受け取って、絹の布の上に置かれた。ギルドの壁に増える名前は、ああやって届くのか。俺は自分の木札を、服の上から握った。青い縁の、まだ真新しい札を。


 その日、俺は都合四回ぶっ倒れて、四回とも立った。四回目は膜の二歩手前まで行けた。一歩ぶんの進歩に、中年は妙に感心して、帰り際にこう言った。


「兄ちゃん、向いてねえのに向いてるな」


 誉め言葉として受け取っておいた。たぶん、この仕事の適性は二種類あるのだ。門に強い体と、門に懲りない頭と。





 昼と夜は、ガロとの連携練習だった。


 訓練用の的を相手に、ガロが動き、俺が見て、叫ぶ。決めた通り、三語まで。


「右、二つ!」「上だ!」「下がれ、挟まれる!」


 最初は俺の声が遅れた。ガロが動いてから見て、見てから考えて、考えてから叫ぶ。それでは遅い。三日目に気づいた。考えるのをやめればいい。目に入った瞬間、考える前に口に出す。写真と同じだ。いいと思ってから構えたらもう遅い。構えてから、いいのが来る。


 三日目にはガロの動きに声が追いつき、七日目には、ガロが向く前に声が出るようになった。


「メグルの声があると、背中に目ぇついてるみたいだな!」


「その背中がでかくて前が見えん。少し痩せろ」


「筋肉は痩せねえんだよ!」


 練習の帰りに、二人で屋台の串を食うのが習慣になった。竜人の親父はガロを見て「いい食いっぷりだ」と喜び、俺を見て「だから細いのから死ぬんだって」と串を増やした。もう怖くて聞き返せなかった。


 理酔いには、結局最後まで慣れなかった。ただ、倒れる寸前の予兆だけは分かるようになった。耳の奥の圧が、すっと冷たくなる瞬間。そこで一歩下がれば、倒れずに済む。自分の限界の輪郭を、一歩ずつなぞって覚えた十日間だった。





 試験の前夜、ガロが寮の屋上に上がってきた。手には瓶が二本。


「故郷の芋の酒。……と言いたいとこだが、明日があるからな。芋の汁だ」


「汁て」


 甘いんだか土臭いんだか分からない味だった。二口目からうまくなるのが不思議だった。三口目には、故郷の味というやつの正体が少し分かった気がした。うまいまずいじゃない。慣れだ。慣れは、思い出の別名だ。


 屋上からは、界門街の光がよく見えた。何百の門が、夜の中で静かに明滅している。ガロは瓶を傾けながら、ぽつりぽつりと故郷の話をした。草原の世界。五人の弟妹。仕送りのこと。故郷の焼き飯が世界一うまいこと。末の妹が、ガロの尻尾を枕にしないと寝ない話。


「六級になったらな、第二界圏の仕事が受けられる。日当が今の十倍だ。そしたら弟たちを学校にやれる」


「具体的な夢だな」


「夢は具体的なほうが追いかけやすいだろ。……で、メグルの故郷は、どんなとこだ」


 いつか来ると思っていた質問だった。


 俺は少し迷って、スマホを出した。ガロは「なんだそのちっこい板」と言いながら覗き込んだ。画面の中の、駅前の猫。サークル合宿の海。妹の入学式。灰色になる前の、ちゃんと青い空。


「……こんなとこ」


 ガロは長いこと黙って、一枚ずつ見た。漂流者の意味を、こいつはちゃんと知っている。だから何も聞かず、最後にひとことだけ言った。


「いい空だな」


「だろ」


 それで十分だった。ガロは瓶を干して立ち上がり、俺の背中をどやしつけた。


「寝ろ! 寝るのも仕事だ!」


「言われなくても寝る。……ガロ」


「あん?」


「明日、受かろうな」


「当ったり前だろ!」


 でかい声が、夜の屋上に響いた。門の光が、心なしか揺れた気がした。


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