【第5話】等価の街
渡り手証は、木の札だった。
白い縁取りは十級の印。裏に俺の名前と登録番号が刻まれている。読めないが、自分の名前くらいは形で覚えた。仕事の内容は、ざっくり言えば「街の中の下働き全部」。界門をくぐる資格は、まだない。
「十級は見習いだからね。街の外どころか、門にも近寄れないよ」
説明しながら、フィムは俺の肩の定位置に収まった。あれから正式に、俺の担当案内精霊になったのだ。担当契約の書類に代筆でサインしたとき、フィムはやたらと張り切っていた。
「言っとくけど、ボク、これでも崖っぷちなんだ。前に担当した渡り手、三日で辞めたから。次も逃したら案内係から外されるの。だからメグル、キミはボクの最後のチャンス! 辞めたら許さないんだからね!」
「重いんだよ、いろいろと」
「あと経費! 案内精霊の経費は担当渡り手の稼ぎから出るの! だからキミ、ちゃんと稼いでね! ボクの灯り代がかかってるから!」
「灯り代って何だよ」
肩の上の小さな重みに文句を言いつつ、内心では感謝していた。読み書きのできない俺にとって、こいつは目であり辞書であり、たぶんもう、相棒だった。
十級の初日は、依頼札の仕分けだった。縁の色ごとに棚へ戻す。色は読める。文字は読めない。つまり俺にちょうどいい仕事で、ちょうどよさが少し悔しかった。二日目は倉庫の荷運び。三日目は灯樹の清掃。灯樹の枝は本物の木みたいに温かくて、掃除のたびに、なんとなく礼を言いたくなった。
日当は界貨二十枚。宿代が八枚、飯が一食一、二枚。ぎりぎりの暮らしだが、保護院を出てギルド寮に入る資格はもらえた。寮費は日当からの天引きで、入り用の保証金と当座の飯代は、保護院が立て替えてくれるという。ありがたい。
問題は、金より文字だった。
値札が読めない。依頼札が読めない。道の看板が読めない。市場で串焼きを買うにも、指差しと「これください」で押し通すしかない。屋台の竜人の親父は三日目で俺の顔を覚えて、四日目には「いつもの」が通じるようになった。五日目には勝手に大盛りになっていた。人間、いや竜人、ありがたい。
「兄ちゃん、渡り手か。飯はちゃんと食えよ。細いのから死ぬからな」
「縁起でもないこと言いながら串増やすのやめてもらえます?」
「はっはっは」
笑って流された。この街の飯は、聞いたことのない香辛料の匂いがして、三日目までは違和感だったのが、五日目にはもう、この匂いじゃないと物足りなくなっていた。舌というのは、悲しみより順応が早い。
「メグル、夜に文字の練習しよ。ボクが教えるから」
「頼む。……なあフィム、前から聞きたかったんだけど」
俺は、街の外周を指差した。大小の界門が並ぶ、光る門の街並み。
「あの門って、誰が作ったんだ」
フィムの羽根が、ぴたりと止まった。
「……知らない」
「知らないって、案内精霊だろ」
「案内精霊だから言うけどね、誰も知らないんだよ。門の作り方は、とっくの昔に失われてるの。直し方もね。壊れたら直せる人もいない。だからみんな、門はすっごく大事に使ってる。門番があんなに厳しいのも、半分はそのせい」
誰も知らない。世界と世界をつなぐ、こんなにでかい仕掛けなのに。作った誰かは、どこへ行った。
妙な話だと思ったが、そのときはそれきりだった。俺には、目の前の暮らしのほうが切実だった。
■
等価の理、というものを体で覚えたのは、五日目の夕方だった。
給料日だった。日当五日ぶん、界貨百枚。革袋がずっしり重い。浮かれていたのは認める。市場の雑踏で、袋を上着の内側ではなく、腰にぶら下げていた。
ふっと、腰のあたりに気配がした。
振り向くと、男が立っていた。俺の腰の革袋に手を伸ばした姿勢のまま、固まっていた。指先は、袋の数センチ手前で止まっている。男は自分の手を見て、俺を見て、心底困った顔をした。
「……いや、これはだな」
「スリ、ですよね。今の」
「そうなんだが、届かん」
開き直られた。男は何度か指を伸ばしたが、そのたびに、見えない壁に阻まれるみたいに手前で止まった。本人が一番不思議そうだった。俺も途中から観察に回った。指が止まる位置は、毎回きっかり同じだった。
「等価の理だよ」
肩の上でフィムが欠伸まじりに言った。
「この街じゃ、対価なしに他人の物は奪えないの。物理的に無理なんだ」
(物理的に、って言った?)
俺が呆気にとられている間に、騒ぎを聞きつけた警備の獣人が来て、男はあっさり連行されていった。連行はされるのか。盗みは失敗する街でも、盗もうとした罪は残るらしい。去り際、男は「あんた、いい客だったのに」と意味の分からない捨て台詞を残した。客じゃねえよ。獲物だよ。
「便利だろ、この街。泥棒がいないんだよ」
「今、いたけどな」
「未遂しかできないの! あ、でも詐欺は気をつけてね。『納得して渡した』ことにされたら、理は守ってくれないから。壺とか買わされないでよ?」
「買わねえよ。……いや、待て。俺、値札読めないんだった」
「あっ」
二人で顔を見合わせた。翌日から、買い物には必ずフィムがついてくるようになった。過保護な財布である。
なるほど、奪えないなら、騙す。人間のたくましさは、どこの世界でも変わらないらしい。俺は革袋を上着の内側にしまい直した。理より習慣だ。地球育ちの習慣は、まだ俺の中で生きている。
■
寮の部屋は二段寝台の相部屋で、同室者は夜勤らしく、まだ会えていない。寝台の下段に「先に取った」という置き手紙らしき札があった。読めなかったので、フィムに読んでもらったら本当に「先に取った」とだけ書いてあった。潔い。
夜、フィムに文字を習った。共通語の文字は五十いくつの音字で、形は違えど仕組みは仮名だった。石板に借り物の白墨で、一文字ずつ書く。フィムは意外にも、教えるのがうまかった。褒めて伸ばす方針らしく、線が一本まっすぐ引けただけで大袈裟に拍手された。悪い気はしなかった。
三日で自分の名前が書けるようになった。「空木廻」は書けないから、音で「メグル」と綴る。
書けた文字を眺めていたら、ふいに、妹の入学式を思い出した。習いたてのひらがなで自分の名前を書いて、得意げに見せてきた、あの顔。
手が止まった。
「メグル?」
「……なんでもない。次の文字」
なんでもなくはなかったが、書くことはできた。一文字ずつ覚えるたび、この街で生きる俺が、少しずつ形になっていく。それは前に進むことで、前に進むのは、置いてきたものから離れることでもあった。
離れても、忘れない。それだけは決めていた。
六日目の朝、ギルドの掲示板の前に人だかりができていた。フィムが札を読み上げてくれた。
「えっとね、『新人登用試験、十日後実施。合格者は九級に昇級し、界門通行資格を得る』……メグル、これ!」
九級。門をくぐれる。
人だかりの中で、受付のミレーヌさんが補足の説明をしていた。いつもの柔らかい微笑みで、いつものように容赦がなかった。
「試験は実技です。例年の合格率はおよそ六割。死亡率は低いですが、零ではありません」
零ではありません、のところで、新人たちが静かになった。
俺は掲示板の札を、読めないなりに、もう一度見上げた。
(十日後、か)
界貨はない。経験もない。体力は、たぶんこの人だかりの中で最底辺。
あるのは、理由だけだった。でも理由なら、誰にも負けない自信があった。




