【第4話】渡り手ギルド
保護院の暮らしは、三日で限界だった。
飯はうまい。寝床は清潔。誰も俺を急かさない。つまり、考える時間が無限にあった。考えることといえば、ひとつしかない。それを考えると、胸の内側を素手で掴まれたみたいになる。
二日目の夜、メロウの爺さんに将棋みたいな盤遊戯を教わった。三回やって三回負けた。負けている間だけ、頭が静かだった。ああ、そういうことか、と思った。俺には、負けている場合じゃない何かが要る。手を動かして、頭を使って、疲れて眠れる何かが。
だから、働くことにした。
「いいと思うよ! 漂流者の社会復帰は保護院も推奨してるし。で、仕事だけど、読み書きできないメグルにできるのは、そうだなあ」
フィムが指を折りながら挙げたのは、市場の荷運び、灯樹の掃除、あとはギルドの雑用だった。
「ギルドって?」
「渡り手ギルド。この街のいちばんデカい組織。ほら、あの真ん中の時計塔、あれが本部」
「わたりて」
「界門をくぐって、よその世界で仕事してくる人たちのこと。探索とか、護衛とか、交易とか。ま、憧れの職業ってやつ? 死ぬけど」
「死ぬのか」
「死ぬよ? よその世界だもん」
フィムはあっさり言った。その軽さが、かえって本当らしかった。脅しの言葉は疑えるが、天気の話みたいに言われた「死ぬよ」は疑いようがない。
■
大時計塔は、近くで見ると首が痛くなる高さだった。
外壁の時計は文字盤だけで民家より大きい。フィムいわく、この鐘の音が都市標準時で、一日六回、街じゅうに響くという。
一階の大広間は、市場と役所を足して二で割ったような騒がしさだった。武装した連中が壁の依頼札を睨んでいる。札は縁の色で分かれていて、白、青、緑、その先は覚えきれなかった。等級の色らしい。受付には列ができて、隅の酒場ではもう誰かが乾杯している。まだ昼前だ。
「あの酒場、朝からやってんのか」
「遠征帰りに朝も夜もないからね。三日ぶりの生還祝いが朝メシどきに始まるの、ここじゃ普通」
生還祝い、という単語を頭の隅にメモした。生還が祝われる職場。コンビニとはだいぶ勝手が違う。
雑用の申し込みは受付でいいらしい。列に並びながら、俺は壁の一角に目を留めた。
石の壁一面に、文字がびっしり刻まれていた。
「フィム、あれは?」
「……名前だよ。帰ってこなかった渡り手の」
読めない文字の列が、天井近くまで続いていた。何百あるのか、何千あるのか。壁の下のほうの文字は古びて、上に行くほど新しい。つまり今も、増え続けている。壁の前には小さな台があって、花が一輪、置かれていた。誰かが今朝、置いていったばかりの色だった。
列が進んで、俺の番が来た。
「ご用件をどうぞ」
受付の女性は、柔らかい微笑みで俺を迎えた。胸元の名札は読めなかったが、フィムが「ミレーヌさんだよ。受付のぬし」と耳打ちしてくれた。ぬし。
「雑用の仕事を探してて。読み書きはできないんですけど」
「かしこまりました。漂流者の方ですね。倉庫整理と食堂の下働きが空いております。日当は界貨二十枚。相場より少し安いのは、身元保証が保護院立て替えだからです」
説明が明快で助かる。読み書きの練習所が寮の並びにあること、雑用の勤務歴も渡り手登録の推薦材料になることまで、聞く前に教えてくれた。この人は、俺みたいな迷子を毎日十人はさばいているんだろう。
頷きかけたとき、広間の扉が開いて、外の喧噪が流れ込んできた。
遠征帰りらしい一団だった。埃まみれの鎧。焦げた外套。担架がひとつ。広間の空気が一瞬だけ静かになって、酒場の連中が黙って杯を置いた。依頼札を睨んでいた男が、帽子を取った。担架の上の膨らみには、布がかけられていた。
布の下は、見えなかった。見えなかったが、分かった。
一団の先頭の女が、受付の列を無視してカウンターの端に進んだ。誰も文句を言わなかった。そういう決まりらしい。優先されるべきものが、この街では、はっきりしている。
「……六番門のパーティですね。手続きしてまいります。少々お待ちください」
ミレーヌさんは表情を崩さずに席を立った。その背中を目で追いながら、フィムが小声で言った。
「ね。死ぬでしょ」
「……ああ」
「メグルは雑用でいいんだよ。倉庫整理、平和だし」
平和だし、の語尾が少しだけ探るようだった。こいつ、たぶん気づいている。俺が三日間、保護院の窓から界門街ばかり見ていたことに。
■
結論から言うと、俺は雑用を申し込まなかった。
戻ってきたミレーヌさんに、俺はこう言っていた。
「渡り手の登録って、どうすればいいですか」
「メグル!?」
フィムが裏返った声を出した。ミレーヌさんは眉ひとつ動かさなかった。
「渡り手登録ですね。お受けできます。その前に、こちらの数字をご覧ください」
すっと差し出された板には、表が刻まれていた。読めない俺のために、彼女は指で辿りながら読み上げてくれた。
「新人渡り手の一年以内の死亡率、およそ一割。負傷引退を含めると三割。漂流者出身の方に限ると、数字はもう少し悪くなります。前提となる身体能力が違いますので」
「……脅してます?」
「事実の説明です。それでも登録なさる方だけ、お通ししています」
微笑みは崩れないまま、目だけが真剣だった。ああ、この人は毎日、あの壁に名前が増えるのを見てきた人なんだ。さっきの担架の手続きをしてきた手で、今、俺にこの数字を読み上げている。
「ちなみに、さっきの雑用は」
「死亡率、ほぼ零です」
「ですよね」
俺は、ポケットの上からスマホを握った。
地球の写真が入っている。俺しか覚えていない世界が、あの中に少しだけ残っている。保護院で飯を食って、倉庫で箱を運んで、安全に暮らして、それで俺の二十年は、思い出待ちの余生になる。
冗談じゃない。
世界は無数にある。消えた世界がどこへ行くのか、知っている誰かがいるかもしれない。台帳から消えた「地球」の謎を解く糸口が、どこかの門の先に垂れているかもしれない。確かめる方法は、たぶんひとつしかない。門をくぐる側になることだ。
「登録、お願いします」
(母さん。俺、就職しました。死亡率一割の仕事です)
我ながらひどい就職報告だった。でも不思議と、三日ぶりに、腹の底に力が入っていた。
「かしこまりました。では登録手続きを。危険への同意の誓約に、署名を」
署名は、フィムの代筆に指印を添える形で通った。指印を押すとき、少しだけ手が震えて、それを見られないように早く押した。
「では最後に、計測を。と言っても、水晶に手を当てるだけです」
案内されたのは、受付脇の水晶柱だった。手を当てると、柱の中に光の文字が浮かび上がる仕組みらしい。前の男が手を当てると、水晶は青白く光って、ずらりと数値を並べた。周りから「おお」と声が上がる。本人が一番得意げだった。
「どうぞ。手のひらを」
俺は水晶に手を当てた。
ひやりとした感触のあと、光の文字が浮かんだ。読めない。読めないが、前の男のときと比べて、明らかに、文字が少ない。短い。周りの「おお」が、微妙な沈黙に変わるのが分かった。誰かが小さく「うわ」と言った。聞こえてるからな。
そして表示のいちばん下で、何かの項目がちかちかと点滅していた。
ミレーヌさんが、水晶を見た。
それから俺を見て、もう一度水晶を見た。
初めて、微笑みが固まっていた。




