【第3話】界門都市アーケイル
台帳に俺の世界がない件は、「本部で調べる」という話になった。虎の獣人は書類を三枚書いて、フィムに一枚持たせて、俺には「気の毒だったな」とだけ言った。この街の人は、世界がひとつ消えることに慣れているらしかった。
慣れている、という事実そのものが、俺にはまだ飲み込めなかった。
門の内側は、音でできていた。
石畳の大通りに、屋台の呼び込みが重なる。鐘の音。車輪の音。笑い声。値切る声と、値切られて嘆く声。昨日まで音のない灰色にいた耳に、それは洪水だった。うるさい、と思って、それから、うるささに安心している自分に気づいた。音のある場所では、世界は続いている。
「ようこそ、界門都市アーケイルへ! 三千世界の交差点だよ!」
フィムが両腕を広げた。案内精霊の仕事モードらしい。声まで半音高いのが分かる。
「さんぜんせかい?」
「世界全部の呼び名。三千っていっても数えて三千じゃなくて、『数えきれないほどいっぱい』って意味ね。で、その世界と世界のあいだ、どこにも属さない狭間に浮かんでるのが、この街」
言われて、空を見上げた。
空がなかった。雲も星もない。淡い灰銀色の何かが、街全体に蓋をするように広がっている。あの落ちてきた灰色と同じ色のはずなのに、ここから見ると、なぜか怖くなかった。なのに暗くもない。通りに立ち並ぶ、木の形をした街灯が暖色に灯って、街に夕方みたいな色を与えていた。
「街灯が、木?」
「灯樹ね。世界樹を模してるんだって。……あ、それも三時間コースの話だから今はナシ!」
歩くほどに、目が忙しくなった。
鎧を着た男とすれ違う。その隣を、つるつるした銀色の、たぶん機械でできた人が歩いていく。屋台で串焼きを買っているのは、鱗のある大男だ。二階建ての乗り合い車両が線路の上を走っていって、あれは路面電車と呼んでいいのか、先頭に馬がいないのに動いていた。パン屋の看板娘は頭に角が生えていて、その角に値札を引っかけていた。器用か。
剣と魔法の世界と、機械の世界と、俺の知らない世界が、ひとつの通りに全部混ざっている。
(すげえ、って言いそうになった。やめろ。感心してる場合か)
でも正直、圧倒されていた。悲しみで胸が一杯のはずなのに、目だけが勝手に忙しい。シャッターを切りたい、と指が疼いて、その疼きに罪悪感が湧いた。人間の器用さが嫌になる。
「みんな、いろんな世界から来てるの。移民とか、商人とか、キミみたいな漂流者とか。ここはどの世界でもないから、誰のものでもない。だから、誰でもいられるんだ」
フィムの言い方には、ちょっとした自慢の響きがあった。
誰でもいられる街。世界を失くした奴でも、ということか。
■
連れて行かれたのは、漂流者保護院という施設だった。
白い壁の、静かな建物。大通りの喧噪が嘘みたいに、ここだけ音が薄い。中庭に、見たことのない花が咲いていた。青とも紫ともつかない、名前を知らない色。名前を知らない色というのは、それだけで少し、心細いものだと知った。
「世界を失った人を保護する場所。ごはんも寝床もタダ! その代わり、定期検査は受けてね。漂流者は放っておくと薄れちゃう人がいるから」
「薄れるって、狭間の外でもか」
「うん。……漂流者はね、失くした世界の記憶を核にして、自分を保ってるんだって。だから、その」
フィムは珍しく言い淀んで、ぱっと切り替えた。
「ま、検査受けてれば大丈夫! 受付行こ!」
受付で名前を書いた。書こうとして、書けなかった。この街の共通語は、耳で聞くぶんには日本語に聞こえるのに、紙の上の文字はまるで読めない。結局フィムに代筆してもらった。喋れるのに読み書きできないというのは、想像していたより心細いものだった。自分の名前すら、自分で証明できない。
案内された大部屋には、先客が十人ほどいた。
老人がいた。子供がいた。俺と同年代の男もいた。みんな、どこか輪郭の危うい静けさをまとって、思い思いの場所に座っていた。誰も俺をじろじろ見なかった。新入りの見方を、全員が知っている部屋だった。
「新入りかい」
隣の寝台の老人が声をかけてきた。皺だらけの顔に、人の好さそうな笑みが浮かんでいる。
「昨日……いや、いつだったかな。世界が、その」
「刈られたか。わしは十一年前だ。第六五二界、通称メロウ。いい世界だったよ。海がでかくてな」
老人はこともなげに言って、それから部屋を見回した。
「ここにいるのはみんなそうだ。あの子は火の世界、あっちの兄さんは歌の世界。……みんな、最後のひとりだ」
最後のひとり。
その言葉が、胸の真ん中に落ちた。俺は特別じゃなかった。世界を丸ごと失って、たったひとり生き残って、それでも俺は、この部屋では「よくある新入り」だった。
絶望が薄まるかと思ったら、逆だった。世界は、こんなに簡単に消えるのか。こんなに何度も、消えてきたのか。この部屋の人数ぶん、世界が消えている。この部屋の外にも、きっと。
「兄さん、名は」
「……空木廻。めぐる、でいいです」
「メグルか。いい名だ。忘れんよ」
忘れんよ、という何気ない一言が、その日いちばん、効いた。
■
夜になっても眠れなかった。
支給された寝間着は着心地がよくて、飯は温かくて、それが逆に落ち着かなかった。飯は野菜のスープと、丸いパンだった。うまかった。うまいと感じた自分に、また小さな罪悪感が湧いた。昨日世界が消えた男が、パンをうまいと思っていいのか。いいんだろう、たぶん。よくなくても、腹は減る。
俺はまだコンビニの制服を枕元に畳んでいる。捨てられなかった。財布も学生証も、この街では何の意味もない紙切れだ。それでも捨てられなかった。
スマホを開いた。
電波はない。当たり前だ。基地局ごと世界が消えた。それでも写真は残っていた。妹の入学式。サークル合宿の海。駅前の猫。灰色の夕焼け。バッテリーは八十七パーセント。この街に来てから、なぜか一パーセントも減っていない。理屈は分からないが、ありがたかった。この八十七パーセントが尽きたら、俺は地球を見る手段を失う。
指が止まったのは、母さんの着信履歴だった。
あの日の昼、十三時四十二分。不在着信、一件。
(かけ直すって、言ったんだよな。俺)
あとで、と言った。あとでは、もう来ない。
目の奥が熱くなって、俺はスマホを伏せて、窓の外を見た。
保護院の窓からは、街の外周がよく見えた。壁に沿って、大小の門がずらりと並んでいる。何百とある。どの門も形が違って、どの門もかすかに光っていて、夜なのに、門の前だけ人の出入りが絶えなかった。荷馬車が門に入っていく。門から旅装の一団が出てくる。まるで巨大な駅だ。終電のない、世界行きの駅。
いつの間にか、窓枠にフィムが座っていた。
「眠れない?」
「……あの門、なに」
「界門。この街の名前の由来だよ」
フィムは羽根を揺らして、こともなげに言った。
「あの門の先、全部が別の世界だよ」
全部が、別の世界。
何百という門の光を、俺は数えるのをやめた。数え切れないから三千世界、か。うまいこと言ったもんだ。
世界は消える。でも、世界は無数にある。
なら、消えた世界の行き先を知っている誰かも、どこかの門の先にいるんじゃないのか。
その夜、俺は初めて、悲しみ以外のもので眠れなかった。




