【第2話】狭間
灯りは、近づかなかった。
俺は灰色の中を落ち続けていた。落ちている、というのも正確じゃない。動いている感覚だけがあって、景色が変わらない。上も下も、右も左も、同じ灰色。距離の測りようがない。目印になるものが、あの灯りひとつしかないのだ。
時計を見た。動いていない。スマホの時計も止まっていた。バッテリーは八十七パーセントのまま減らない。機内モードにした覚えはないのに、アンテナの表示自体が消えていた。圏外ですらない。電波という概念の外にいる。
時間が経っているのかどうかも、分からなかった。
腹は減らない。喉も渇かない。それが逆に怖かった。体が、生きるための計算をやめている。
分かるのは、自分が薄くなっていくことだけだ。左手をかざすと、向こう側が透けた。爪の先はもう、ほとんど見えない。痛みはない。眠くなるのに似ていた。抵抗の仕方が分からない種類の、静かな終わり方。
(写真、消えるのかな)
ポケットのスマホを握った。灰色の夕焼け。止まった街。手ブレした空の亀裂。梓の入学式。あれが消えたら、地球があったことを示すものは、本当に何もなくなる。
俺が覚えている。それだけになる。
だったら、消えるわけにはいかないだろ。俺は透けかけた手でスマホを握り直して、意味もなく足を動かした。歩くつもりだった。灰色の何もない場所を、灯りに向かって。一歩の意味なんてない場所で、それでも一歩の形をつくった。
そのとき、頭の上で声がした。
「うっそ、動いてる! ねえキミ、生きてる? 生きてるよね? 喋れる?」
まぶしい何かが、顔の前に急降下してきた。手のひらに乗るくらいの、光の塊。目を凝らすと、光の中に小さな人影があった。羽根があって、腕を組んで、俺の顔を覗き込んでいる。
「……妖精?」
「案内精霊! 似て非なるものだよ!」
小さいくせに声はよく通った。妖精、いや案内精霊は、俺の周りをぐるぐる回りながら早口でまくし立てた。
「はぐれた渡り手かな、いや装備がヘンだし、その恰好なに、制服? っていうかキミ、薄っ! 半分透けてるじゃん! 狭間に生身で何分いたの? 普通もう消えてるよ!? ああもう、説明はあと! 掴まって!」
「掴まるって、どこに」
「気持ちで!」
無茶を言われた。が、次の瞬間、体がぐんと引っ張られた。小さな光に引かれて、灰色の中を進んでいく。さっきまでの「落ちている」が嘘みたいに、方向というものが生まれた。遠かった灯りが、みるみる大きくなった。
それは、街だった。
灰色の何もない空間に、ぽっかりと浮かんだ街。高い壁と、その中に密集する屋根、屋根、屋根。中央に時計塔がそびえて、街全体が暖色の光の粒をまとっていた。夜祭りを遠くから見たときみたいな、腹の底があったかくなる光だった。
こんな状況じゃなければ、綺麗だと思っただろう。いや。
こんな状況でも、綺麗だと思ってしまった。物心ついてから写真を撮ってきた目は、こういうとき薄情なくらい正直に動く。
■
壁の門をくぐった瞬間、体に重さが戻った。
地面を踏んでいる。その当たり前の感触に膝が抜けて、俺は石畳に手をついた。手をついた自分の手が、ちゃんと不透明だった。爪の先まで見える。石畳は冷たくて、ざらついていて、その冷たさとざらつきが、ありがたくて仕方なかった。
「セーフ! ぎっりぎりセーフ! 都市の中なら薄れないからね。よかったぁ、ボク、目の前で人が消えるのはもう見たくないんだよね」
精霊は額の汗を拭う仕草をした。汗をかくのか、この体で。
「あの……ありがとう。助かった、と思う。たぶん」
「どういたしまして! ボクはフィム。界門都市の案内精霊。キミは?」
「空木廻。……うつぎ、めぐる」
「メグルね。オッケー。で、メグル」
フィムはすっと俺の鼻先まで飛んできて、さっきまでの騒がしさを消した声で言った。
「キミの世界、剪定されたんだね」
「……せんてい?」
「うん。刈られたの。世界ごと」
庭木でも刈るみたいな言い方だった。俺は石畳に座り込んだまま、その言葉を頭の中で三回くらい転がした。剪定。刈られた。世界ごと。単語の意味は分かるのに、並べると意味が入ってこない。
「待ってくれ。じゃあ、あれは……事故とか、災害とかじゃなくて」
「そこの説明、ボクがやると三時間かかるからさ。とにかく中入ろ? キミ、漂流者ってやつなの。世界が刈られるとき、まれーに外に弾かれて生き残る人がいるんだ。ほっとくとさっきみたいに薄れて消えちゃうから、保護しなきゃなんだよ」
まれに、生き残る。
その言い方が引っかかった。まれに、ということは。
「……他のみんなは。俺の家族は。世界と一緒に、消えたのか」
フィムは答えなかった。宙に浮いたまま、羽根の動きが少しだけ鈍った。小さな顔が、初めて困った形になった。それが答えだった。
母さん。梓。店長。写真サークルの連中。顔が、順番に浮かんだ。浮かんだ顔のひとつひとつに「消えた」を付けていく作業を、頭が勝手に始めて、三人目で止まった。それ以上は、処理できなかった。
俺は何か言おうとして、何も出てこなくて、代わりに笑った。笑うしかなかった。のり弁みたいな味気ない毎日だった。バイトして、寝て、たまに写真を撮って。あの毎日が丸ごと、庭木と同じ扱いで刈られた。
「……ハハ。何だよ、それ」
「メグル」
「何なんだよ、それ……!」
石畳を殴った。痛かった。痛みがあるのは、俺が生きているからだ。生きているのが、俺だけだからだ。殴った拳の痛みと、その理屈の痛みは、比べものにならなかった。
フィムは何も言わずに、俺の肩の上に降りて、小さな重さだけを乗せていた。手のひらサイズのくせに、その重さは妙に、ちゃんとあった。
■
どれくらいそうしていたか分からない。顔を上げると、門の内側の詰め所から、制服姿の大男がこっちを見ていた。虎柄の耳が生えていた。獣人、というやつなのか。現実感のなさに、逆に頭が少し冷えた。悲しみと驚きは、同時には満タンにならないらしい。
「フィム。そいつは?」
「漂流者! 保護案件! いま連れてく!」
「なら手続きだ。……おい、あんた。界籍は」
カイセキ。分からない単語だったが、意味は察しがついた。どこの世界の者か、という質問だ。
「……地球、です」
「チキュウ。聞かない名だな。通称か? 正式な界名は」
「正式も何も、地球は地球です。あとは……英語だとアース?」
「アース」
虎の獣人は、手元の分厚い台帳をめくった。革の表紙が年季で黒ずんでいる。ページをめくる音が、二回、三回、四回。眉間の皺が深くなっていく。
「チキュウ、アース……どっちもないな。登録にない界名だね」
「え?」
「剪定済みの界も含めて、この台帳には三千世界全部の名が載ってる。刈られた世界は名前に線を引いて残す決まりだ。あんたの世界がほんとに刈られたなら、線の引かれた『チキュウ』がなきゃおかしい。だが……ない。地球なんて界は、どこにもないよ」
台帳がこちらに向けられた。読めない文字がびっしり並んでいた。読めないのに、そこに自分の世界がないことだけは、なぜか分かった。
消されただけじゃない。
最初から、なかったことになっている?




