【第1話】世界から色が抜ける
コンビニ夜勤明けの空は、いつもより薄かった。
最初はそう思っただけだった。徹夜明けの目なんて信用ならない。レジ締めで百円合わなくて三十分粘った朝なら、なおさらだ。ちなみに百円は、レジの下に落ちていた。屈んだ拍子に腰を痛めかけた俺の三十分を、店長は「あるあるだね」で片付けた。あるあるで済むか。俺の朝を返せ。
大学は春学期の中だるみで、今日は午後の講義がひとつだけ。つまり寝られる。二十歳の人生設計としてどうなんだと自分でも思うが、寝られるという事実の前では、大抵の反省は無力だった。
アパートまでの十五分、俺は歩きながらスマホを構えて、癖で一枚撮った。電線と、その向こうの空。我ながら地味な被写体だが、電線の区切る空というのは、朝に撮ると案外綺麗なのだ。
撮った画像を見て、首をひねった。画面の中の空も、薄い。
(露出のせいだろ。寝よう)
設定をいじる気力もなくて、俺はスマホをポケットに戻した。部屋に帰って、カーテンを閉めて、泥みたいに寝た。
昼過ぎに起きたら、妹からメッセージが来ていた。
『お兄、空変じゃない?』
『変って何が』と返すと、秒で既読がついて、『色薄い。学校で騒ぎになってる』と返ってきた。高校生の騒ぎなんて大体そんなもんだろ、と思いながらカーテンを開けて、俺は指を止めた。
昼の空が、朝より薄かった。
水で溶いた絵の具みたいな、記憶より二段階淡い青。インスタントの焼きそばを作りながらニュースを流したら、アナウンサーが「観測史上初の大気光学現象」と言っていた。日本だけじゃない。世界中で、空の青が薄いらしい。専門家がもっともらしい図を出して、成層圏の粒子がどうとか説明して、最後に「原因は特定されていません」と付け足した。
「なんだそれ」
声に出して笑った。笑って、焼きそばを食った。世界規模の異常気象より、麺に絡まないソースのほうが、そのときの俺には切実な問題だった。
母さんから着信が入ったのは、その直後だった。
画面に「実家」と出た瞬間、面倒くささが先に立った。どうせ空の話だ。テレビで見たままのことを心配して、テレビで見たままのことを言う。梓の模試の話も三割くらい混ざる。長い。あと、たぶん米を送ると言い出す。米はまだある。
「……あとでかけ直すわ」
俺は通話を切って、皿を洗った。
あとで。その言葉を、俺はこの先ずっと数え直すことになる。
■
夕方、講義が休講になった連絡を確かめてから外に出て、異変が「空の色」では済まないことを知った。
交差点の信号が、灰色だった。
赤でも青でもない。点いてはいる。光ってはいる。なのに色がない。古い映画のワンシーンみたいな、濃淡だけの光。運転手たちは普通に止まり、普通に発進していた。誰もクラクションを鳴らさない。
「なあ、あれ」
隣で信号を待っていたスーツの男に、思わず話しかけた。男は俺を見て、信号を見て、不思議そうな顔をした。
「赤、ですけど」
「……ですよね。すみません」
男にはあれが赤に見えている。俺は愛想笑いして、それ以上は言えなかった。頭のどこかで、朝の写真のことを考えていた。カメラにも、あの空は薄く写った。カメラは疲れない。徹夜もしない。
スマホを構えて信号を撮った。画像の中でも灰色だった。
カメラは嘘をつかない。なら、おかしいのは世界のほうだ。それとも、世界と俺以外の全員か。
SNSを開いた。「空、薄くない?」という投稿が昼まではいくらでも流れていた。夕方になると、それが減っていた。トレンドから消えたとかじゃない。投稿そのものが、間引かれるみたいに減っていく。さっき見た投稿を探したら、なかった。投稿者のアカウントごと、なかった。消されたんじゃなく、最初からなかったみたいに、なかった。
(落ち着け。通信障害。垢消し。バズの賞味期限切れ。いくらでも説明はつく)
つく。つくけど、指先が冷えていた。
梓とのトークを開いた。昼の『色薄い』が、履歴から消えていた。俺の『変って何が』だけが、宛先のない独り言みたいに残っていた。
俺はもう一度、実家に電話をかけた。
呼び出し音が鳴らなかった。圏外でもない。話し中でもない。耳に当てたスマホの向こうに、音がひとつもない。アプリの通話も試した。繋がらない。梓に送ったメッセージは、送信済みのまま止まっていた。既読は、つかなかった。
夕焼けが、灰色だった。
俺はそれも撮った。ほとんど意地だった。何かがおかしくなっていくなら、せめて記録くらいは残る側にいたかった。シャッター音だけが、やけに大きく聞こえた。
■
夜になって、街が止まった。
駅前まで走った。走りながら、すれ違う人の数がおかしいことに気づいていた。少ないんじゃない。動いていないのだ。
横断歩道の真ん中で、買い物袋を提げた老婦人が止まっていた。歩く形のまま、片足を浮かせて、蝋人形みたいに。コンビニの前で、高校生が三人、スマホを覗き込む姿勢のまま止まっていた。画面は灰色に光っていた。駅前のロータリーでは、タクシーが客を乗せる途中の形で止まっていた。開いたドアと、伸ばされた腕と、浮いたままの片足。
「……おい」
声をかけた。肩に触れる勇気は出なかった。触れたら、この人が倒れてしまう気がした。倒れたものは、二度と起き上がらない気がした。
動いているのは俺だけだった。
風もなかった。音もなかった。自販機の稼働音も、遠くの車の音も、電線のうなりも、全部消えていた。世界から音を抜いたら、こんなに静かになるのか。自分の心臓と、自分の靴の音だけが、街に響いていた。
(夢だ。夢オチだ。こういうのは大体、走ってるうちに目が覚める)
覚めなかった。代わりに、空が裂けた。
裂けた、としか言いようがなかった。灰色の夜空に、もっと暗い灰色の線が走った。稲妻じゃない。光らないし、消えない。線はゆっくり広がって、亀裂になった。古い壁紙が剥がれるときみたいに、空の端が、めくれた。
めくれた向こうには、何もなかった。
黒ですらない。「何もない」という色があるなら、あれがそうだ。目に入れてはいけないものを見た気がして、なのに目が離せなかった。
俺は逃げた。どこへ、という当てもなく走った。走りながら、馬鹿みたいにスマホを空に向けて、最後の一枚を撮った。灰色の空と、めくれた世界の端。手ブレのひどい、ろくでもない写真。
それが、俺の撮った地球の最後の写真になった。
亀裂は空だけじゃなかった。ビルの壁を走り、道路を走り、止まったままの人々の間を走った。世界が、大きな手で畳まれていく。遠くの街並みが、本のページみたいに折れて、たわんで、閉じた。マンションが。学校が。俺のバイト先の、百円の落ちていたレジも。
畳まれる波が、俺に届いた。
足元が消えた。落ちる、と思った瞬間、体が横に引っ張られた。畳まれていく世界の折り目から、指で弾かれた紙屑みたいに、俺だけが外に飛んだ。
どうして俺だけ、なんて考える余裕はなかった。
最後に見た地球は、灰色の一枚の紙になって、音もなく折り畳まれて、消えた。母さんの「あとで」も、梓の消えたメッセージも、コンビニの百円の誤差も、二十年ぶんの全部が、あの一枚の中にあった。
叫んだと思う。何を叫んだかは覚えていない。
俺は灰色の何もない空間を、ゆっくりと落ちていた。上も下もない。寒くも暑くもない。ただ、自分の輪郭が端から薄くなっていくのが分かった。ああ、消えるんだな、と他人事みたいに思った。世界が消えたんだから、俺も消える。理屈は通ってる。
(……嫌だ)
通ってたまるか。
誰が納得するか、あんな終わり方。ろくに親孝行もしてない。梓の合格祝いも渡してない。かけ直すって言ったんだ。あとで、って言ったんだ。
薄れていく指先に力を込めて、俺は顔を上げた。
灰色の果てに、ひとつだけ、灯りが見えた。
星じゃない。もっと近くて、もっと暖かい色。誰かがそこで、火を焚いているような。
俺は、その灯りに向かって手を伸ばした。




