【第47話】渡し船
湊の大工の槌音は、朝から日暮れまで止まなかった。
あの夜から、四日が経った。破れた桟橋には新しい板が渡り、軒には提灯が戻った。西から褪せていった色は、貸してた分を取り立てたみたいに、どの軒先でも濃くなっていた。湊は、立ち直りの早い町だった。
俺の指先は、立ち直らなかった。
右手の第一関節から先は、薄いままだ。痛みはない。物も掴める。ただ、朝日にかざすと向こうが透ける。ヴァンは「都市に戻れば、それ以上は進まないよ」と言った。進まない、であって、戻る、じゃない。聞き返さなかった。聞けば答えが確定しそうで、やめておいた。
出立は、明日の朝と決まった。帰りの船団と一緒だ。積み荷はとうに終わっていて、あとは俺たちの都合待ちだったらしい。護衛対象を待たせた日数を、フィムが胸ポケットの中で帳面につけ始めた。声はまだ蚊の鳴くようだが、経費の話になると張りが出る。回復の目安には丁度いい。
「都市に帰ったらね、灯樹の下で三日寝るの。それでね、超過労務ぶんの手当を申請するの……。ボク、今回は働きすぎたよ……」
「申請先はどこだよ」
「ギルドの精霊課! あるんだよ、ちゃんと!」
張りが出てきた。何よりだ。
ガロは大工仕事を手伝いに行って、木材を一度に運びすぎて、逆に現場を混乱させて帰ってきた。ノアは、というと、番屋の縁側で筆を握っていた。
スズが教えているのだ。膝の上に紙を置いて、一画ずつ。
「そう。留めて、はねて。……うまい」
ノアが書いていたのは、自分の名前だった。この世界の字で、ノ、ア。針で刻んだみたいな、細くて真剣な字だった。
書き終えて、ノアはじっと墨を見ていた。俺も見ていた。数分経っても、墨は逃げなかった。黒いまま、紙の上にいた。
「……いる」
「ああ。いるな」
ノアはその紙を丁寧に畳んで、蜜煮の薬瓶と一緒に懐へ仕舞った。世界でいちばん小さい荷物に、宝物がひとつ増えた。
夕方には宿の女将が、「ぎんの様、明日発つんですって?」と飯を大盛りにしてきた。この人が「そちらの娘さんは、どちらの」と首を傾げた晩を、俺は忘れていない。本人は、覚えてもいないだろう。それでいい。忘れられた側が覚えてる分には、誰も損をしない。
■
出立の朝は、よく晴れた。
船着き場には、見送りがぞろぞろ来た。宿の女将は竹皮包みを四つ押しつけてきたし、番屋の親父は何度も頭を下げたし、名の戻った樽職人は樽をひとつ土産に持たせようとして、ガロに本気で検討させた。網子とさよさんの夫婦は、端のほうで息子を抱えて立っていた。派手に手は振らない。ただ、最初から最後まで、いた。
トメ婆さんの渡し船が、船団の先導だった。俺たちは最後の渡しで、婆さんの船に乗った。ヴァンは例の文箱を膝に置いて、船尾で目を閉じている。あの箱は、あれから一度も体から離していない。
スズは、桟橋の突端で弾いていた。
初めて聴く曲だった。明るくて、少しだけ寂しい。船が離れるのに合わせて作ったような曲だった。実際、そうなのかもしれない。あの人の音は、この湊の全部でできてるから。
船縁に手をかけて、俺は、ふと艫を見た。
木の肌に、彫り跡があった。まだ新しい、白い削り口。平仮名で、三文字。
めぐる。
息が、一拍止まった。振り返って桟橋を見る。スズの袖口に、木屑がひとつ、ついたままだった。《観察》ってのは、こういうとき、余計なものまで拾う。
船の名前を削る習俗の話を、来た日に聞いた。呼ばれないために、名を消す世界だ。その世界の船に、あいつは、名前をひとつ彫り足した。
何も言わなかった。言えば、たぶん誓いより重くなる。
■
海峡を渡る半日、トメ婆さんはいつも通りだった。潮を読み、艪を叱り、ガロの座る位置に文句をつけた。小島の船着き場に船底が擦れて、門の藍色の膜が見えたとき、婆さんは初めて手を止めた。
「……着いたよ。ほら、行った行った」
「世話になりました。何から何まで」
「渡しの仕事をしただけさ」
婆さんはそれから、俺の顔をじっと見た。しわの奥の若い目で、値踏みするみたいに、長いこと。
「名ぁ大事にしな、若いの」
「はい」
「あんたのも。……人のも、だ」
「はい」
それ以上は何も言われなかった。俺も、何も言えなかった。この人は、まもなく俺を忘れる。教わったことだけが、俺の側に残る。名前の値段も、忌み言葉も、綱引きの作法も、全部この人がくれたのに。
スズも、最後の渡しに乗ってきていた。門の前で、深々と頭を下げる。
「今度いらしたら、また一曲」
「ああ。……楽しみにしてる」
今度、は来ない。来ても、そこに俺を待ってる人はいない。分かってて、俺はそう答えた。嘘じゃない。楽しみにしてるのは、本当だからだ。
門の膜が、波打った。
ガロが先にくぐり、フィムを乗せたノアが続き、ヴァンが箱を抱えて続いた。俺は最後に、一度だけ振り返った。
アルディアでは、振り返らなかった。振り返らないことに全部を使った。今度は、見ておくと決めていた。これも渡り手の給料の内だってなら、目を逸らして受け取り損ねるのは、なんだか違う気がしたからだ。
光の中で、トメ婆さんの目が、俺の上をするりと素通りした。
誰を乗せてきたんだったかね、という顔で、婆さんは煙管を探した。スズの上げかけた手が、宙で迷って、ゆっくり下りた。首を傾げて、それでも彼は、思い出そうとするみたいに、しばらく門のほうを見ていた。
膜をくぐる最後の一瞬まで、俺は見ていた。
あの船の艫で、彫り跡だけが、まだ俺の名前を覚えている。
■
界門街の雑踏は、いつも通りだった。
検問の竜人の親父が「おう、帰ったか」と手を上げた。飯の匂いと、灯樹の明かりと、路面機関車の鐘。都市は、何も忘れていなかった。俺たちの名前は、ここでは勝手に消えたりしない。
それが、ありがたくて、少しだけ、ずるい。
俺はしばらく、誰とも口をきかずに歩いた。ガロも黙っていた。フィムですら、経費の話をしなかった。
寮への角を曲がる手前、灯樹の下で、ノアが足を止めた。
「めぐる」
振り向くと、ノアは俺の右手を見ていた。薄れたままの、指先を。それから顔を上げて、言った。
「わたしは、わすれない。……けいやくが、なくても」
夕方の灯樹の光の中で、ノアは、あの下手くそな笑い方をした。
返事をする代わりに、俺はその頭に、薄れた指ごと手を乗せた。重さは、ちゃんとあった。
「……メシ食って帰るか。あまじょっぱいやつは、ないけどな」
「ん。……あまいのが、いい」
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ギルドの大扉をくぐった瞬間、空気が硬いのに気づいた。
夕方の酒場前だってのに、笑い声がない。渡り手たちが妙に静かで、受付の列も口数が少ない。ミレーヌさんが俺たちを見つけて、ほっとした顔をして、それからすぐ、その顔を引き締めた。
「おかえりなさい。……マスターが、お呼びです」
二階の執務室で、オルドアは腕を組んで立っていた。隻眼が、入ってきた俺たちを順に見て、机の上の二通の書状に落ちる。一通は、ギルドの紋。もう一通は——見たことのない、灰色の封蝋。
「戻ったか」
低い声が、言った。
「昇圏試練の通達が来た。……剪定局からもだ」




