【第46話】言霊
境内の白い玉砂利が、夜の底で薄く光っていた。骨まで届いた問いが、まだ体の中で鳴っている。
「名ヲ、預ケルニ足ルカ」
二度目の問いは、最初のより深かった。境内の空気の全部が、俺の返事を待って張り詰めている。
足るか、と聞かれた。
「足りる」と言えば、たぶん嘘になる。俺は自分の重さを知っている。最弱の渡り手で、走るのが遅くて、界律ひとつ制御するのに丸々ひと月かかった男だ。そして俺の帳簿は、嘘を証文にしない。
だから、言えることだけを言った。
「……足りるかどうかは、分からない。分からないことを、誓えない」
息を吸う。潮と杉の匂いがした。
「けど、これだけは言える。俺は、預かった名前を忘れない。ひと欠片も、この先も。……忘れないことだけなら、どの世界の誰にも負けない。俺の器には、それしか取り柄がないんだ」
沈黙が、一拍。
それから、世界が答えた。
「——預ケル」
丸い石が、割れるかと思うほど強く鳴った。
光じゃなかった。碑のときは、光だった。今度は、音だ。名前だ。この世界の名前という名前が、御神体から俺の喉へ、束になって流れ込んでくる。潮の名、杉の名、湊の名、櫓の名、風鈴の名。一音ずつが景色を持っていて、景色ごと俺の中に居場所を作っていく。
器が、みしりと軋んだ。
最後に、いちばん底から、ひとつの名前が来た。長い、長い名前だった。この世界がまだ若かった頃に、最初に名乗った名前。全部の名の、根っこの一音。
受け取った瞬間、世界がくっきり見えた。見えた。そして、制御が消えた。
「が……っ」
喉が、勝手に熱を持つ。《誓約》のときは、胸の帳場が言葉を選り分けた。今度のは違う。喉に住み着いた何かが、俺の口から出る音を、片っ端から力に変えようとしている。
「まず——」
まずい、と言いかけただけで、足元の玉砂利が弾け飛んだ。言葉が、出た端から世界を掴む。しかも胸の帳場が、その全部を証文に綴じようとして、二つの界律が俺の舌の上で綱を引き合った。
(黙れ。黙れ黙れ、何も言うな)
口を閉じても、収まらなかった。行き場をなくした力が、今度は内側を向く。錨を探してるんだ、と、掻き回される腹の底で分かった。名を呼ぶ力は、まず呼び手の名に根を張ろうとする。俺の中の、俺の名前に。
そして俺の中には、それが、ない。
どの世界の帳簿にも載っていない、無主の器。根を張る場所を探して、力が俺の中を掻き回す。底のない空井戸に、世界ひとつぶんの名前が渦を巻いて落ちていく。指先が、見る間に薄れた。第一関節、第二関節。存在が、燃費の悪い薪みたいに燃えていく。
鳥居のほうで、ガロの怒鳴り声がした。俺の異変に気づいて、こっちへ来ようとしている。駄目だ、来るな。名前を呼ぶな。いま呼ばれたら、呼び返してしまう。呼び返したら、あのでかい体ごと、この渦に巻き込む。
視界が、灰色に狭まった。
その真ん中で、声がした。
「めぐる」
小さくて、静かで、間の多い声だった。
「めぐる。……こんどは、わたしが、よぶ」
ノアが、俺の正面に立っていた。逃げもせず、退きもせず、薄れかけた俺の右手を、両手で包んで。
「めぐる。ここ。……ここに、いて」
渦の底に、糸が一本、降りてきた。
俺の名前だ。俺の中にはない、俺の名前。三年間保護院で消えかけてた子が、名前ごと喰われた夜ですら手放さなかった、あの契約の糸の先の「めぐる」。
力が、そこに根を張った。
喉の熱が、すっと引いていく。暴れていた名前の渦が、糸を芯にして、ゆっくり、ゆっくり、巻き取られていく。俺の錨は、俺の中にないらしい。あの晩ノアが俺の呼び声を聞いたように、俺の名前は、ノアの中で生きている。
「……悪い。もう、大丈夫だ」
「ん」
「おまえ、怖くなかったのか。いまの俺、たぶん相当やばかったぞ」
「こわかった。……でも、よべば、きこえるって、しってた」
ノアはそう言って、下手くそに笑った。俺の右手を包んだままの小さな両手は、いまごろになって、細かく震えていた。怖かった、は本当で、呼べば聞こえる、も本当だったわけだ。
(……敵わないな、まったく)
震える手ごと、軽く握り返した。それで貸し借りの帳尻ってことにしておく。
境内の外で、主の咆哮が響いた。休んでる暇はない。俺は西の空を見た。杉の稜線の向こう、湾の対岸で、灰色の裂け目が夜空を割っている。ここからでも見える大きさになっていた。
名を呼ぶ力。なら、呼んでやる。
俺は、いちばん底のあの名前を、喉に上らせた。長い、長い名前。音にした端から喉が灼けて、存在の薪がごうごう燃える。それでも、一音も間違えなかった。間違えるわけがない。俺は、預かった名前を忘れない。
世界の名を呼び切って、最後に言った。
「——閉じろ」
夜が、応えた。
湾の向こうで、灰色の裂け目が、身じろぎした。破れた幕の端と端が、見えない手で引き寄せられる。裂け目は抗うように二度、三度明滅して、それから、縫い合わさるみたいに閉じていった。線になり、糸になり、消えた。
世界の軋みが、止んだ。
静けさが、湾の上をゆっくり渡ってくる。石段の下生えで蠢いていた墨色の影が、ばたばたと崩れて灰になっていくのが見えた。潮が引くってのは、ああいうことを言うんだろう。
境内の入り口で、主が、よろめいた。
胸の芯の脈が、乱れている。裂け目と一緒に、力の潮も引いたのだ。ガロは、それを見逃す男じゃなかった。
「オレの、番だっつったろがよ……!」
渾身の右が、灰色の芯を真正面から打ち抜いた。
罅の音がして、主の巨体が、頭から順に灰にほどけた。名の束のなくなった灰は風に散って、玉砂利の白に混ざって、消えた。最後まで、声はなかった。
■
夜が明けた。
東の空から順に、色が戻ってきた。西から褪せていた提灯の橙が、幟の紅が、鳥居の朱が、逆回しみたいに深さを取り戻していく。湊の屋根の向こうで、朝日が、ちゃんと朝日の色をしていた。
石段を上ってきたヴァンは、その空をしばらく眺めて、それから、独り言みたいに言った。
「……引いたね。アルディアのときと、同じ引き方だ」
「偶然、ですか」
「さあね」
それきり、ヴァンは何も言わなかった。ただ、空を見る目が、少しも安心していなかった。二度目、と俺も胸の中でだけ数えて、その先は考えないことにした。考える材料が、まだ足りない。
「それより、だ。もう喋って平気なのかい」
「……たぶん。錨が、入ったんで」
「《言霊》。この世界の理の、芯の名だよ。……まったく、とんでもないものを預かったねえ」
ガロが、俺の肩をでかい手で叩いた。叩いてから、慌てて手を引っ込めた。
「お、おい、メグル。念のため言っとくが、しばらく独り言は禁止だぞ! おまえの寝言で地面が割れたら、オレは笑うに笑えん!」
「善処します」
フィムが胸ポケットから、豆粒の光でぼやいた。
「界律ふたつの渡り手の担当なんて、聞いてないよう……。手当、出るのかなあ……」
笑って、俺は自分の右手を見た。
朝日に、指をかざす。
第一関節から先が、薄い。玉砂利の白が、指の向こうに透けて見える。《誓約》のときも、大会のときも、使えば薄れて、飯を食って寝れば戻った。だから今度も、そのはずだった。
朝メシの時間は、とうに過ぎた。
指先は、まだ、透けたままだった。




