【第45話】綻びの夜
湊の通りは、瞬く間に半鐘と怒号で埋まった。
西の空の裂け目は、見ている間にも広がっていく。稲妻の形をしていた綻びが、いまは幕の破れ目みたいに縦へ横へ裂けて、その奥の灰色が、夜より暗く覗いていた。
そして、こぼれてくる。
墨色の、細長い人型。それに混じって、四つ足の獣の形。アルディアの草原で見た、あの灰色の獣そのものだ。まだこの世界の形に化け切っていない連中まで、裂け目から直接あふれ出している。数えるだけ無駄な夜が、また来た。
それでも、湊は昨日までの湊じゃなかった。
悲鳴の中に、通る声があった。名の戻った樽職人が、空の樽を転がして路地の口を塞いでいく。両替屋の手代が、逃げ惑う連中を捕まえては船着き場のほうへ向けて押し出す。誰も「沈む」とは言わない。「燃える」とも言わない。こんな夜でも、口にしていいのは「上がれ」「渡れ」だけだ。忌み言葉の躾ってのは、どうやら命の瀬戸際でこそ効くらしい。
「時間がないから、一度しか言わないよ」
ヴァンが、桟橋の荷の上に立った。観光の響きは、もうどこにもない。
「湊の連中は、船へ。水の上までは、すぐには追ってこない。トメさん、渡しを頼めるか」
「請け負った。年寄りと子どもからだ」
「僕は水際で堰き止める。それと——」
ヴァンは、胸に抱えた文箱を、とん、と叩いた。
「餌なら、ある。引かれる連中は、まとめて僕のところへ来る。好都合だよ」
「一人でですか」
「一人が、いちばん速いんだ。……で、だ。目利きの」
ヴァンの目が、まっすぐ俺を見た。
「連中の頭数は、僕がなんとかする。でも、あの裂け目は塞げない。開いてるかぎり、朝まで保たせたところで、明日の晩も同じ夜が来る。それに、こぼれた連中の足は、遅かれ早かれ、あそこへ向かう」
言われなくても、分かっていた。湾奥の山。名付けの社。この世界の芯。ゆうべ石段を上っていった影は、先触れにすぎない。
「アルディアと、同じですか」
「……前例は、ひとつある。碑が応えた男が、丘を守り切って、そうしたら予兆が引いた。理屈は、僕にも分からない。保証もない。それでも、道はたぶん、それしかない」
御神体の共鳴は、あの朝からずっと、耳の奥に貼りついている。誓いの碑が俺を呼んだ、あの鳴り方で。世界が呼んでるのか、器を品定めしてるのかは知らない。ただ、行かなきゃならない場所は、最初から決まってた気がした。
「行きます」
「即答だねえ。……ふたつ目だよ。器ってのは、注げば注ぐだけ入る瓶とは違う。どうなるかは、誰にも分からない」
「脅かさないでくださいよ」
「脅してるんだよ。……ま、止めないけどね」
ガロが、俺の隣に並んだ。並んだだけで、何も聞かなかった。ノアは、と見ると、もう俺の袖を掴んでいた。
「いく。……めぐると、いく」
「危ないぞ。今夜のあいつらの狙いは」
「しってる。……でも、めぐるの、となりが、いちばん、あんぜん」
理屈まで正しいから、言い返せなかった。名喰いに狙われる子を置いていける場所なんて、今夜の湊のどこにもない。俺の隣が、世界でいちばんマシな席だ。
「フィムは」
「行くよ……。灯りは出ないけど、道は分かるから……」
胸ポケットの奥から、蚊の鳴くような声がした。燃料切れの妖精は、それでも降りるとは言わなかった。
■
トメ婆さんの渡し船は、湾を三往復して年寄りと子どもを沖の船団に上げたあと、四往復目で俺たちを乗せた。
艪は、婆さんと、もうひとり。網干し場の裏の網子が、頼んでもいないのに乗り込んできて、太い腕で漕いでいた。
「昼間、名ぁ返してもらった」
それだけ言って、あとは黙々と漕いだ。礼の言い方が、艪の速さだった。船は矢みたいに湾を滑って、ノアは舳先で、膝の上のフィムを両手で風から庇っていた。
「ねえ、めぐる……。ボク、考えたんだけどね……」
豆粒の光が、ぽつぽつ点滅した。
「灯りの出ない案内精霊って、なんの役に立つのかな……」
「縁起でもない算段を始めるな。道案内と、口うるささが残ってるだろ」
「口うるさいって、いま言った……?」
言った。言ったが、その声に少し張りが戻ったから、良しとする。
湊を振り返ると、水際に光の線が見えた。ヴァンだ。墨色の波が桟橋に押し寄せるたび、線が走って、波がまとめて千切れる。その手前では点々と提灯が灯って、避難の列が船へ渡っていく。列のいちばん後ろで、三味線に似た音が鳴っていた。
スズだ。
弾いてるのは、祭りの曲でも祝いの曲でもない。ゆっくりした、静かな子守唄だ。音の届く範囲だけ、青白い行列が足を止めて、聞き入るように揺れている。百鬼が名を求めて騒ぐはずの夜に、あの一角だけが凪いでいた。
「……あの子の音は、名のない者の耳に、いちばん届くのさ」
トメ婆さんが、櫓を漕ぐ手を休めずに言った。
「今夜の湊は、あの音に助けられるよ」
社の浜に、船底が擦れた。
「行きな」
婆さんは、俺の背中を煙管で軽く叩いた。
「……帰りも、あたしの船だよ。よその船で帰るんじゃないよ」
「はい。約束——じゃなくて、そのつもりで」
誓いになりかける言葉を、慌てて口の中で畳んだ。婆さんは、しわの奥で笑ったようだった。
■
石段は、ゆうべより騒がしかった。
下生えのあちこちで、墨色の影が同じ方向へ這い上がっていく。三百段の参道が、獣の道になりかけていた。
ガロが先頭で、道を空けさせた。空けない奴は、まとめて杉の幹へ吹っ飛ばした。俺は数を数えるのをやめて、《観察》に仕事だけさせた。影の群れは、社に近いほど足が速い。速いぶん、こっちへの関心が薄い。芯に引かれてる連中は、道の上の俺たちを、流れの中の石ころ程度にしか見ていないのだ。なら流れに逆らわず、石ころのまま隙間を縫えばいい。ノアの手を引いて、段を二つ飛ばしで駆けた。
鳥居の前に、あいつはいた。
名喰いの主。頭三つぶん高い、墨色の巨体。胸の芯は、前より速く、強く脈打っていた。裂け目が開いて、力の潮が満ちてるってことか。目のない顔が、俺たちを、正確にはノアを向いた。
「欠片。……戻ッタ、カ」
「悪いが、通してもらう」
「器ハ、渡サナイ。ソレハ、丸ゴト——」
「言ったろ」
ガロが、一歩前に出た。首の骨を、ごき、と鳴らして。
「殴れる類いが出てきたら、オレの番だ。……覚えてたか、化け物」
主の腕が鞭みたいにしなって、ガロが真正面から受けた。今度は、吹っ飛ばなかった。石畳に足の爪を立てて、受けた腕ごと押し返す。
「メグル! 三語で言え!」
「主を、止めろ!」
「請けた!」
狼と巨影が組み合った隙間を、俺とノアは駆け抜けた。鳥居をくぐる。境内の空気が、水から出た瞬間みたいに変わった。張り詰めて、澄んで、そして、鳴っている。
白い玉砂利が、鳴っていた。拝殿の柱が、幣が、境内の空気の全部が、低く深く共鳴して、ひとつの音になっていた。
拝殿の奥、開け放たれた御扉の向こうで、丸い石が待っていた。
俺は、その前に立った。ノアが半歩後ろで、俺の袖を握り直した。
音が、止んだ。
夜の山のてっぺんが、しんと静まり返る。ガロの咆哮も、主の軋みも、遠くの半鐘も、その一瞬だけ、膜の向こうに消えた。
そして、世界が問うた。
声じゃない。音の連なりですらない。境内の空気そのものが言葉の形に張り詰めて、骨に直接、届いた。
「名ヲ、預ケルニ足ルカ」




