【第44話】名の値段
夜明け前の船着き場は、篝火が二つ焚かれて、荷運びの怒鳴り声でいっぱいだった。
鵺代の持ち船は、桟橋のいちばん先に舫われた、ひときわ大きな帆船だ。人足たちが長持を担いで、ひっきりなしに船倉へ運び込んでいる。夜逃げにしては堂々とした夜逃げだった。湊の半分を持っていた男の、最後の見栄かもしれない。
桟橋の付け根で、俺たちは足を止めた。棒だの鉤竿だのを持った用心棒が十人ばかり、横に並んでこっちを見ている。
「これはこれは、渡り手様がた」
用心棒の壁の向こうから、聞き覚えのある柔らかい声がした。絹の羽織に、珊瑚の指輪。鵺代は宴の晩と寸分違わない福々しい顔で、扇子をゆったり扇いでいた。
「朝早くから、お見送りとは痛み入りますな」
「船出には、水先案内が要るでしょうに」
俺の後ろで、トメ婆さんが煙管を鳴らした。夜のうちに番屋の親父から話を聞きつけて、桟橋まで来ていたのだ。
「あの船の水先は、うちの若い衆だよ。名ぁ握られて、逆らえないのさ。……鵺代。あんた、湊を捨てる気かい」
「人聞きの悪い。商いの場を移すだけですで」
「その荷と一緒に、かい」
ヴァンが、静かに言った。目は、船倉に消えていく長持の列を追っている。《観察》を使うまでもなかった。あの中身は、薬棚みたいなあの漆箱だ。蔵の地下で見た、抜け殻の名の棚。それから、もうひとつ。
「返してもらおうか。あの、かけらを」
「おや。……何のことですかな」
「とぼけるなら、それでもいい。ただ、忠告はしておくよ」
ヴァンの声から、温度が抜けた。
「檻はもう、ないんだ。あれを持って夜の海へ出るのは、餌を腰に提げて狼の森を歩くのと同じだよ」
鵺代の扇子が、一瞬だけ止まった。すぐにまた、ゆったりと動き出す。
「ご忠告、痛み入る。ですがあれは、手前が銭で購うた品。持ってどこへ参ろうと、咎めを受ける筋はございませんな」
番所の役人は、桟橋の隅で身を縮めていた。踏み込めないのだ。この男の証文は、湊の隅々にまで刺さっている。誰の暮らしのどこに、この男の握った名前が絡んでいるか分からない。だから誰も手を出せない。ゆうべまでは、それで通ってきた。
「なら、こっちの筋はどうです」
俺は一歩前へ出た。
「あんたの仕入れだ。ふた月で九人、いや十人。名喰いに狩らせて、抜け殻を札にして棚に並べた。売り物の出どころを、番所の帳面と突き合わせてもらいましょうか。……その長持の中の、帳面ともね」
用心棒たちの目が、ちらりと一斉に泳いだ。向いた先は俺じゃない。長持だ。
(——見えた。あんたらの首輪も、あの中か)
鵺代は初めて、扇子を閉じた。
「……渡り手様がた。手前は、湊の情けで生きております」
声は柔らかいままだった。柔らかいまま、底に刃物が入った。
「この帳面には、湊じゅうの名の出入りが書いてある。手前が沈めば、これも沈む。買い戻しの口も、金輪際なくなりますのさ。……それでもよろしいか、と皆さまに聞いておるのです」
人質は、名簿のほうだった。用心棒が動けないのも、役人が動けないのも、これだ。この男を裁けば、名の帰り道ごと消える。
だが、悪いな。俺はゆうべ、教わったばかりなんだ。世界の帳簿が受け付けないなら、別の帳場を開けばいい。
「ガロ」
「おう」
「長持だ。……帳面を、取れ」
「請けた!」
狼が跳んだ。用心棒の壁が反射で棒を構えて、構えただけで終わった。ガロは壁を跳び越えて、二歩で長持に届いていた。首輪を握られた連中は、首輪ごと取り返してくれる相手に、本気の棒なんて振れやしない。
「おのれ……!」
鵺代の顔から、福々しさが剥がれた。懐から、布に包んだ何かを掴み出す。布がほどけて、白み始めた空の下に、透きとおった破片が光った。
種のかけら。
「寄るな! 寄れば、これを海へ沈めますぞ!」
場が、凍った。ヴァンの足が、はっきり止まった。あの人の足を止められる質のものを、この男は握っている。それが何かも知らずに、だ。
俺は、止まっていなかった。桟橋の縁を、荷の陰伝いに、さっきからじりじり詰めていた。《観察》はずっと仕事をしている。扇子を閉じてから、こいつの重心は右に寄った。投げるなら右手。振りかぶりは小さい。そして海は、俺の側だ。
肩が、動いた。
「——海には、落とさせない。誓う」
証文が結ばれた。糸が右腕に通って、焼けるように冷えた。
白い破片が、宙に弧を描く。俺は桟橋を蹴った。誓いが、迷いごと俺の体を掴んで、あるべき場所へ突き出す。指が破片の冷たさに触れて、掴んだ。
膝から桟橋板に落ちて、肩を打って、それでも右手は上げたままだった。支払いは即座に来た。目の奥が眩んで、指先の感覚がひと呼吸ぶん消える。安い。この賭けなら、安いもんだ。
「なあ、鵺代さん」
起き上がりながら、言ってやった。
「あんた、教えてくれたでしょう。……買うたものを、どう使おうと勝手だって」
ガロが長持の蓋を開けて、分厚い帳面を頭の上に掲げた。役人が、我に返ったみたいに駆け出してくる。用心棒たちは、誰からともなく棒を下ろしていた。
■
朝日が上がる頃には、桟橋は湊の連中で埋まっていた。
帳面は、番所の役人が読み上げた。札の番号、通り名、稼業、値段。真名はひとつも書いていない。人を品物にする帳面には、名前すら要らないってことだ。読み上げるたび、人垣のどこかで悲鳴とも溜め息ともつかない声が上がった。樽職人、両替屋の手代、隠居の婆さま、網干し場の裏の網子。稼業も歳もばらばらなのに、値段の欄だけは、どれも同じだった。ひと冬の薪と飯。
トメ婆さんが、前に出た。腰の銭袋を外して、鵺代の膝元へ、じゃらりと投げる。
「渡しの婆の蓄えだ。ひと冬の薪と飯くらいは入ってる。……湊の名ぁ、まとめてこの値で買い戻すよ。十人ぶんにゃ足りゃしないさ。けど、まとめ買いは値切るもんだろ。あんたに教わった作法だよ。文句はないね」
「そ、それは……それでは商いに……」
「商いだよ。あんたの値での、な」
役人が長持の漆箱を、ひとつずつ開けていった。青白い膜の張った木札が、朝日に晒される。膜の割れる音はしなかった。ただ、札の上から小さな光が浮き上がって、魚が川を上るみたいに、屋根の上を湊のほうへ泳いでいった。一枚、また一枚。十の光が、それぞれの家路を辿っていく。
人垣の端で、網子が棒立ちになっていた。胸を押さえて、光の消えたあたりを見ている。そこへ、人垣をかき分けて女房が駆けてきた。
「——あんた!」
さよさんの声だった。亭主を「お客さん」と呼んでいた人の、これが本当の声だ。網子は口をぱくぱくさせて、結局何も言えずに、女房と息子をまとめて抱えた。
ノアが俺の袖の陰から、それをじっと見ていた。それから縄を打たれた鵺代を見て、ぽつりと言った。
「……きらい」
「奇遇だな。俺もだ」
鵺代は、もう誰も脅せなかった。名簿が番所に渡った時点で、この男の首輪は全部ちぎれたのだ。引っ立てられていく背中に、湊の連中は石も投げなかった。ただ、誰も目を合わせなかった。商人には、それがいちばん堪えるだろう。
ヴァンが、白い名紙を敷き詰めた文箱を差し出してきた。俺は右手の中のかけらを、そっとその上に置いた。触れていたのは短い間なのに、手のひらがまだ冷たい。
ヴァンは蓋を閉じて、紐をきつく結んだ。
「これは、ギルドで預かる」
それだけ言って、箱を胸に抱えた。どうするんです、とは聞かなかった。聞いても、あの喉は答えられない。
■
その晩、湊は久しぶりに、軒の提灯を点けた。
名前の帰った家で、遅い祝いの膳が上がっているらしい。桟橋のほうからは、スズの弾く明るい曲が切れ切れに流れてくる。悪くない夜だった。悪くない夜の、はずだった。
音は、そのとき来た。
みし、と。
世界の底板が軋む、あの音だ。ただし今度は、蔵の中で聞いたのとは桁が違った。湊の全部の瓦がいっぺんに鳴った。提灯の火が揺れて、犬が一斉に吠え出して、スズの曲が途中で止まる。
西の空を見た。
防風の松林の上、夜空に、灰色の線が走っていた。人の背丈だったあの綻びが、裂けて、広がって、蔵の屋根ほどの大きさで口を開けつつあった。




