【第43話】スズの音
社から湊へ戻ったのは、昼をだいぶ回った頃だった。ヴァンは休みもせずに水際の見回りへ出て、俺たちは番屋の奥の板の間にいた。楽士は、そこに寝かされていた。
莚の上のスズは、眠っているというより、浜に打ち上げられた小舟に見えた。肌の上を、青白い燐光がゆっくり這っている。ひと晩のうちに、光は目に見えて濃くなっていた。右手の指だけが、ずっと動いている。弦を押さえる形のまま、見えない楽器の上で、震えながら。
「……日暮れまでは、もつまいね」
トメ婆さんが、煙管の灰を落として言った。
「夜が来りゃ、この子は立つよ。立って、水際へ歩いていく。行列が迎えに来るんだ。そうなったら、もう人には戻らない」
「名前を取り戻せれば、間に合うんですか」
「ないものは引けないよ、若いの。この子の名ぁ、三年も前に売られて、もうどこかの誰かが着てるんだ。社へ担ぎ上げたところで、綱引きの相手は名喰いじゃない。証文と、買った客だよ。あたしらの手の、届かないところにいる」
昨日の晩、俺はノアの名前を引き戻した。値がつく前だったから、間に合った。スズのは三年前に値がついて、支払いまで済んでいる。同じ「喰われた」でも、帳簿の上では別の品ってわけだ。
(帳簿、か)
引っかかった言葉を、ひとまず懐に仕舞った。
ノアは莚の脇に座り込んだまま、動かなかった。膝の上に両手で椀を作って、燃料切れのフィムを乗せている。名前が戻ってから、ろくに眠ってもいないはずだ。
「ノア。少し寝ろ。倒れるぞ」
「……スズは、わたしを、かばった」
スズの指から目を離さずに、ノアは言った。
「わたしの、かわりに、こうなった。だから、こんどは、わたしが、みてる」
このごろ、こいつは自分の気持ちを言葉にするようになった。嬉しい変化のはずなのに、最初に覚えるのがこういう言葉ってのは、あんまりだと思う。
「おまえのせいじゃない。スズさんが自分で決めて、割り込んだんだ」
「ん。……でも、みてる」
膝の上の椀の中で、フィムが豆粒より暗い光を、ぽつりと点した。
「ボクも、見てる……。灯りはもう出ないけど、目はタダだから……」
「おまえは寝てろ。燃料切れのくせに」
「反論、できない……」
ゆうべ、こいつは残りの灯りを全部あの閃光に注ぎ込んだ。都市に帰って灯樹の下で三日は眠らないと戻らないらしい。文句をひとつも言わないのが、逆に応える。
俺は土間に降りて、行ったり来たりを始めた。歩きながら、考えを潰していく。名は戻らない。戻せない。なら、諦めて見送るのか。冗談じゃない。ノアのときと何が違う。あっちは名があって、こっちは、ない。ないなら。
足が止まった。
「婆さん。スズさんが堕ちかけてるのは、名前って家が空き家だからですよね。で、あの晩、空き家に妙なもんを流し込まれた」
「ああ。空いた家には、何でも入り込むからね」
「なら、新しい名前で埋めたら、どうなります」
しわの奥の目が、すっと細くなった。
「……名付けは、社の仕事だ。生まれた子の名は、みんなあそこで授かる。育った大人に二つ目はないよ。この子の名は売られただけで、帳消しになっちゃいない。世界の帳面の上じゃ、この子はまだ『名のある者』さ。名のある者に、社は名をくれない」
「世界の帳簿が受け付けないなら」
懐に仕舞った言葉を、取り出す。
「俺の帳簿に載せます」
トメ婆さんは長いこと俺の顔を見て、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……罰当たりだね。気に入ったよ」
■
日が落ちた。
スズが、立った。
瞼を閉じたまま、糸で吊り上げられたみたいにするりと立って、戸口へ歩き出す。ガロが正面から抱き止めて、呻いた。
「……っ、おい、軽いぞこいつ! 中身が減ってやがる!」
燐光の濃いところは、ガロの腕が沈んだ。煙を抱いているのと同じだ。それでも相棒は離さなかった。離さないまま、ずるずると戸口のほうへ引きずられていく。人ひとりの力じゃない。呼ばれてる力だ。
水際の道に、青白いものが滲み出すように現れていた。
行列だ。二十、三十。夜霧の向こうから、音もなく番屋の前へ。先頭の一体が、口を開けた。
呼んだ。
名前を、じゃない。名前ですらなかった。音の抜け落ちた、穴だけの呼び声。呼ばれた瞬間、スズの体がびくりと跳ねた。穴の形と空き家の形が、ぴたりと合ってしまっている。
「スズさん! スズ!」
通り名で呼んでも、まだ届かない。あの呼び声と綱を引き合うには、こっちの「スズ」は軽すぎる。ただの渾名だ。なら、重さをつける。俺の帳簿は、賭け金の重さがそのまま力になる。
「——スズ。おまえの名前は、スズだ」
腹の底から、声に出した。
「三年間、この湊の全員がそう呼んで、おまえが応えてきた名前だ。誰にも売ってない。誰も値をつけてない。その名前を、俺は忘れない。生きてるかぎり、俺の帳簿から消させない。——誓う」
《誓約》が、帳面を開いた。
胸の底から喉へ、焼けた糸が一本通る。指先が冷えて、視界の端が細かく欠けた。構うか。軽い賭け金で釣り合う相手じゃないんだ。
ノアが、歌った。
歌と呼んでいいのかは、分からない。宴の晩にスズがノアへ向けて弾いた子守唄の旋律を、たどたどしく、音を半分外しながら口ずさんだ。上手さは欠片もなかった。ただ、まっすぐスズに向いていた。
弦を押さえる形の指が、ぴくりと動いた。
震えるだけだった指が、ゆっくり旋律を追い始める。見えない楽器の上で、ノアの外した音をそっと直すみたいに。
「スズ!」
もう一度呼んだ。今度の呼び声には、証文の重さが載っている。行列の呼び声と俺の呼び声が、真ん中の楽士を挟んで綱を引き合った。向こうの綱は、空き家の形をした穴だ。こっちの綱は、三年ぶんの「スズ」と、音を追う指と、下手くそな子守唄だ。
スズの唇が、動いた。
「…………はい」
燐光が、砕けた。
青白い光が肌から剥がれ、夜気に散って消える。流し込まれていた何かが、居場所をなくして抜けていくのが《観察》に見えた。埋まった家には、もう入れない。
行列はしばらく戸口の前に立っていた。それから、興味を失ったみたいに向きを変えて、夜霧の奥へ帰っていった。
ガロの腕の中で、スズが目を開けた。
■
白湯を三杯飲んで、スズはようやく人心地がついた。
「……夢を見てました。ずっと呼ばれてる夢です。行かなきゃって思うのに、足の先だけ、誰かが掴んでて」
「誰かって、誰よ」
「さあ。……ただ、音がしてました。下手くそな、僕の曲が」
ノアが、びくりと固まった。スズは少し笑って、それから居住まいを正して、板の間に手をついた。
「ぎんのさん。ありがとうございました。……庇った甲斐が、ありました」
「……ん。……へたで、ごめん」
「いいえ。あれがいちばん、遠くまで聞こえました」
それからスズは、自分の手を見た。透けても光ってもいない、ただの楽士の手を、ゆっくり握って、開いた。
「僕の名前は、スズ。……変なの。同じ音なのに、昨日までと重さが違う」
「安売りするなよ。俺の有り金、けっこう積んである」
「はい。……はい」
二度目の返事は、掠れていた。
ただ、戻らなかったものもある。売られた名前は、売られたままだ。その名で呼ばれていた頃のスズを覚えている人間は、もうこの湊のどこにもいない。名を返してやれた訳じゃない。渡せたのは、ここから先の分だけだ。スズはそれを分かった上で、俺なんかよりずっと深く分かった上で、頭を下げたのだった。
(……全部は、救えない。それでも、だ)
夜半、番屋の親父が血相を変えて駆け込んできたのは、その矢先だった。
「た、高台の屋敷が——鵺代様の屋敷が、夜逃げの支度をしてやす! 蔵という蔵から荷を出して、船着き場へ運んどります!」
見回りから戻ったばかりのヴァンが、ゆらりと立ち上がった。疲れた顔の、目だけが笑っていない。
「奥の蔵は」
「か、空っぽで」
「……だろうね」
ヴァンは、俺を見た。
「かけらも、一緒だ」




