【第42話】器の欠片
朱の剥げた大鳥居の前で、影の主と俺たちは、石段三つぶんの距離で向き合っていた。
でかい。蔵の連中とは、造りからして違う。墨色の体の胸で、灰色の芯が心臓の速さで脈打っている。腰の束の中、青白い光のひとつが、ほかのどれより強く身をよじった。呼ばれたみたいに。俺の背中で、ノアの浅い息が、一拍だけ深くなった。
「器ノ欠片」
主は、もう一度言った。目のない顔が、ノアだけを向いていた。
「値ハ、ツケラレナイ。……ソレハ、丸ゴト、喰ラウ」
器。その言葉を、俺は自分の鑑定の水晶で知っている。無主の器。前例のない、俺のギフトの名前。同じ言葉が、なんでノアを指して出てくる。欠片ってのは、何の欠片だ。
考えるのは、あとだ。夜明けまで、もうすぐ。値がつく前に、綱引きに勝つ。今夜の仕事は、それだけだ。
「ガロ」
「おう」
「あいつの相手は頼む。倒さなくていい。目と手を、こっちに回させるな」
「三語で言え」
「……主を、止めろ」
「請けた!」
狼が、石段を蹴った。
主の腕が鞭みたいにしなって、ガロの体を横薙ぎに払う。ガロは両腕で受けて、杉の幹まで吹っ飛ばされて、幹ごとみしりと軋んで、笑った。
「効くじゃねえか……! おい化け物、こっちだ! でかいの同士で踊ろうや!」
吠え声に、主の顔が初めてノアから逸れた。その隙に、俺は鳥居をくぐった。
境内の空気は、張り詰めて澄んでいた。誓いの碑の丘で、光が俺の手に流れ込んできた、あの晩と同じ密度。ここは世界の芯に近い。トメ婆さんの言う「根っこの宮」は、たぶん比喩じゃない。
拝殿の前にノアを下ろす。莚の上の体は、もう行灯の紙より薄かった。
「ノア。聞こえてるか。いまから、おまえの名前を取り返す」
「……ん」
「怖かったら、俺の名前を呼んでろ。おまえの中の、いちばん消えてないやつだ」
「……めぐる」
「そうだ。それでいい」
■
振り向くと、主が、ガロごと鳥居の内へ踏み込んできていた。
ガロは下がりながら殴り、殴られながら吠えて、一歩も逃げていなかった。だが押されている。石段を上ってきた小物の影も、二匹、三匹と鳥居の脇に湧き始めた。時間の在庫が、見る間に減っていく。
「フィム。あれ、頼めるか」
「……待ってた!」
胸ポケットから、小さな光が飛び出した。省エネも寝坊もかなぐり捨てた、あいつの全速だった。
「ボクの担当はねえ、キミたちなんだよ! 台帳から勝手に、消えてんじゃないよ!!」
妖精の体が、真昼の色に燃えた。残りの灯りを全部載せた閃光が、境内から石段までを白く塗り潰す。目のない連中にも、あれは「見える」らしい。小物の影が仰け反り、主の顔が閃光を向いた。
その一瞬で、俺は主の懐に走り込んでいた。
名喰いは、俺を喰えない。俺の名前は、どの世界の帳簿にも載っていない。連中にとって俺は、皿のない飯、値札のつかない品だ。素通りされる悔しさなら、湊の通りで嫌というほど味わった。なら、その素通りの内側こそ、俺の席だ。
腰の束に、手を伸ばす。
青白い光の群れが、指の間をすり抜けた。掴めない。名ってのは、覚えのない手には載らないらしい。魚どころか、水そのものを掴んでいるみたいだった。
なら、載る手にするまでだ。
「——俺は、ノアを忘れない」
腹の底から、声に出した。
「ひと欠片も。この先も。誓う」
《誓約》が、帳面を開いた。
証文が結ばれた瞬間、胸の底から右手の先まで、糸が一本通った。指先が燃えるみたいに冷えて、体の芯から、ごっそり持っていかれる。構うか。この誓いは軽くない。俺の残りの人生ぶん、まるごと賭けてある。
束の中で、ひとつの光が、俺の手のほうへ、身を乗り出した。
主の腰の束が、それを引き戻す。綱引きだ、と婆さんは言った。その通りだった。光の両側で、見えない縄が軋む。向こうの縄は、喰った者の執着だ。こっちの縄は、覚えている中身の全部だ。中庭の花も、木匙の角度も、「ぎんの」と呼ばれて頷いた横顔も、留守番を頼んだ布団の膨らみも、一枚も欠けていない。一枚ずつが、縄の撚りになる。
光が、こっちへ寄った。指一本ぶん。もう一本ぶん。
そして、ひとつの光が、俺の手に、吸いつくように載った。
主の腕が、俺の胴を掴んだ。墨色の指が肋骨を軋ませ、目のない顔が、間近で俺を覗き込む。縦裂けの口が開いて、俺の喉元、名のあるべき場所を探して——空振りした。
「空、カ」
「ああ、空だよ」
肋骨の軋みごと、俺は笑ってやった。
「空の器は、な。中身を選べるんだ」
光を、握り込む。主が咆哮した。声というより、世界の底板の軋みを喉に詰めたような音だった。束が千切れ、残りの青白い光がほどけて、蛍の群れみたいに夜空へ散っていく。あれはきっと、坂の下の湊へ帰る。帰れる名は、帰ればいい。
俺は主の腕から捩じり落ちて、石畳を転がって、拝殿の前まで這った。
薄れゆくノアの、胸の上に、光を置く。
「おまえの名前は、ノアだ。俺が覚えてる」
光が、沈んだ。
波紋がひとつ、体の輪郭を端から端まで走って——銀色が、戻ってきた。髪に、睫毛に、指先に。湯気の縁みたいだった輪郭が、朝の来る空の下で、くっきりと形を結び直していく。
主が、後じさった。
夜明けの最初の光が杉の稜線を越え、境内の白い玉砂利を撫でた。墨色の巨体は光を嫌うように石段の外へ退いて、目のない顔で、最後にもう一度だけノアを見た。
「欠片……容レ物ニ、収マッタ、カ」
言い残して、影は木立の闇へ溶けた。ガロが追いかけようとして、膝から崩れて、盛大に悪態をついた。
■
ノアの瞼が、開いた。
灰色がかった瞳が、俺を映して、二度まばたきした。
「……めぐる」
「よお。……朝メシまでには、って言ったろ」
間に合ったのは夜明けのほうで、朝メシはこれからだが、誓いになる前の口約束なんてそんなもんだ。ノアはしばらく俺の顔を見て、それから、自分の手を目の前に持ち上げた。透けていない指を、一本ずつ、確かめるみたいに折っていく。
「ノア」
小さな声が、言った。
「わたしの、なまえ。……ノア」
「そうだ」
「めぐるが、よんだ。まっくらの、なかで。……きこえてた、よ」
そこで、ノアの顔が、ぐしゃりと崩れた。
目から落ちたものが、莚の上にぽつぽつと染みを作って、本人がいちばん驚いた顔で、それを見ていた。止め方を知らないのだ。泣いたことが、なかったから。なのに口元は、笑っていた。泣き方も笑い方も、たぶんこの世界で一番下手くそで、一番きれいだった。
「へん、なの。……とまらない」
「いいんだよ、それで」
ガロが洟を盛大にすすって、「ノアァ!」と米袋みたいに抱え上げようとして、フィムに「病み上がり!!」と怒られていた。当のフィムは俺の襟に沈んだきり、豆粒より暗い光で、声だけが達者だった。石段の下から、櫓を杖にしたトメ婆さんが上ってきて、その騒ぎを見て、しわの奥で目を細めた。
朝日が、境内に満ちていく。
その光の中で、俺は聞いた。
鳴っている。
拝殿の奥、開いた御扉の向こう。幣に囲まれた丸い御神体が、低く、深く、共鳴していた。誓いの碑が俺を呼んだ、あの鳴り方で。まだ誰も気づいていない。俺の右手の、薄れの進んだ指先だけが、その音に、痺れるように震えていた。




