【第41話】覚えている
深夜の宿の一室が、俺たちの陣地の全部だった。
布団の中のノアは、行灯の光がうっすら透けるほど薄くなっていた。俺は畳に膝をついて、ガロとフィムに、同じ話を三度した。銀髪の連れがいたこと。名前はノアだということ。三度目の途中で、ガロが呻いた。
「分かった、分かったから、書け! 紙に書け! オレの頭より紙のほうが上等だ!」
書いた。宿の帳場から借りた紙に、墨で、大きく。ノア、と。
ガロは紙を睨んで、うなずいて、それから茶を一杯飲んだ。飲み終わって紙を見直したとき、墨はもう、半分灰色になっていた。
「……おい。字が、逃げてくぞ」
「この世界じゃ、そうなるらしい。名前が本人から剥がされると、書いた字も、頭の中身も、一緒に痩せてく」
「じゃあ、なんでおまえは平気なんだ」
平気な理由なら、俺の中に一つしかない。消えたものを覚えてるのだけは、昔から得意なんだ。得意どころか、それしか能がないと言ってもいい。地球の写真も、メロウの爺さんの世界の名前も、俺の中では一度も薄れたことがない。俺の器は、たぶん、そういうふうにできている。
胸の底の糸を確かめる。ノアと結んだ《誓約》は、生きていた。だがあの契約が守るのは「ノアが俺を忘れないこと」だ。証文の文言は、そこまでだった。ガロの頭からノアが逃げていくのを、俺の契約は一文字も守ってくれない。字義通り。あの界律は、いつだって帳簿の通りにしか働かない。
「くそ。手帳に書いた字まで逃げるなら、頼れるのはおまえの頭だけかよ」
「安心しろ。俺の頭は逃がさない」
言い切れることが、今夜はこれしかなかった。
ノアを負ぶって宿を出ると、夜明け前の湊は、まだ怯えの底にいた。戸という戸に名紙が貼られ、割れた提灯が道の端に掃き寄せられている。墨色の連中の姿は、もうない。ヴァンが水際で堰き止めてくれたおかげで、通りに骸はなかった。あるのは、閉まった雨戸と、雨戸の内側の、押し殺した息だけだった。
この静けさの下で、名前が一つ、値札を待っている。そう思ったら、足が勝手に速くなった。
■
夜明け前の船着き場に、灯りがひとつ点いていた。
トメ婆さんの小屋だ。婆さんは避難の年寄り連中を桟橋の船に上げ終えたところで、俺たちの顔を見るなり、しわの奥の目を細めた。
俺は頭を下げて、全部話した。蔵の中身も、ノアのことも。婆さんは煙管を三度ふかして、それから布団代わりの莚にくるまれたノアを覗き込んだ。長いこと、黙っていた。
「……名ぁ、抜かれたね。それも、根っこからだ」
「戻せますか」
「あたしに聞くってことは、湊の連中はもう、この子を覚えてないんだね」
図星だった。婆さんは煙管の灰を落として、立ち上がった。
「いいかい、若いの。喰われた名にも、順がある。喰った直後の名は、まだ生きて温かい。けど夜が明けて、値がついて、誰かのものになっちまったら、それはもう戻らない。楽士の坊やの名が戻らないのは、とうに売られて、誰かが着てるからさ」
「値がつく前なら」
「呼び戻せる。ただし、場所と、呼び手を選ぶ」
婆さんは煙管の先を、湾の奥の山影へ向けた。杉の黒い稜線の上に、星がまばらに残っていた。
「名付けの社。この島の名という名の、根っこの宮だ。生まれた子の名ぁ、みんなあそこで授かる。名を呼び戻すなら、あそこの鳥居の内側しかない。そして呼び手は——その名を、欠けらも忘れてない者だけだ」
「行きます」
「即答だね。……呼び戻しはね、綱引きだよ。喰った側だって、握って離さない。あんたの『覚えてる』が細けりゃ、名は途中で千切れる」
「千切れません」
これも即答だった。婆さんはふん、と鼻を鳴らして、艫綱を解き始めた。
「船を出す。石段の下まで、水路が早い。……礼はいらないよ。渡しの婆が客を選り好みしたら、この湊は終いだからね」
■
櫓の音だけが、暗い水面を叩いていた。
ノアは俺の背中にいた。莚ごと負ぶった体は、米袋の半分もない。耳元で、浅い呼吸が続いている。ときどき、それが言葉の形になった。
「……めぐる」
「いる。ここに」
「……へん、なの。じぶんの、なまえ、おもいだせない、のに」
薄れる声が、少しだけ和らいだ。
「めぐる、のことは、ぜんぶ、おぼえてる」
契約の糸は、そういう仕事しかしない。ノアの中身が全部こぼれても、最後まで残るのは俺の名前だけだ。宿では、その杓子定規に腹が立った。いまは違う。最後に一本だけ残る糸なら、そこから全部、手繰り戻せる。
揺れる船底で、俺は癖で手帳に手を伸ばして、途中でやめた。書いても、この世界の墨は逃げていく。なら書かない。保護院の中庭の花の色も、蜜煮を掬う木匙の角度も、「あまじょっぱい」を覚えた日の顔も、初めて会った日の「あなたは、わたしを、忘れない?」も、全部、俺の中にある。手帳の係が紙を頼れない夜は、これが初めてだった。頼らなくても、一行も欠けていなかった。
(……覚えてるのだけが取り柄で、よかったよ。本当にな)
舳先で、ガロが自分の掌に爪を立てていた。
「思い出せねえのは、もう、しょうがねえ」
低い声だった。
「けどな、オレの胸の底は、まだかっかしてやがる。頭が忘れても、腹が覚えてるってことだろ。上等だ。オレの頭は三語しか入らねえんだ。なら三語で足りる。メグルの、大事な、連れだ。それを取り返しに行く。文句あるか」
「ないよ。……頼りにしてる」
フィムが胸ポケットから顔を出して、羽で自分の頭をぺしぺし叩いた。
「ボクは精霊なのに……台帳の側なのに、思い出せないのが悔しい……! メグル、着いたら言って。ボクの残りの灯り、全部使っていいから」
夜通し湊を守っているヴァンには、番屋の親父に言付けを頼んだ。楽士のスズは番屋の奥で、青白い光を明滅させながら、まだ人の形で眠っているという。まだ、のうちに全部終わらせる。取り返す名は、今夜は一つだけでいい。
船が、社の浜の杭に着いた。
杉木立の間を、苔の石段がまっすぐ上っている。段の両脇の石灯籠は、どれも火が消えて久しいのに、参道の空気だけが、妙に張り詰めて澄んでいた。誓いの碑の丘で吸った空気と、同じ張り方だった。世界の芯に近い場所の、あの気配だ。
トメ婆さんは船に残った。杖代わりの櫓を握ったまま、俺たちに顎をしゃくる。
「行きな。……若いの、綱引きの途中で、手ぇ離すんじゃないよ」
石段を、駆けた。
途中、《観察》が嫌なものを拾った。石段の脇の下生えを、墨色の影が二つ、三つ、音もなく上っていく。俺たちを追ってじゃない。俺たちと、同じ方向へ。あの連中まで、この宮に引かれている。誓いの碑に群れが集まった、あの丘の夜と同じ絵だった。
数えて三百段目あたりで、木立が切れて、朱の剥げた大鳥居が見えた。
その鳥居の前に、夜より濃い影が、待っていた。
蔵で見たどの影よりも、頭三つはでかい。墨色の体の胸で、灰色の芯が心臓みたいに脈打ち、腰の周りには、青白い小さな光が、魚籠の獲物みたいに束ねられてぶら下がっていた。
影は、俺の背中のノアを見た。目のない顔で、確かに、見た。
そして、音節の千切れた声が、言った。
「ソレハ、器ノ欠片」




