【第40話】ノアの名前
坂を駆け下りる俺たちの眼下で、夜の湊が悲鳴を上げ始めていた。
軒の提灯が次々に落ちて、桟橋のほうから半鐘が鳴る。通りを、墨色の影が川みたいに流れていく。数が違う。蔵の檻にいたのは二十かそこらのはずだ。眼下の流れは、その何倍もいた。
「増えてる! なんでだ!」
「西の綻びからだよ。手綱が切れた匂いに、外の仲間が呼ばれてる」
ヴァンの声は走りながらでも乱れなかった。坂の途中、湊の入り口で、特級渡り手は足を止めた。
「僕は水際で堰き止める。逃げ遅れが一番多いのはあそこだ。……きみたちは宿へ。いいね、戦うな。連れて、逃げろ」
返事を待たずに、ヴァンは夜に消えた。直後、桟橋の方角で、墨色の流れがまとめて千切れ飛ぶのが見えた。ああやって百を斬れる人が、それでも「堰き止める」としか言わなかった。数えるだけ無駄な夜ってことだ。
宿までの最後の一町が、遠かった。
通りの影は、俺たちに目もくれなかった。ガロの体当たりで吹き飛んだやつすら、起き上がると俺たちを素通りして、同じ方向へ走り直す。全部が全部、宿のほうを向いていた。
「メグル、こいつら……!」
「ああ。……招かれてるのは、俺たちじゃない」
走りながら、さっきの蔵が、まぶたの裏に戻ってきた。檻の中の影どもは、台座の欠片に、ああやって群がっていた。同じ引かれ方だ。(なんでだ。なんで、あれと同じ引かれ方が、ノアに向かう)
■
宿の前の通りで、ノアは立っていた。
寝間着のまま、フィムを両手で包んで、軒下の柱を背にしている。逃げなかったのか、逃げられなかったのか。影の群れが、通りの両側から、ゆっくりと輪を縮めていた。急がないのだ。獲物が袋の中にいると知っている狩人の足取りだった。
「ノア!」
「……めぐる」
声に、ほっとした色が乗った。
駆け寄りながら、頭の隅で誓いの文言を探していた。守り切る。駄目だ、この数相手じゃ博打だ。近づけない。境目を、どこに引く。俺の界律は、嘘と博打を証文にしない。ぎりぎりの重さで結べる誓いを、この速さの夜の中で組み立てる時間が、どこにもなかった。
ガロが先に割り込んで、輪のいちばん厚いところへ突っ込んだ。狼の拳が影を二体まとめて薙ぎ、灰が夜気に散る。それでも輪は、削った端から埋まっていく。埋まりながら、一匹も、ガロを見ていなかった。
その一瞬が、隙になった。
輪の一角から、影が三体、糸が切れたみたいに跳んだ。ガロが一体目を殴り落とし、二体目を俺が体で弾いた。弾けてしまった、と言うほうが正しい。影は俺にぶつかると、水が石を避けるみたいに割れて、俺を素通りしていった。喰う場所がない、とでも言うように。
三体目に、届かなかった。
届いたのは、別の影だった。
人の形が、ノアと影の間に割り込んだ。楽器を背負った、細い背中。
「スズさん!?」
「逃げてって、言われた気が、したんですけど」
振り向いたスズは、あの諦めたような薄笑いのままだった。
「音の聞こえるほうに、来ちゃう質でして」
影の縦裂けの口が、スズの喉元に吸いついた。名のあるべき場所に。三年前に売り払われて、空き家になった場所に。
空き家だから、助かる。そんな理屈は、なかった。影は一瞬だけ戸惑うように震えて、それから、空いた場所へ何かを流し込んだ。上書きだ。スズの輪郭がぐらりと滲んで、肌の上に、見覚えのある色が浮いた。百鬼の、あの青白い燐光だった。
「がっ……あ」
スズが崩れる。ガロがその影を引き剥がして、石畳に叩きつけた。灰が散る。だが遅かった。倒れたスズの指が、石畳の上で、弦を押さえる形のまま痙攣していた。
そして俺は、ノアから目を離していた。
柱の陰から伸びた細い腕が、ノアの口を、覆っていた。
墨色の指が、唇の間に、沈む。
「——ノア!!」
跳びかかった俺の目の前で、影は、抜いた。
青白い、小さな光だった。魚に似た形で、影の指の間で身をよじって、光ってて、綺麗で、ノアの中から出てきた。それが何か、教わらなくても分かった。
影は光を咥えると、仲間ごと、引き波みたいに退いていった。ガロが吠えて追い、俺も追って、二つ角を曲がったところで、影の群れは屋根に散って夜に溶けた。手の中には、灰の匂いだけが残った。
戻った通りで、ノアは、まだ立っていた。
立っていることが、もう不思議な姿だった。銀の髪から色が抜け始めていた。輪郭が、湯気の縁みたいに揺れていた。保護院の中庭で初めて会った日より、ずっと、ずっと薄かった。
「ノア、しっかりしろ。いま——」
「……めぐる」
ノアは、自分の両手を見下ろした。手の中のフィムが、透けた指の間から見えた。
「わたし、の、なまえ」
声が、遠かった。水の底から話しているみたいだった。
「もってかれ、ちゃった」
それから、ノアは俺を見た。灰色がかった瞳で、まっすぐに。この目の色を、俺は世界中の誰より知っている。
「めぐる、は」
薄れる指が、俺の袖を、掴もうとして、空を撫でた。
「わたしを、わすれない、で」
「忘れない。誓ってもいい。だから——」
言い切る前に、ノアの膝が落ちた。抱き止めた体は、驚くほど軽くて、体温が、布一枚向こうにあるみたいに遠かった。
■
宿の女将が、部屋を貸してくれた。
布団にノアを寝かせる。眠っているのか、いないのか、瞼は半分だけ落ちて、呼吸だけが浅く続いていた。
湯を運んできた女将が、敷居のところで足を止めて、首を傾げた。
「……あの、渡り手様。そちらの娘さんは、どちらの……?」
「うちの隊のです。着いた日から、ずっと」
「ああ、そう、でしたかねえ……」
悪気の欠片もない顔で、女将は湯桶を置いて下がっていった。五日間、飯のたびに「ぎんの様」と呼んでいた人が、だ。
胸の奥に手を当てる。《誓約》の糸は、あった。ノアと結んだ、あの静かな糸が、まだ胸の底から布団の上へ渡っている。契約は生きている。ノアは、俺を忘れない。……逆じゃないのか、と誰かに殴りかかりたくなった。消えかけてるのはノアのほうなのに、守られてるのは、俺の名前のほうだ。
枕元でフィムが、小さな光をぽつぽつ明滅させていた。
「……変、なんだよ。ボク、この子の名前が、思い出せない……。ずっと一緒にいたのに。担当渡り手の随行員は、台帳で管理してるのに……。ねえメグル、この子、誰だっけ……」
精霊のフィムが、だ。台帳ごと管理してる側の存在が、もう抜け落ち始めている。
あの網子の家を思い出す。女房は夫を客と呼び、息子は父を数で数えた。名を持っていかれるってのは、そういうことだ。ここは、名が芯の世界だ。
「フィム。ノアだ。ノア。書いとけ、体のどこかに」
「ノア……そう、だっけ……そう、だね……」
廊下で、どすんと音がした。ガロが、壁に背中を預けて座り込んでいた。目つきが、おかしかった。怒りでも疲れでもない。深い霧の中を覗き込むような、途方に暮れた目だった。
「ガロ」
「おう。……メグル、よ」
ガロは自分のでかい拳を、開いて、閉じて、また開いた。
「オレは今夜、なんであんなに必死こいて走ったんだ? 誰かを守りに行ったはずなんだ。胸の底が、まだかっかしてる。ここに、綱の感じも残ってる。なのによ」
糸は、覚えている側にしか渡っていない。俺とガロ、俺とノア。結び目は全部、俺のところにある。ガロとノアの間には、最初から糸がない。だから、こうなる。
顔を上げた相棒の目に、怯えがあった。あのガロの目に、だ。
「……おい、オレたち、誰の話をしてた?」




