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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第39話】蔵の中

 宴の翌朝、宿の部屋に地図が広がった。湊の絵図の上に、ヴァンが銭を一枚ずつ置いていく。西の岩場の綻びに一枚。鵺代の屋敷に一枚。銭と銭の間は、坂道ひとつぶんしか離れていなかった。


「偶然だと思うかい」


「思いません。あの蔵の揺らぎは、岩場の亀裂と同じでした」


「番所は動かせない。湊の半分はあの男のものだ。帳面から先に消される」


「じゃあ、どうする」


 ガロの問いに、ヴァンはにっこり笑った。観光客の顔で、およそ観光じゃないことを言った。


「夜、見に行こう。招かれずにね」


 支度の日は、長かった。夜が来る前に、俺はノアに留守番を頼んだ。ノアはしばらく黙って、それから俺の袖を掴んだ。


「……てつだう」


「今夜のは、手伝いの要らないやつだ。見て、帰ってくるだけ。……留守番も仕事だぞ。フィムの寝床、守っててくれ」


 省エネ中のフィムを枕元に置くと、ノアは渋々、布団の番人になった。


「……はやく、かえって」


「ああ。朝メシまでには」


 言ってから、胸の奥で《誓約》が聞き耳を立てる前に、口の中で付け足した。なるべく、と。





 夜半の屋敷は、灯籠の火が半分に減っていた。


 塀を越えるのはガロの仕事だった。俺を米俵みたいに脇へ抱えて、助走三歩で土塀の上へ。着地の音は、驚くほどしなかった。狼ってのは、でかいくせに足音を置き忘れてくる。


 ヴァンは、というと、いつの間にか庭の内側に立っていた。どうやって越えたのかは、見えなかった。特級ってのはそういうものだと、諦めることにしている。


 奥の蔵は、近づくほどにおかしかった。


 白壁に、錠前は三つ。だが《観察》が拾うのは錠じゃない。壁のそこかしこに、御札みたいな紙が貼られている。墨で名前らしき字が書かれ、そのどれもが、半分がた掠れていた。名紙だ。あの網子の家で、ヴァンが授けたのと同じもの。ただし、こっちは守りには見えなかった。


「……蓋、ですかね」


「うん。中の何かに、外の名を舐めさせないための、ね」


 ヴァンが錠前に指で触れると、三つとも、音もなく外れた。特級ってのはそういうものだ。


 扉を引く。生ぬるい、潮と黴の混ざった風が、中から流れ出てきた。


 蔵の中は、広かった。外から見た倍はある。床が掘り下げられて、地下へ続く木の階段が口を開けていた。降りるほどに、あの音が近くなった。世界の底板が軋む、低くて深い音。壁に触れた指先まで、震えが伝ってくる。


 階段を降り切って、ガロが持っていた提灯の火が、届く範囲を照らした。


 最初に見えたのは、檻だった。


 船の帆柱みたいな太い木の格子が、地下蔵をまるごと囲っている。格子の一本一本に、名紙がびっしりと巻かれ、そのどれもが煤けて掠れている。


 檻の中に、影がいた。


 一つじゃない。十、二十——数えるのをやめた。濡れた墨を人の形に流したような、細長い影の群れ。顔のあるべき場所に、目はなく、縦に裂けた口だけがある。息を合わせたみたいに、ゆっくり揺れている。


 その胸の奥で、灰色の芯が、鈍く明滅していた。


「……ガロ。あの芯、覚えてるか」


「忘れるかよ」


 ガロの声が、低く軋んだ。アルディアの草原で、俺たちが何十と見た芯だ。倒せば灰になる、あの獣たちの。


「剪定獣だ」


 ヴァンが、静かに言った。


「姿は違うけどね。綻びから漏れたやつが、この世界の理に合わせて化けた。……ここでは存在の核は名だから、名を喰う形になった。名喰いの正体は、これだよ」


「化けるんですか、あいつら」


「水は器の形になる。あれも、似たようなものさ」


 感心してる場合じゃないのに、寒気が背中を上がっていった。世界ごとに理が違うなら、あいつらは世界ごとに別の顔で湧く。灰色の獣は、灰色の獣だけじゃないんだ。





 檻に沿って回り込むと、商売の棚があった。


 漆塗りの箱が、薬棚みたいにずらりと並んでいる。ヴァンが一つを引き出すと、中には折り畳んだ証文と、小さな木札。木札の表面に、青白い光がうっすらと膜を張っていた。


「抜け殻の名、だね。喰わせて、吐かせて、札に移す。……人から剥がした名は、こうして売り物になる」


 ふた月に九件。番所の帳面で墨の掠れた升の数だけ、ここに箱がある。売られたんじゃない。狩られたんだ。あの網子も、樽職人も、隠居の婆さまも。怯えて名を売りに来る客は表の商い、こっちは仕入れの直取りってわけだ。


(外道が。仲立ちが聞いて呆れる)


 握った拳を、ガロのでかい手が上から押さえた。見ると、ガロ自身の拳のほうが、俺のより固く震えていた。人のこと言えない男に止められて、少しだけ、頭が冷えた。


 そして、檻の中心に、それはあった。


 影たちが、囲むように距離を空けている、その真ん中。石の台座の上に、砕けた結晶のかけらが載っていた。


 拳ひとつぶんの、透きとおった破片。割れた断面はどこまでも細かく、中に、光の粒が雪みたいに沈んでいる。見た瞬間、喉の奥が勝手に動いた。綺麗、なんて言葉は出てこなかった。あれは、そういうものじゃない。理屈より先に、体が分かっていた。


「ヴァンさん。あれ」


 返事は、すぐには来なかった。ヴァンは破片を見たまま、動かなかった。いつもの飄々が、顔から剥がれ落ちていた。


「……種だ」


 声が、掠れていた。


「砕けた、小さな世界のかけらだよ。どこの世界かも、もう分からないくらいの」


 種。ヴァンの言った、あの種だ。刈られた世界が還る形。それが、こんな地下蔵の、外道の商売の真ん中に、置かれている。影たちは台座に近寄らず、けれど一匹残らず、かけらのほうへ顔を向けていた。灯に集る虫が、火だけを遠巻きにしているような、群れの形だった。


「手綱、なんですね。あれが」


「だろうね。あの子らは、ああいうものに引かれる。……鵺代がどこであれを拾ったのかは知らないが、飼うための杭に使ってる」


 ヴァンの手が、格子の隙間へ伸びかけて、止まった。指が、台座の手前の空気を掴んで、震えて、下りた。喉が、二度動いた。音は、出なかった。


「……ヴァンさん?」


「回収は、しくじれない。準備が要る。今夜は、見るだけ——」


 言い終わる前に、頭上で鐘が鳴った。


 屋敷じゅうの犬が吠え、複数の足音が母屋から庭へ散っていく。見つかったのは、俺たちか。それとも別の何かか。考えるより先に、地下蔵の空気が変わった。


 檻の中の影たちが、一斉に、同じ方向を向いた。


 俺たちじゃない。階段でもない。東の壁——その向こうの、坂の下の、湊のほうを。


 格子が、内側から軋んだ。名紙が一枚、燃えもせずに黒くなって、剥がれ落ちた。二枚、三枚。太い格子に、蜘蛛の巣みたいな罅が走る。


「まずい、手綱が切れる! 二人とも、上へ!」


 ヴァンの怒鳴り声を、俺は半分しか聞いていなかった。頭の中で、影たちの向いた先へ、坂の下へ、まっすぐ線を引いていた。線の先には宿がある。宿には、布団の番人がいる。


 格子が、砕けた。


 墨色の洪水が、俺たちの脇を素通りして、階段を駆け上がっていく。追う足が、途中から祈りに変わった。間に合え。頼むから、間に合え。


 群れの向かう先は、湊だ。ノアのところだ。


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