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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第38話】名の商人

 着いて五日目の晩、俺たちは鵺代の屋敷の門をくぐった。


 湊を見下ろす高台に、黒い瓦の屋根が波みたいに連なっている。門から玄関まで、敷石の両脇に灯籠がずらりと並んで、どれも惜しげなく火が入っていた。日が落ちたら灯りを仕舞う湊の家々を、坂の上から見物するみたいな明るさだった。


「……趣味が悪いな」


「静かに。屋敷ってのは耳が多いんだよ」


 ヴァンが軽く言った。ガロは着慣れない上物の羽織の襟を何度も直して、ノアは俺の半歩後ろで、灯籠の列をじっと数えていた。フィムは胸ポケットで居眠り中だ。燃費の悪い世界で夜更かしはさせられない。


 通された広間は、畳の匂いも新しい五十畳だった。膳が並び、湊の主だった商人たちが末席にかしこまっている。その一番奥、床の間を背にして、恰幅のいい男が座っていた。


 絹の羽織。指には、大ぶりの珊瑚が嵌まっている。笑うと目が糸になる、福々しい顔だった。


「ようこそ、遠来の渡り手様がた。鵺代にございます」


 声は柔らかかった。柔らかいのに、広間の商人たちの背筋が、その一声で揃って伸びた。


「目利きの様、でかいの様、ぎんの様、それに風来様。……ご高名は、湊の風がみな運んでくれますでな」


 通り名を、ひとりずつ、間違えずに。着いて五日のよそ者の呼び名を、この男はもう仕入れ終えている。


「文のお招き、痛み入ります」と、ヴァンが如才なく頭を下げた。「して、追伸の一件は」


「おお、お読みいただけましたか」


 鵺代は糸の目のまま、扇子を一度、ぱちりと鳴らした。


「渡り手様がた、名の値段は、ご存じかな」





 膳は、豪勢だった。腕くらいある魚の姿焼きが出て、ガロが夢を一つ叶えた。骨まで食う勢いの獣人に、給仕の女中たちが目を白黒させて、三度もおかわりの皿を運んだ。座の空気がわずかに緩んで、それが計算ずくの緩みだってことくらいは、俺にも分かった。


 膳が進んでから、鵺代は商売の話を始めた。隠す様子は、まるでなかった。


「手前どもの商いは、船と蔵と両替。それにもうひとつ、名の口入れにございます」


「名の、口入れ」


「困っておいでの方から、名をお譲りいただく。入り用の方に、お譲りする。ただの仲立ちで」


 湯呑みを持つ手が止まった。譲る。名を。この世界で名がどういうものか、俺は初日に煙管で脛を打たれて教わっている。財布の中身どころじゃない。人の芯そのものだ。


「売る側に、何が残るんです」


「銭が残ります。ひと冬の薪と飯が。……目利きの様、湊の冬は冷えますでな。名と命なら、どちらが先かは、腹の減り具合が決めますのさ」


「で、買う側は」


「古い名は、それだけで力ですでな。潰れた大店の名で新しい店の看板を立て直すもよし、仇持ちの旦那が古着に着替えるもよし。買うたものを、どう使おうと勝手でしょう」


 慇懃な声の底に、初めて凄みが混ざった。広間の商人たちは、膳に目を落として微動だにしない。


(……この宴、俺たちへの顔見せじゃない。湊への見せつけだ)


 渡り手すら膳に着かせている、という絵。それをここの連中に見せるための席だ。


「名を売った人間は、どうなる」


 聞いた声が、思ったより低くなった。鵺代は扇子で口元を隠した。


「さて。手前は仲立ちですで、売られたあとの暮らしまでは」


「薄れるんでしょう。女房に客と呼ばれて、子どもに数で数えられて、位牌の墨まで抜けていく。……網干し場の裏で、見てきましたよ。あんたの証文の外で、同じことが起きてる」


「それは、それは。名喰いとやらの被害の方ですかな。近頃は物騒で」


 鵺代は、笑みを崩さなかった。


「ですが妙な話で。夜が物騒になるほど、手前の店の証文は増えますのさ。どうせ喰われて灰にされるくらいなら、銭に替えておこう——皆さま、そう仰る」


 箸を置く音が、自分でも聞こえた。百鬼の夜が深くなるほど、この男の蔵は太る。怯えがそのまま仕入れになる。アルディアで見た、あの監察卿を思い出す。帳簿一冊で辺境を切り捨てかけたバルデス卿は、世界を数字で刈った。この男は、怯えで刈る。


「ときに、目利きの様」


 鵺代の糸の目が、俺の隣へ滑った。ノアの上で、値踏みするように、一拍止まった。


「連れ様の銀の御髪は、めずらしい。……どちらの、お生まれで」


「遠くです」


 俺は、それだけ返した。膳の下で、ノアの袖が俺の袖に触れた。





 座敷の空気を換えたのは、音曲だった。


 襖が開いて、若い男が三味線に似た楽器を抱えて入ってきた。齢は俺と変わらない。楽士にしては影の薄い、というのが第一印象で、弾き始めた途端、その印象は裏返った。


 うまい、なんてもんじゃなかった。潮の満ち引きと、櫓の軋みと、風鈴と、この湊で聞いた音が全部、糸の上に載っていた。広間の商人たちの箸が止まり、ガロですら口を開けて聴き入っている。


 ノアは、身じろぎもしなかった。曲が終わってから、ぽつりと言った。


「……いまの、もっと」


 楽士は目を丸くして、それから、柔らかく笑って二曲目を弾いた。今度は短い、子守唄みたいなやつを、ノアのほうへ向けて。


 宴がくずれて席が動いたとき、俺はその楽士の隣に座った。


「すごい腕ですね。名のある人なんでしょう」


 世辞のつもりだった。楽士は手を止めて、諦めたみたいに薄く笑った。


「名なら、ないんです。……売りましたから」


「売った」


「三年前の冬に。楽器を買う銭と、音の続く指が欲しくて。鵺代様は、ちゃんと払ってくれましたよ」


 スズ、と皆は呼びます、と彼は言った。楽器の糸巻きを、指の腹で撫でながら。


「僕の名前は、もう、僕のじゃないんです。どこかの誰かが、僕の名で暮らしてる。だからときどき、自分がここにいるのか、分からなくなる。……でも、音は残った。悪い取引じゃなかったと、思うようにしてます」


 思うようにしてます、は、思えていない人間の言い方だった。俺は手帳を出して、聞いた。


「スズさん、って書いても」


「……書いてくれるんですか、僕を」


 書いた。楽士のスズ、腕は湊一番、と。覗き込んだスズは、しばらく黙って、それから二曲目よりやさしい声で「変な人だなあ」と笑った。





 帰り際、俺は庭で足を止めた。


 広い庭の奥に、白壁の蔵が三つ並んでいる。手前の二つは、なんてことのない蔵だ。だが一番奥のやつは、違った。


 《観察》が、勝手に引っかかった。蔵の周りだけ、灯籠の火が痩せて見える。屋根の上の夜気が、熱もないのに揺らいでいる。西の岩場で、あの灰色の亀裂の縁に立ったときと、同じ揺らぎ方だった。


(——同じだ。あの綻びと、同じ気配がする)


「目利きの様?」


 鵺代の声が、背中にかかった。振り向くと、糸の目がこっちを見ていた。笑ったままの、目が。


「奥の蔵が、何か」


「いえ。立派な蔵だなと」


「あれは空で。古い帳面くらいしか、入っておりませんのさ」


 空、と言ったとき、蔵のほうから、音がした。


 低い、長い音だった。船の軋みに似て、船じゃない。獣の唸りに似て、獣でもない。もっとでかくて、もっと深い。たとえば——世界の底板みたいなものが、ゆっくり軋む音。


 ノアが俺の袖を掴んだ。ガロの耳が、ぴんと立った。宴の名残でざわめく屋敷の中で、聞き取ったのは、たぶん俺たちだけだった。


 鵺代は、笑みひとつ動かさずに言った。


「風の音ですよ。……夜道は物騒だ。提灯を、お持ちなさい」


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