【第37話】言えないこと
日の落ちきった桟橋は、もう提灯の火が半分消えて、潮騒ばかりが大きかった。呼ばれるのを怖れて、宵の口から灯りを仕舞う家が多いのだ。
俺はまだ、ヴァンの襟を掴んでいた。
ヴァンは抵抗しなかった。怒りもしなかった。ただ、俺の手の甲をぽんぽんと二度叩いて、子どもをあやすみたいに言った。
「まず、放そうか。ね。しわになる」
「答えたら放します」
「交渉が下手だねえ。それ、放さない側の台詞だよ」
……正論だったので、放した。放してから、あらためて正面に立った。逃がすつもりは、なかった。
「種って形で、あるんですね。剪定された世界が。なら、地球も」
「僕は『種になる』としか言ってない」
「どこにあるんです」
「さて」
「あなたは知ってる」
「どうかなあ」
のらりくらり、糠に釘。いつものはぐらかしだ。ただ、《観察》はそのあいだ、ずっと仕事をしていた。
だから、見えた。
三度目の「どこ」を聞いたとき、ヴァンは一瞬、本当に答えようとしたのだ。唇が開いて、喉が動いた。動いて、音が出なかった。
昼間の、あの座敷と同じ形だった。名のあるべき場所で声が空振りした、あの網子と、寸分違わず同じ。
「……ヴァンさん。あんた」
「おっと」
「言えないんじゃなくて、言えなくされてるのか」
ヴァンは、二拍黙った。それから、降参みたいに両手を軽く挙げて、笑った。今まで見たどの笑いとも違う、疲れた薄い笑いだった。
「——言えない誓いってのも、あるのさ」
誓い。その一語の重さなら、俺は身をもって知っている。軽いやつを自分で破っただけで、膝が抜けて血の味がした。なら、特級渡り手が破れずにいる誓いってのは、いったいどれほどの重さで——考えて、やめた。底の見えない穴は、覗きすぎると落ちる。
「じゃあ、最後にひとつだけ。その誓いに触らない範囲で」
「注文が上手になったね」
「俺が自力で辿り着くのは、あんたの誓いの外ですか」
ヴァンは目を丸くして、それから、今夜初めて、目まで笑った。
「……いい質問だ。それには答えられる。外だよ」
行っていい、ということだ。俺は手帳を出して、一行書いた。
『種。ヴァンは知ってる。言えない。自力なら、外』
書き終えて顔を上げると、ヴァンはもう、いつもの飄々とした顔に戻っていた。ただ、去り際にひとつだけ、独り言みたいに落としていった。
「きみのそういうところ、僕は割と、危なっかしくて好きだよ」
(……褒められた気が、まるでしないな)
■
翌日から、俺たちは依頼の「確かめ」を口実に、湊を歩き回った。
商会と番所の記録を合わせると、名を喰われたという訴えは、帳面の上でふた月に九件。着いた晩の網子で、十人目になる。夜の水際、青白い行列、そして名を失う人間。共通点はそれだけで、喰われた側の年も稼業もばらばらだった。樽職人、両替屋の手代、隠居の婆さま、それに、あの網子。狙いの筋が、読めない。
番所の帳面には、奇妙な跡が残っていた。手代の件の頁だ。届け出の筆跡はしっかりしているのに、届け出た当人の名の升だけ、墨が煤みたいに掠れて読めない。帳面の字までこれだ。番所の役人は、その頁を開いたまま、居心地悪そうに首をひねっていた。
「妙な話で。……この届け、誰が出したんですかな」
出した本人は、いまも湊のどこかで飯を食って、寝て、生きている。生きているのに、帳面のほうが先に、その人を手放していた。
そして、歩けば歩くほど、別のものが目についた。
提灯だ。
軒先の提灯の橙が、場所によって、妙に薄い。最初は火の加減かと思った。違う。紙の色ごと褪せている。社の幟の紅も、水際の鳥居の朱も、同じ側から順に、色が抜けていた。
アルディアの、あの花畑と同じ抜け方だった。
「……西の外れ、見てきます」
「うん。……たぶん、当たりだよ、それ」
色の薄いほうへ、薄いほうへ。湊の西の外れ、防風の松林を抜けた岩場で、俺たちは足を止めた。
岩場の上の宙に、それは、あった。
灰色の亀裂。
高さは人の背丈ほど、幅は指二本ぶん。稲妻をそのまま静止させたような形で宙に浮いて、裂け目の奥には、色も光もない灰色が詰まっていた。狭間の色だ。見ているだけで、耳の奥がしんと冷えてくる。
ガロが低く唸った。ノアが半歩、俺の陰に寄った。フィムが胸ポケットの中で、身じろぎするのが分かった。
「綻び、だ」
ヴァンの声から、観光の響きが消えていた。
「色抜けの、次の段階。……アルディアは、ここまで行く前に引いた」
「アルディアより、進んでるってことですか」
「そういうことになるね」
ガロが亀裂を睨んだまま、拳の骨を鳴らした。
「……で、あれは、殴れるのか」
「殴れない類いだ。たぶんな」
「殴れる類いが出てきたら、オレの番だ。覚えとけ」
頼もしさの方向が一貫している男だった。おかげで、膝の震えがひとつ、どこかへ行った。
背中を、冷たいものが伝った。アルディアでは、俺が色抜けを見てから決戦まで、十日はあった。ここは、着いて三日で、もう次の段階が口を開けている。
それに、だ。あの草原で教わった順番なら、綻びの次に来るのは、獣だ。夜の青白い行列が、頭をよぎる。姿を見た者のない名喰い。宙に開いた灰色の口。線はまだ結ばれない。結ばれないのに、嫌な下絵だけが、先にできあがっていく。
(締切って言葉を、こんなに嫌いになる日が来るとはな)
その晩、宿の窓辺で、ノアがぽつりと聞いた。
「……ここも、かられるの」
「刈らせない」
言ってから、しまった、と思った。《誓約》が胸の奥で、耳をそばだてる気配がした。慌てて息を整える。糸は、張られていない。まだ腹の底の声じゃなかったらしい。危ないところだった。この界律の前で、安請け合いは命取りだ。
「……刈らせないように、やる。今度は最初から間に合ってる。アルディアより早く見つけた。悪くない材料だ」
「ん。……てつだう」
ノアは窓の外の、提灯の橙をしばらく見ていた。薄れかけの橙を、まだ薄れていない目で。それから、懐から例の薬瓶を出して、蜜煮を一粒だけ、俺の手のひらに置いた。
「……あまいのは、きく」
「三粒しかない持参分だろ、それ」
「きくときに、きくのが、いい」
言い返せない理屈だった。甘くて、少し酸っぱくて、確かに効いた。
■
鵺代、という名前を初めて聞いたのは、その翌朝だった。
宿の帳場に身なりのいい小僧が立っていて、漆塗りの文箱を差し出してきた。宿の主人は、文箱の紋を見た瞬間、あからさまに背筋を伸ばした。
「ぬ、鵺代様からだよ、渡り手様がた……!」
「鵺代?」
「湊の顔役様さ。船も蔵も両替屋も、この湊の半分はあの方のもんで……」
主人の声が、勝手に小さくなっていく。畏れというより、関わり合いを避けたい声だった。
文は、流れるような崩し字で書かれていた。つまり、俺には一文字も読めなかった。ヴァンが横から覗き込んで、すらすらと読み上げる。
「『遠来の渡り手様がたのご高名は、かねがね。つきましては明晩、粗餐を差し上げたく』……要は、飯に来いってさ。豪勢だねえ」
「行くんですか」
「行くさ。湊の半分を持ってる男が、着いて四日目のよそ者を宴に呼ぶんだ。向こうから情報が歩いてくる。断る手はないよ」
ヴァンは文を畳みかけて、ふと、手を止めた。
「……追伸があるね」
読み上げる声が、一段、低くなった。
「『渡り手様がた、名の値段はご存じかな』」




