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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第36話】名喰い

 湊の朝は、静かすぎた。


 桟橋には人が出ているのに、掛け声がない。荷を運ぶ人足も、魚を並べる女たちも、みんな声を落として、目を合わせずに働いていた。昨夜の青白い行列を見たのは、俺だけじゃないらしい。


 当の俺たちの朝は、宿の飯台から始まった。ガロが飯を七杯おかわりして、女将さんの顔が青くなった。


「た、旅のお方、うちは宿賃に飯代が込みで……」


「込みの上限を聞いておこう。あとで揉めないために」


 フィムが胸ポケットから顔だけ出して「えらい……メグル、経費の心得がついてきた……」と薄い声で感動していた。誰のせいで身についたと思ってるんだ。


 船着き場の小屋で、トメ婆さんが煙管をふかしていた。俺の顔を見るなり、しわの奥の目がすっと細くなった。


「……夕べのあれを、見たね」


「窓から、少しだけ」


「ほどほどにしなと言ったろうに」


 婆さんは煙を吐いて、対岸の水際へ顎をしゃくった。


「百鬼だよ。名を失くしたモノらの、成れの果てさ。夜な夜な、ああして名を探して歩く。……で、夕べは、探すだけじゃ済まなかった」


「というと」


「一人、喰われた。網子の若いのが、夜の水際で行き合っちまった」


 喰われた。名を、だ。ギルドの記録紙の隅にあった、あの要領を得ない訴えと同じ言葉が、着いて二日目の朝にはもう、現物になって転がっていた。


「喰うのは、百鬼なんですか」


「さあね。百鬼は呼ぶだけ、って言う年寄りもいる。夜のうちに名を喰っていく何か——姿を見た者は、いないよ。湊じゃ『名喰い』と呼んでる。呼び名をつけると、少しは怖くなくなるからね」


「行こうか」


 いつの間にか後ろに立っていたヴァンが、軽い声で言った。目は、軽くなかった。


「依頼の確かめってやつだ。それに、こういうのは早いほうがいい。……忘れられる前にね」





 その家は、湊の外れの、網干し場の裏にあった。


 通されたのは薄暗い奥の間で、若い男が一人、手つかずの膳を前に、ぽつんと座っていた。日に灼けた、漁師らしいいい体格で、怪我ひとつない。ただ、様子だけが決定的におかしかった。


 男の女房だという人が、俺たちに頭を下げて、それから座敷の男を見て、困った顔をした。


「すみません、渡り手様がたの前で、その……お客人を上げた覚えが、なくて。どちらさんでしたかねえ」


「おれだよ、さよ。おれだ」


 男が、掠れた声で言った。女房は、眉を下げて笑った。知らない人に世辞を言われたときの、あの顔だった。


 男は俺たちのほうへ向き直って、畳に手をついた。


「なあ、渡り手さんよ。あんたら、よそから来たんだろ。おれの名前、知らねえか」


「……何があったか、聞かせてもらえますか」


「夜網の帰りだ。水際で、あの青白いのに行き合った。逃げりゃよかったのに、腰が抜けた。行列の後ろに——行列より黒いのが、いた気がする。そいつに、口ん中へ手ぇ突っ込まれた気がする。朝起きたら、これだ」


 男は自分の口を開けた。喉が動いた。何度も、何度も動いた。音は出なかった。名のあるべき場所だけ、声が空振りする。


「言えるんだ、ここまで出てるんだ。おれの名だぞ。生まれてこの方、呼ばれてきた名だぞ。なのに、出ねえ。女房はおれを客だと思ってる。餓鬼は、おれの横を素通りしていく。仏壇の位牌の、親父の隣に書いてあったおれの名前も……朝見たら、墨が薄れてた」


 話の途中で、五つくらいの男の子が奥の間を覗きにきた。男の膝の横をすり抜けて、女房の袖に隠れて、俺たちを珍しそうに見てから、小さな声で聞いた。


「かか。……このひとたち、だれ?」


 このひと「たち」。男の子の目は、俺たち渡り手と、自分の父親を、同じひと括りで数えていた。男の背中が、音もなく丸くなった。


 墨が、薄れてた。


 その一言で、腹の底がすとんと冷えた。


 見覚えがある。会釈されなくなる洗い場も、三度目の初対面も、書いても朝には薄れる手帳の墨も——アルディアの最後の五日間、俺が内側から見ていた景色と、寸分違わず同じ形だ。


 ただ、あっちは俺の「体質」で、俺一人の勘定だった。ここでは、それが、ただの漁師に起きている。


 隣で、小さな音がした。


 ノアが、俺の袖を、握りつぶすほど強く掴んでいた。顔から色が抜けて、唇が薄く開いて、目だけが男に釘付けになっている。


「……ノア」


「わたし、しってる」


 声が、平べったかった。感情の乗せ方を忘れた、出会った頃の声だった。


「保護院で、みんな、こうなった。すこしずつ、うすくなって、よばれなくなって。……きえるまえの人と、おなじ」


 保護院。世界を失くした漂流者たちが暮らす、都市のあの家でだ。この子は三年間、消えていく順番を、隣の部屋で何人ぶんも見てきている。


 ガロが、無言で立ち上がって、外へ出ていった。しばらくして、網干し場の杭を殴る鈍い音が、一定の間隔で聞こえ始めた。殴れる相手のいない怒りってのは、ああやって捨てるしかない。


 ヴァンだけが、静かだった。男の前に膝をつき、目の高さを合わせて、短い問いを重ねていく。いつ。どこで。触られたのは口だけか。声は聞いたか。男の答えは切れ切れだったが、ヴァンはそのひとつひとつに、丁寧に頷いた。


 俺は俺で、手帳を出した。人の名前を書き留めるのが、俺の係だからだ。日付、場所、聞き取った話。書けるものは全部書いて、最後の升目だけが、どうしても埋まらなかった。名前の欄だ。男が言えず、女房が思い出せず、位牌の墨が手放したものを、よそ者の俺が知っている道理がない。


 『網干し場の裏の家の、若い網子。名は空白のまま』


 書きかけの一行の、こんなに悔しい空白は初めてだった。


 帰り際、ヴァンは女房の手に、銀の粒をいくつか握らせた。


「この人の名前を書いた紙を、家じゅうに貼るといい。薄れたら、書き直す。何度でもだ。……気休めだけどね。書き直す手が覚えてるうちは、綱になる」


(……気休めと言い切っちまうのが、あんたの優しさか)


 女房は深々と頭を下げた。誰のための銀か、たぶんもう分かっていない顔で。





 夕暮れの桟橋で、ヴァンは一人、海を見ていた。


 俺は隣に並んだ。聞きたいことは山ほどあって、どれから聞けばいいのか分からないまま、口が勝手に動いた。


「喰われた名前は、どこへ行くんですか」


「さあね。まだ分からない」


「じゃあ、質問を変えます」


 夕陽が雲の裂け目から海に落ちて、波の頭を橙に染めていた。綺麗だと思う余裕は、なかった。


「消された世界は、どこへ行くんですか」


 ヴァンの横顔から、いつもの薄笑いが、すっと消えた。


 長い沈黙だった。波が桟橋の脚を叩く音だけが、数えられるくらい、はっきり聞こえた。


「……剪定された世界はね、種になるんだよ」


「…………種?」


「刈って、燃やして、灰にする。そういう話だと、きみは思ってた? 違うんだな、これが。……おっと」


 ヴァンは自分の口を、手の甲で軽く叩いた。芝居がかった仕草だったが、目は笑っていなかった。


「喋りすぎた。この話は、やめよう」


「やめないでください」


 種。種と言ったか、この人は。刈られた世界は、灰になって消えるんじゃない。種になる。種ってのは、植えれば芽が出るものの名前だ。


 気づいたら、ヴァンの襟を掴んでいた。特級渡り手相手に、後にも先にもない狼藉だろう。手が震えていた。声も震えていた。それでも、ここで聞かずにいられるやつがいたら、そいつは故郷を消されたことがないんだ。


「地球の種は、どこにある」


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